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乙女譚  作者: 毛野智人
3/15

(三)

 もう地上の光を見なくなって幾星霜が過ぎた。

 父神との戦いの末にハデスは己の支配地として冥府を預かっている。弟達が光の当たる領域を治めていることに不満はなかったが、矢張り暗い冥府での生活には寂しさを禁じ得ない。会う者といえば死者ばかりで、ハデスは「生きる」ことが如何なることかさえ忘れそうだった。

 そんな日々を漫然と過ごしていたとき、愉しげな笑い声が耳に入った。地上からしたものと思われた。

 それはまだうら若き乙女の声に相違なかった。

 無邪気に戯れる乙女のさえずりにハデスは花の色を思い出した。冥府で見かけるくすんだ色ではない、光の下で見える鮮やかな色だ。そこへ花の香りすらするようだった。

 渇き切っていたハデスの心に彩りを起こさせたのは一体どこの誰なのだろう。

 ハデスはその声の主を求めて、大地の小さく裂けたところからそっと覗き見た。

 その乙女の姿に、冥府の王は嘆息した。

 美しい。

 陽の光を一杯に浴びて、輝いている。

 小麦色の髪も、薔薇色の頬も、ハデスとは正反対の明るさで輝いている。

 惜しげもなく天地の恵みを享受し、放出するその姿に焦がれた。

 あの乙女が、側に居てくれたら。

 この暗い冥府での生活も変わるのだろうか。

 大地の裂け目から垣間見たその微笑みが自分自身へ向けられたなら、どんなに素晴らしいだろう。

 ハデスはこのままここで死者達に囲まれるだけが当たり前だと思っていた。それが冥府の王の務めだと。

 だが、彼女を見てしまったことで全てが変わってしまった。

 ――私の側にあの光が欲しい。

 忘れかけていた生命の輝きが欲しい、と切望した。

 兄であるハデスの望みをどこからか嗅ぎつけたゼウスは、オリュンポス山へハデスを呼び寄せた。久しぶりに直接まみえた兄をゼウスは歓待した。そしてあの乙女のことを切り出した。

「近頃執心の娘がいると聞いたぞ」

 ハデスは眉を顰めて抗議する。

 それをゼウスは宥めた。

「まあ、待て。恋の噂話というものはどこからともなく漏れ伝わってしまうものだ」

「恋?」

 ハデスは益々不審がる。

 ゼウスは面白がるように、無知を嘲笑うように、続けた。

「そなた自身の心の裡のことだ。彼女のことを忘れられないのであろう? 手に入れたいと思うのであろう?」

「そのような身勝手なことは…!」

「ないと申すか。まあ、今はそれで良いのかもしれぬ。遠くから見るだけで良いとでも考えているのかもしれぬ。だがな、そんなものはすぐに堪えられなくなるぞ。近付きたいと、触れたいと思うに違いないのだ」

「何故そのように言い切れる」

「それはな、兄よ。そなたがその娘に恋をしているからだ」

 恋。

 これが、恋だと?

「それにな、私はその娘が何者か知っておるぞ」

 ゼウスの一言にハデスは目の色を変えた。

「本当か?」

 恋人を攫いに行く男の顔になったハデスにゼウスは笑みを向ける。

「ああ。あれは我らとそう遠くない縁の者だ」

 自身の縁者と教えられ、ハデスはすぐにめぼしい人物に思い至る。

「まさか…デメテルの娘か?」

 ゼウスとハデスと同じ親から生まれた大地の女神デメテルには、美しい娘がいると聞いたことがある。大地に恵みをもたらす者が母であるなら、あの乙女の瑞々しい姿にも納得がいく。

「あの娘は昼の間はニューサの山の中でニュンペ達と遊んでいる。一人ではないからとデメテルは油断しているが、側にいるのはか弱い妖精どもだ。そなたの力には敵うまい」

 だから力尽くでも奪ってしまえ、と恋に慣れた大神は誘う。

「…そのようなことはできぬと言っているだろう」

 ゼウスがそそのかすのを聞き流したいのに、ハデスの心は奸計に傾きつつある。

 兄の混迷する様を見て、ゼウスは更にけしかける。

「生真面目な兄のこと。何も遊びであの娘を欲しているわけではあるまい?」

 ハデスは答えなかったが、ゼウスはそれを肯定と取った。

「ならばめとってしまえば良いのだ。正式に妻とするなら、誰も異論はあるまい。異を唱える者があっても、この私が認めさせよう。——どうだ? これでもまだ、自分を偽り続けるのか?」

 ゼウスの好奇な眼差しに耐え、ハデスは努めて冷静を装った。

「それはあくまでもそなたの考えだ。どうするかは私が決める」

「そうだな。それは全くその通りだ」

 ゼウスはあっさりと頷く。しかし退き下がったわけではなかった。

「だがな、賢明に判断せねば、後で悔いるやもしれぬ。そのことは肝に銘じておくが良い。できることをせぬのは、見苦しいぞ。それに、私はそなたのためになるなら惜しまず力を貸すつもりなのだからな」

 弟とはいえ、手にした力は兄より大きい。ハデスは今更、ゼウスに上から物を言われて不快に感じるような若さは持ち合わせていない。だから、ゼウスが何を言おうと構わないというのが常だ。だが、今回は気に入らぬ。恋などという軽薄な感情に自分が煩わされるなど、考えたこともなかった。そもそも恋とは、生産のための欲求であるのだから、死の世界に在るハデスには不要のものだ。

 故に、恋など有り得ぬ。そう自分に断じてゼウスと別れた。

 それなのに、今のこの有様はどうしたことだ。

 賢明に判断せねば、後で悔いるやもしれぬ、とゼウスは言った。

 結局それは正しかった。

 何故もっと冷めたままでいられなかったのだろう。

 唆されたせいもある。しかし、やったのは己だ。

 再び、声が聞こえて。ただそれだけで、堪らなくなって。


 ハデスは目の前で眠っている乙女を見つめ、深く後悔した。

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