(十四)
ペルセフォネが気を失ったまま目覚めないとの報せを受け、デメテルは失意の底に突き落とされた。何故こんなことが起きたのか。原因を考えて真っ先に浮かんだのはハデスのことだ。ペルセフォネが冥界にいた間に何かあったのではあるまいか。デメテルは原因究明のためにハデスをオリュンポスへ呼び寄せるよう急ぎゼウスに訴えた。ペルセフォネが目覚めないことを憐れんだゼウスは珍しくデメテルの要求を快諾し、ヘルメスにハデスを呼ぶよう言付けたのだった。
駿馬と名高い黒馬を駆って来たのだろうか、デメテルが思ったよりも早くハデスは到着した。その姿を見るなり腑がかっと熱を持ち、デメテルは掴み掛からんばかりの勢いでハデスに詰め寄った。
「貴様! 我が娘に何をした!」
ハデスは何のことか解らないという顔で、眉を顰めてデメテルを見返している。
「デメテルよ、まだハデスが何かをしたと決まったわけではない。抑えよ」
ゼウスが困ったようにデメテルを諌める。デメテルは憎らしげにゼウスとハデスの両名を睨んだ。この者達の奸計によりペルセフォネは危険な目に遭ったのだ。断じて許さぬと心に固く誓う。
「ペルセフォネに何かあったのか?」
不安を露にしてハデスが尋ねる。
怒りに震えるデメテルを一瞥し、冷静な顔をしてゼウスが説明を引き受けた。
「突然に眠りに着いた。死したわけではないが、身体は冷たい。何故このような状態になったのか解らぬのだ。そなたに何か知恵があればと思い、呼び寄せたのだが」
ハデスは青白い顔を更に蒼くした。
「まさか」
そんなことはあり得ない。あり得ない筈だ、とその表情は語っている。
「そなた、これがどのような事態かは解っているのだな?」
兄の表情を読み取ったゼウスの問いにハデスは俯きはしたが、頷きはしない。暫しの思案の末にやっと重い口を開いた。
「可能性の一つは思い当たる。だが、本当にそれが今起きていることと合致するかどうかは解らぬ」
煮え切らぬ答えにデメテルは歯噛みする。これでは何のためにハデスを呼び寄せたのか解らないではないか。
瞋恚に燃える大地母神の双眸を冥王は澄んだ暗き眼で見据えた。
「故に、ペルセフォネに会わせて欲しい。私の考えが合っているかどうか、実際に彼女を見て確かめたい」
ハデスの視線を受けて、デメテルはひどく嫌な気分に襲われる。それは冥界からの去り際にペルセフォネとハデスの二人が視線を交わすのを見たときに感じたのと同じ感覚だった。
自分より乙女を大事に想う者がいてはならない。彼女がいてこそ、この世界は美しい恵みに満ち溢れているのだ。彼女のために自分は生きているのだ。
――それなのに、何故。
貴様も乙女が大事だという顔をしているのだ?
「…良かろう」
結局デメテルは、ここでハデスの申し出を断れば相手が自身よりもペルセフォネを想っていると認めることになるような気がして、渋々ながら承諾してやったのだった。
デメテルが守護する山の中でペルセフォネは眠っている。瑞々しい草花の褥に身を横たえ微動だにしないものの、未だ褪めていない血色から死んではいないことが解る。そもそも不死の神が死ぬ筈はないのだが、それでも彼女が生きていることを自分の目で確認したハデスはひどく安堵しているように見えた。
「それで、どうなのだ? コレーの容態は?」
ゼウスが心配すると、ハデスは重苦しく答えた。
「…恐らく彼女は冥府の食べ物を食べたのだろう」
「なんということ!」
デメテルは悲鳴を上げた。
地上の実りはデメテルの力によって齎される。大地から生命力を蓄えて育つが故に、それを食す者にも生の力を分け与える。しかし冥府まではデメテルの力は及ばず、冥府において成った実りに命はない。それを食べれば、生の力を得られないばかりか、生者が元来持っている生命力が失われ、身体の内から死に侵される。やがては陽も届かず生の匂いもしないところにしかいられなくなる。つまり、死者と同じ生活を余儀なくされるのだ。
その状態に今、ペルセフォネがあるとハデスは言った。
「貴様が我が娘を唆して食べさせたのであろう? 寂しがるあの子を慰めるふりをして」
「そのようなことはない。確かに寂しさが紛れれば良いと思って饗応はした。しかし私は彼女に決して食べるなと言ったのだ」
「ならばコレーは自らの意思で冥界の虚ろな実りを口にしたと言うのか」
馬鹿な、とデメテルは吐き捨てる。
「コレーは地上に帰れなくなると知りながら自ら手を出すような愚か者ではない」
「それは私も存じている。彼女は実に聡明な娘だ。だからこそ、何故このようなことになったのか得心できぬ」
デメテルに応酬するハデスの物言いは、まるでデメテルと同等にペルセフォネのことをよく知っているかのようだ。その態度に益々気が立つ。
「そもそも貴様がコレーに余計な手出しをしなければこのようなことにはならなかったのだ。大人しく冥界に籠っておれば良いものを、何故…何故!」
デメテルは怒りに任せて恨み言を吐き出した。
それをハデスは静かに寂しげに聞き留める。
「私の気もおかしかった。本当に、済まないことをしたと思っている」
「やめろ。謝罪など。コレーはもう元の乙女ではないのだぞ。貴様に謝る資格などない!」
悲憤の涙がデメテルの頬を伝う。
「――お母様。どうか、お許し下さい」
それは、紛れもなく彼女の声だった。朝の小鳥の囀りにも似た愛らしい声音。まだひ弱だが、確かに聴こえた。
はっとして足許を見遣れば、ペルセフォネが薄く目を開けてデメテルを視ている。
「コレー!」
その場にいた者達全員が乙女の目覚めに感嘆した。
「良かった。もう目覚めないかと案じていたのだぞ」
デメテルは仰臥するペルセフォネの許に膝をついてその身に寄り縋る。
乙女は微かに笑み、母を慰めた。
「ごめんなさい。でも、もう大丈夫です」
「大丈夫なものか…! こんなに冷たくなっているのに」
「さあ、どうぞ涙をお拭きになって。折角の美しい顔が台無しですわ」
必死に娘を心配する母を制するように、ペルセフォネは優しい笑みで応えた。
そのとき、デメテルの心中を言い知れぬ虚しさが支配する。
「本当に大丈夫なのです。やっと、お会いしたい方に会うことができたので」
ペルセフォネはゆっくりと首を傾ける。
榛色の瞳に黒衣の男を映して、乙女はこの上なく美しく咲んだ。
――嗚呼、そんな。まさか。
デメテルは直観した。
乙女は冥王を愛しているのだ。




