(十二)
闇の世界に君臨する王は再び孤独を食む日々を過ごしていた。
ペルセフォネが居ようが居まいが、冥界に別段変わりはない。死者が訪れては新たな住人となっていく。それを見届けるだけ。しかしそれはペルセフォネが居る間も同じだった筈だ。彼女はずっと与えられた部屋に籠っていたのだし、ハデスの訪いがなければ言葉を交わすこともなかっただろう。
それでも何かが違うのだ。何か。強いて言えば、寒い。ペルセフォネに貸し与えた外衣はとっくに手元に戻り、今も身に纏っている。それなのに寒いとは、おかしな話だ。
そういえば、とハデスはふと思い出す。
ヘルメスがゼウスの使者として参じたあの日、何故途中でペルセフォネが広間に入ってきたのだろうか。ずっと部屋を出ることのなかった彼女にしては珍しい行動だ。
自分に会いたかった?
まさかな、と一抹の可能性をすぐに打ち消す。
彼女自身のことを考えず乱暴に攫ってきた男に会いたいなどと思うわけがない。
今頃は光が目一杯に届くところで、母の愛を享受しているに違いない。また元のように、ハデスの焦がれたあの笑顔を取り戻しているのであろう。
ハデスが物思いに耽るのも構わず、乱暴に部屋に入って来る者があった。
見慣れた闖入者だ。いつも粛々と務めを果たしてくれている。だが今日は、どうやら苛ついているのが見て取れる。
「おい、冥王」
「どうしたタナトス。死者の魂を連れて帰ってきたのか」
「今はこれから死ぬ人間の髪を一房刈ってきたところだ」
棘のある声でそう言うと、タナトスは持っていた髪の束をハデスに投げて寄越す。
「そんなふうに乱雑に扱うものではないだろう」
ハデスが窘めるとタナトスは苛々したまま反論した。
「どうせ大した奴じゃない。それに、私は自分の役目は果たしているだろうが。こうして死を迎える者の髪を貴方に献上し、その後でそいつの魂を冥界へ連れて来る。だが、今さっき嫌な奴に会って私の役目にない仕事を押し付けられた」
「それでそんなに気が立っているのか」
「ああ、そうだ。奴は英雄の魂しか運ばないくせに何故私に指図をできると思っているんだ? ゼウスの側に仕えているからといって、良い気になりおって」
英雄が死したとき、その魂を冥界へ連れて来るのはヘルメスの仕事だ。対してタナトスは凡人や罪人の魂を連れて来る。死者の案内という仕事においては、タナトスの方が圧倒的に仕事量は多い。
「ヘルメスに会ったのだな?」
タナトスの悪態を無視して問うハデスに、タナトスは吐き捨てるように言った。
「そうだが? そして貴方への言伝を預かった。急ぎ、オリュンポスへ来るようにとさ」
「オリュンポスへ?」
眉を顰めるハデスをタナトスは嗤う。
「多分あの小娘のことだろう。精々自分の鈍感さを悔いるが良いさ」
タナトスが小娘、などと表現する冥界の人物がハデスには思い当たらない。しかし、ここ最近のハデスの記憶で小娘と呼ぶに能う人物は一人しかいない。
「まさかお前、ペルセフォネに会ったのか?」
「会ったとも。ついでに貴方があの娘に惚れていることも教えてやった」
ハデスは絶句する。
それでは、自分の気持ちをひた隠しにしてきた努力が水の泡ではないか。
「いい加減に己を偽るのは止めた方が良いぞ。無駄な気遣いが却って相手を傷付けることもあるからな」
何事かを見透かしているようなタナトスの物言いがハデスの気に障る。ハデスの顔面に苦渋の色を認めると、タナトスはにやついた。
「お前に何が解る、と言いたいのだろうがな、私は死に際の人間を見ている分、貴方より生というものを知っているつもりだ。貴方はもうすっかり死者の国の王におなりだが、確かに生者だ。永遠に死を迎えることがない。自分が生きているということを、もう少し考えてみた方が良いだろうよ」
ハデスは眉間の皺を深くした。
生きている? それはそうだ。だが、それに何の意味がある? 神としてここに在らねばならないというだけの自分に、生の意味を問うなど。それこそ無意味ではないか。
「まあ、機会があれば小娘の気持ちも聞いてみると良い」
納得できないままのハデスを残し、「伝言は果たした」と言わんばかりに手を振ってタナトスは退室した。




