ばっきゃろー
「茶番は終わったか。『ファルちゃん』」
地の底から響くような声はどこか女性めいていました。
「うん」「おい。サワタリ。無粋じゃね? 親子の時間を裂くな」「お前が言うな。ピート」
なにもないはずのお屋敷の壁。
ふわりと風になびくカーテン。いつもの生け花は伯父が摘んできたものです。
花の香りに腐敗臭と血の臭いが混じりだしました。それは喉を焼くほどで。
「お嬢様!」どこからか現れたラフィエルが巨大なオオカミに変身して私の前に立ちはだかります。
ずるずると音を立ててお屋敷の壁が盛り上がり、鱗と血管の浮いた翼をもつ化け物が現れます。
「こんにちは。フィリアスちゃん」異様に可愛らしい声でじゃれるようにつぶやくトカゲと百足と蝙蝠と狼と人間を無理やり融合したような魔物はそうつぶやきました。
「何も知らずに誰でもいいから結婚してればよかったのに。フィリアスのばっきゃろ~!」「一応、約束だからな。履行する義理はないとはいえ『何も知らずに姪が結婚すれば見逃す』ことにしてやっていたからな」
悪態をつく伯父にゲラゲラと笑って見せる『サワタリ』なる魔物。
ふたりを助けなきゃ。あれ。
なぜですか。どうして膝に力が入らないのですか。
がつん。膝が床につきました。私は自らが震えていることに今更に気づいたのです。
剣を取らないと。東方片刃剣は私の部屋にあったはず。
鉛のように重く、力が入らない腕を振るわせ、這うように動こうにも動けず。
「親子そろって死ね。ああ、ついでに貴様もだな。『氷の劔』」「三流悪役みたいだな~」伯父はそう告げると音もなく背中の玩具の長剣を抜きます。玩具の長剣は暗殺用の長巻に変化します。
「おい。ファルコ。娘連れて逃げやがれ」「ぴーとは?」「邪魔」
その様子を笑いながら見ている『サワタリ』の瞳が私を捕えました。
「本当。かわいく育ったわねぇ」長い舌がじゅるりと『サワタリ』の口元から伸び、その縦に割れた瞳を舐めあげて。
「おい。サワタリ。こっちだこっち。オマエはうちの姪には恨みはねえだろ」
伯父のおどけたしゃべり方に焦りが混じっているのがわかります。
父は無言で私と『サワタリ』の間に立ちます。
ラフィエルも父の迫力に少し下がりました。
「ぴーと。どけ」「あほ」
どこからか取り出した短剣を手に、父は怒りの声を上げます。
その表情は見えません。でもどこか泣いているような気がします。
私にはそのとき、父のその小さな小さな背中がとても寂しそうに見えたのです。
「こら愚弟。早くロー・アースたちを呼んで来い!」「呼べ。皆殺しにするだけだ」
「じゃ、あいつら全員来るまで待ってくれ。言質とったからな~。
風呂入ってけ。飯作ってやるぞ~。歓迎するぞ~。『ブブヅケ』食ってくといいぞ~」
オジサン。アナタはドウシテコンナ時デモろんサンのヨウナコトヲ言ワネバ気ガスマナイノデスカ。
ちなみにブブヅケという料理は炊いた米に父たちが好む茶と共に、塩気のある海草の粉末をかけ、さらに強烈に辛くてミントよりスッとする緑色の植物のすり身を入れて、パリパリしたお菓子で歯ごたえもつけたという食べ物です。主に帰宅をする前の相手に出します。チャヅケとも言います。
つまり、『さっさと帰れ』と伯父は言っており。
「サワタリ。君は悪い子じゃない」「おやおや。一番消極的だった『ファルちゃん』が言うワケか」
ケタケタと笑う『サワタリ』にギリっという音。
父が歯を食いしばったのだと後から気づきました。
「この腕を見ろ。産毛じゃない。鱗だらけの腕を。
この牙を見てよ。綺麗でしょ。顎だって人を飲み込めるほど開くの。
この爪、剣みたいで長くて凄いでしょ……。
この目、縦に割れちゃった。おかしいでしょ……ねぇ。『ふぁるちゃん』……もっとよく見てよ。私可愛い?! ねえねぇかわいい?」
私の視界から『サワタリ』が消え去ります。
お屋敷の壁にいくつもの大穴があいて、父がその短剣で『サワタリ』の爪と打ち合うのが見えました。
「おい。ふぁるこ」「手だすなぴーと」「こら、ぼくの見せ場をいつも奪うな愚弟」
憤慨して見せる伯父はそのセリフに反してさっと私の手を引き。
あ。だめ。……そっとラフィエルの背に私を載せて、叩きます。
「任せた」「ご武運を。ピート殿」「愚兄のぼくはさておき、優秀な我が弟があんな奴に負けるワケがねえ。僕だって『神殺し』だぜ」
それ、いつも放言している出鱈目ですよね。伯父さん。
でも……信じます。
信じちゃいます。信じていいよね。
だって、たった一人の大切な伯父だもの。
そして、その前で小さな盾と短剣を手に戦う少年は。
……私の、私の大事な。
「封じられた上位巨人の片目を倒した程度で『神殺し』を名乗るとは片腹痛いわ『氷の劔』。逃げろ逃げろ。すぐに二人とも始末してやる」
「無理」父の姿が複数にぶれます。
『サワタリ』ともども私の視力で追いつかない動きを見せたのです。
「死ね。『Gカッター』!!!」
空を舞う刃が幾重にも煌めき重なり二人を襲うのが見えました。
「お父さん! 伯父さん!」「振り返ってはダメです。お嬢様」
私の伸ばした細い指先は二人に届くことなく、私は執事の変身した狼の背に乗って我が家を逃げ出したのでした。




