勇者の剣
『勇者様』『フィリアス』
男の子の指が動き、私たちの名前を示します。
私の指先が動きます。もう父は大丈夫だと。
こんにちは。フィリアス・ミスリルです。
盗賊の符牒が使える淑女見習いです。どうしてこうなったのでしょう。
それもこれも手癖の悪い伯父のせいです。ええ。
そういうと伯父は当家でのつまみ食いしかしないととても怒りますが。
ラフィエルが怒っているのです。やめなさい。
「両手両足とも痺れはちょっと残っていると思うけど、軽い運動くらいなら」
ぐるぐる巻きにして『絶対動くな。殺すぞ怪我人』と書いた札を張った張本人である高司祭様がそう告げると待っていたかのように父はぐるぐる巻きになった布団と紐をほどいて逃げてしまいました。
「こらっ?! 病み上がりなんだから動くなッ?!」無駄です。ユースティティア高司祭様。
父は国家の英雄なので王族の来訪も控えていたそうなのですが逃げ出すあたりお察しです。
というか、お父さん。私の手を引くのはやめなさい。
もう市場で遊ぶ小さな子供じゃないのですから。ええ。
そういいつつ私たちは市場を一目散に駆け抜けます。
小さな子供たちや大人たちが振り返り、犬や鶏が騒ぎ、足元の異物に注意しつつも父の俊足に振り回されつつ必死で走っていると笑みがこぼれてきます。
私、あまり走るのは得意じゃないのです。動きは機敏だと思うのですが体力的な問題ですね。
「ふぁるちゃんだ?!」「ふぁるこ。てめぇどこ行ってた」
小さな子供やいじめっ子たちが声をかけてきます。
「勇者様だ」「うちの可愛い勇者様! 野菜買っていきなよッ!」
オトナのヒトや兵士さん、八百屋さんなど市場の人もいます。
「あら。ファルちゃん」「きゃー! ファルちゃんだッ」
ちょっと口に出すのは憚られるご職業の綺麗なお姉さんたちもいらっしゃいます。
「フィリアスちゃ~~ん!」露店の一つから手を振るのはかつての学友ですね。先日結婚すると言っていました。
私は見ました。
この市場のあちこちに私と私の父の一族だけがわかるはずの特殊な符牒がいくつも増えていることに。
その使い手の元に私たちは駆けます。
はたして、あの森の中、剣を振る少年は以前会った時の弱弱しさはなく。
『フィリアス。勇者様。ぼく。待っていた』符牒など無くとも、彼の朗らかな笑みは父の回復を喜んでいるのは一目瞭然で。
彼はゆっくりと父に礼をします。
父もその辺の木切れを拾い、彼の前に立ちます。
そういえば父は立ち合いのやり方を私がいる前では絶対教えていません。
練兵の時に私が訪問した場合、どこに隠れていても兵士さんたちに子供のように抱き着いて遊びだすのです。
だから、私は彼の剣技を見たことがなく、父の武術のいくばくは伯父からの伝聞と再現のみで習得せざるを得ませんでした。
「ね。見ていていいの?」父はその背で肯定します。
小さな背です。どうみても幼児の背です。
いくらこの子が小柄とはいえ、私と同い年。父の倍近い体重があるのです。
それでも父は揺らぐことなく、病み上がりのまま彼に稽古をつけていました。
父の見せたけいこの姿は、たぶんこの後、一生見ることはないと思います。
私の名前はフィリアス・ミスリルです。淑女見習いです。
もっとも、父の意思や気遣いに反して淑女になり切れないお転婆に育ってしまいましたが。
父の名前はファルコ・ミスリル。誰もが認める国一番の勇者。
人は私に父と同じか父以上の武術を期待します。
父は一切の武術を私に教えることはなく、平穏な人生を期待していました。
私たちの親子仲はとてもいいのに、この一点だけはちぐはぐしているようです。




