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始まりに至る病

作者: 刃渡まつり

未公開作品。2006年作。

1 一年生


 藤村佑太にとって、女の子をデートに誘うというのは、彼の十八年の人生の中では初めてのことだった。

「ね? 行こうよ? 一人ぼっちで映画なんて、寒過ぎるよ」

「ふーん……」

 まるで興味が無い。菅原雪乃の顔にはそう書いてあった。

 細いが切れ長で深い黒瞳を収めた目は、理知的と呼ぶに相応しい。真珠を思わせる白い肌を、適度な薄化粧が輝かせているようだ。

 自分の提示した映画にまるで興味を示さない。そんな横顔でさえも美しいものなんだなと佑太は思う。

「キミ、そうやって大学中の女の子に声かけてるんじゃないの?」

 古ぼけたパイプ椅子を軋ませ、雪乃は長い足を組み替えた。

 ミニスカートから伸びた白い素足に、佑太は軽い酩酊感を覚える。

「大学中ってのは、いくらなんでも大袈裟だ」

「そう? じゃあ、一年の女の子全部、かしら?」

「そうしたいのは山々だけど、このサークルの女の子だけで精一杯だね」

 大仰に肩をすくめて見せると、雪乃の口元から笑みがこぼれた。

 自分と同時期に入部した一年生の中では一番可愛いんじゃないか。笑顔を返しながら佑太は思う。

 可愛いと言うより雪乃は美人だ。でも笑顔はやっぱり「可愛い」かな。

 佑太は少しだけ、胸が高鳴るのを感じた。

「じゃあ、あたしなんかにいつまでもかまけている暇は無いんじゃないの? 先輩達も言っているけど、『今年の一年は大漁』らしいから」

「愛ってのは、時間をかけて育むものさ」

 ウィンクと投げキッスを付け加えると、雪乃はころころと笑い出す。

 「キザなセリフは笑いを取るために使うべし」という考えを持つ佑太にとっては、期待通りの反応だ。

 正直、佑太にとって雪乃が誘いに乗るかどうかはどうでもいい。相手が雪乃である必要さえ無かった。高校時代、地味で目立たない存在だった佑太にとっては「軽い男を演じる」事自体が楽しくて仕方がない。

「……なんで、あたしかなあ」

 笑顔の余韻を残しながらの言葉は、独り言のようでもある。

「そりゃ、君がここにいるからさ」

 新築されたサークル棟に引っ越してきたばかりという部室には、今は佑太と雪乃しかいない。昼休みの賑わいが、嘘のようだ。

「誰でも良かったっていう口ぶりね」

 軽蔑や怒気を孕んではいない。しかしその笑顔は失われつつあり、どこか近寄り難い「高嶺の花」としての雪乃を取り戻そうとしていた。

 佑太は、先輩の一人が雪乃を密かに「クールビューティ」と呼んでいたことを思い出す。

「否定はしない」

 自分でも馬鹿正直だと、佑太は内心苦笑する。しかし、雪乃の人形めいた美しさを見ていると、そう答えるのが一番正しいように思われた。

 くすり、と雪乃が笑う。

 佑太の心臓が、大きく一つ脈打った。

「……観たい映画が、あるんだよね」

 佑太は、全く興味の無い映画を観に行くことになった。



2 二年生


 サークル棟は三階建てで、Oの字型をしていた。中央には吹き抜けになっている大きな中庭。入り口付近には螺旋階段があり、これは反対側にもう一つある。各階には内周を縁取るように廊下があり、随所にベンチが設けられていた。


 佑太の座る部室の傍のベンチからは、入り口側の螺旋階段を臨むことができる。

 佑太は上着のポケットから飴を取り出す。10個詰めの小さな飴の残りは2つ。帰りにコンビニに寄らなければと思いつつ8つ目の飴を口に放り込む。口の中に慣れたミントの味が広がるが、それは何の刺激ももたらさなかった。

 雨雲を睨み付ける。朝から降り出した雨は、午後の授業が始まっても止む気配が無い。

 涙雨。

 そんな言葉が脳裏をよぎり、佑太は苦笑した。


 佑太は待っていた。

 この雨のためか、今日は部室に人が来ない。今の部室の状況を考えるに、それは幸いなことなのかそうでないのか。佑太は判断を保留することにした。

 9個目の飴に手を伸ばしかけた時、螺旋階段を登る見慣れたスカイブルーの傘が目に入る。

 待ち人来らず。

 佑太は大きく息を吐く。しかしその溜め息が安堵の息でもあるように感じられたのが、佑太には不思議だった。

 スカイブルーの傘をたたみ、雪乃が真っ直ぐ部室へ向かって来る。佑太と目が合うと、雪乃はにっこり微笑んだ。曇天の中で、雪乃の笑顔は一際輝いたように佑太には見えた。

 だが雪乃は、すぐに眉をひそめる。佑太は笑顔を返すのに失敗したことを悟った。

「どうしたの? 暗いわよ?」

「……悪いけど、部室はしばらく立入禁止」

「はあ?」

 雪乃は目を丸くした。


 佑太が部室に来た時、一人だけ先客がいた。一年下の後輩、新入生の山崎明日香だった。

 彼女は手にハンカチを握り締め、目と鼻を真っ赤にしていた。

 山崎は鼻声で佑太に挨拶した後、黙り込んだ。必死に顔を見られまいとしているのが、痛々しかった。

 佑太は「ここで待て」とだけ言い置き、部室を出た。


「ふーん。それで、見張り番をしてるのね」

「そ。岩井君が来るまで、ね」

 佑太は飴を雪乃に差し出した。小さく礼を述べ、雪乃はゆっくりと手を伸ばす。

 佑太には自分の手が、雪乃の白く細い指に吸い込まれるような気がした。

 しかし、雪乃の指は佑太に触れること無く、飴だけを器用につまんで遠ざかった。

 佑太は両手をジーンズのポケットに入れ、拳を固く握り締めた。

「岩井君か。確かにあの二人、仲いいもんね」

 雪乃は傘を壁に立てかけ、ベンチに座る。二人の間には二人の鞄が、仲良く並んでいた。

「仲がいいって言うか──」

 あの二人は既に付き合っている。そう続けようとしたが、佑太は言葉を飲み込んだ。あの二人のことを知らないのは部内では雪乃くらいのものだ。ここで話したところで差し支えない。差し支えないはずだったが、雪乃に話すのは躊躇われた。雪乃と喋るような話ではないような気がした。

「いや、何でもない」

「何よ、それ?」

 不満そうな雪乃の顔。佑太は曇天に目を移す。暗く淀んだ空に、人形めいた雪乃の顔が浮かんだ。一年前、雪乃がよく見せていた顔だった。今でも雪乃のことを「クールビューティ」と呼ぶ部員はいる。しかし、今の佑太にはそうは思えなかった。

「菅原ってさ」

 降りしきる雨を見つめながら、佑太が呟く。

「恋愛とかって、興味無さそうだよね」

 視界の隅で、雪乃が空を見上げるのを、佑太は感じた。

「無いってワケでもないけど……」

 下の階から激しいハードロックサウンド。バンドサークルが練習を始めたようだ。しかしそれも、雨音を消すには至らない。

 佑太は雪乃に続きを促そうとはせず、ただ雨粒を眺めていた。


「ねえ藤村君、あれじゃない?」

 雪乃が螺旋階段を指し示す。シックな黒い傘が階段を登っていた。

 二人の座るベンチの傍まで来ると、岩井恭二は呑気な声を出した。

「あれ? ひょっとして部室、満員ですか?」

「そういうわけじゃないんだけど……」

 佑太は立ち上がり、長身の肩を叩いた。

「ま、とにかく入ってくれ」

「はあ」

 眼鏡をくいと持ち上げ、岩井は部室へと入って行った。

 見届けてから、佑太は再び腰を下ろす。

「後はヤツにまかせるとしようか」

「ん。そうだね」

 雨が小降りになり始めた。下の階から響く音は、切なげなバラードに変わっている。

「藤村君って、意外に優しいよね」

 雪乃は空を見上げていた。夕闇が辺りを包み込もうとしている。雪乃の顔は、良く見えない。

「『意外』は余計。俺は全ての女の子に優しい男なのさ」

 久し振りに軽い男に「戻った」気がして、佑太は苦笑する。

「ふふっ。そうだね。確かに、藤村君はみんなに優しいよ。でもね──」

 雪乃と目が合う。これも久し振りのような気がした。

「その優しさは、罪……かもよ?」

 言葉の意味を考える前に、雪乃が軽口を返してこなかったことが驚きだった。

 そのためか、いつもなら出てくるはずの軽口が出てこない。

 「軽い男」らしくない。微かな自己嫌悪に陥り、佑太は黙り込んだ。自己嫌悪に、拍車がかかった。

 バンドは繰り返し、バラードを練習している。雨は上がり、雲間からは星が覗いていた。

「あれ? ひょっとして満員?」

 気が付くと、同期の田口美里がこちらに向かってきていた。その後ろには、やはり同期の川田真一。

 思わず佑太は腰を上げた。しかし、川田の眉間に皺が寄るのが目に入ってしまう。いや、見えた気がしただけかもしれない。

 佑太は川田が雪乃に思いを寄せていることを知っていた。もちろん川田はその思いを自分の胸だけにしまっているつもりなのだろうが、彼と最も近しい友人である佑太にはわかっていた。

 激しい自己嫌悪で息苦しくなる。何一つはばかられるようなことはしていない。そう思っていても、胸を締め付ける何かを抑え切ることができなかった。

「佑太? どうした?」

 答えず、腕時計を見る。今日の授業は全て終わっていたようだ。

「もう、こんな時間になっていたんだな」

 佑太は、思ったことをそのまま口に出した。

 黒い合皮のジャンパーの袖をずらし、川田も自らの腕時計を確認する。

「ん、ああ、そうだな。ようやく本日の授業も終了でござい、と」

「何か用事でもあるの、藤村君?」

 小柄な田口が、大きく丸い瞳で佑太を覗き込む。微かに甘い香りがした。

 脳髄に痺れを感じたのは、その上目遣い故なのか至近距離故なのか。

 佑太の鼓動が少し早まる。

「男ってのは、女の子を口説くのに忙しいものなのさ。いつでもね」

 失いかけた平常心を必死で立て直しながら、佑太はあくまでも「軽い男」を演じた。

「帰っちゃうの?」

 田口が残念そうに見えた。見えただけかもしれない。それが錯覚かどうかを判断するより前に、佑太はこの場を離れるべきだと思った。

 激しい自己嫌悪と、甘い錯覚。

 一刻も早く、ここから遠ざからなければならない。強迫観念も加わった。

「悪いな。君達以外にも俺を待ち焦がれている女の子が大勢いるんでね」

 田口も雪乃も、そして川田も笑った。佑太は少し、ホッとする。

「菅原」

「ん?」

「後は頼んだ」

 それだけ言って、佑太は踵を返した。

「え? あ。ええーっ」

 部室の様子を思い出した雪乃が、田口と川田を慌てて引き止めている。そんな気配を感じながら、佑太は出口へ向かった。



3 三年生


 文学部棟の屋上には、自由に出入りが可能だ。理学部棟や教育学部棟には常に鍵がかかっているのだが、文学部棟だけは、なぜか鍵がかかっていない。

 夏場には、授業をサボった学生が涼みに来ていたり、夜には酒盛りを始めるサークルもある。しかし、冬ともなると流石に人の出入りは少ない。寒い中、好き好んで屋上に上がるなど酔狂以外の何者でもないだろう。

 佑太は、その酔狂な人間の一人だった。


 授業中なので、できるだけ足音を立てないように歩く。階段を登り、屋上への鉄扉を開けると、冷たい風が容赦なく吹き込んだ。

 お気に入りの黒のロングコートに両手を入れる。左のポケットに入ったメンソールの煙草とオイルライター、携帯灰皿の感触を確かめつつ、真っ直ぐに西へ向かう。

 佑太は、ここから見える夕日が好きだった。夕方部室に人がいない時、何となく一人になりたい時などに、よくこの場所で夕日を眺めていた。

 空は既に茜色に染まっていた。太陽は、じきに遠くのビル群に埋もれるだろう。

 佑太は足早に、いつもの場所を目指した。

 そこに、人影が立っていた。たった一人、ぽつんと佇んでいる。逆光で、姿はよく見えない。ただ、とても寂しげに見えた。

 先客ありか。帰ろうとして背を向けた時、人影が聞き慣れた声を発した。

「藤村君?」

 佑太は、振り返りながら頭を掻いて見せた。

「やれやれ。サボりか、菅原?」

「失礼な。そんなんじゃないわよ」

 雪乃の微笑が暗く見えたのは、夕日を背にしているからだとは思えなかった。


 佑太は煙草を取り出し、火を点ける。

 雪乃はただ、夕日を見ていた。

 夕日に照らされた雪乃の横顔。光の加減か、ほんのり朱が差したような頬が愛らしい。また、愁いを帯びた瞳も美しかった。

 いつまでも見ていたい欲求を抑え、佑太は夕日に目を戻す。

 また、煙草を咥える。まるで別の意思でもあるかのように、頭が勝手に雪乃を向く。また夕日に戻す。

 何度か繰り返すうちに、嫌が応にも気付かざるを得なかった。

 雪乃は、落ち込んでいる。

 あるいは、何度も雪乃の顔を盗み見たのは、どこかでそれを感じ取っていたからだろうか。沈み往く太陽を見送りながら、佑太は思う。

 それ故の、沈黙なのか。

 やがて太陽は沈み切り、夜の帳は完全に降りた。もう雪乃の顔も、はっきりとは見えない。


 何があったのか。気にならないと言えば嘘になる。


 そう言えば、以前にも似たようなことがあった。

 佑太は夜空を見上げる。月は雲に隠れていた。

 一年前、部室で一人泣いていた山崎明日香。

 なぜ? 可愛い後輩の身に何があったのか?

 気にならなかったと言えば、嘘にしかならない。

 あの時、自分はどうしたか。佑太はそう古くは無いはずの記憶を手繰る。

 そう。彼女を部室に一人きりにした。自分やその他の誰かがいることで、彼女に無理な我慢を強いたくなかったからだ。

 佑太はもう一度、雪乃を見た。

 雪乃は太陽の沈んだ方向を見つめ続けている。雪乃はまだ、夕日を見ているのだろうか。それとも、目の前の何をも見てはいないのか。ならば今、彼女の心はどこに。


 気にならないと言えば、嘘になる。


 佑太は、はっとなった。

 この暗がりの向こうで、雪乃は泣いている。

 実際に泣いているかどうかはわからない。ただ、佑太にはそう思えてならなかった。

 今の雪乃に、一年前の山崎が重なっていく。

 瞬間、佑太は一年前の記憶に辿り着いた。

 話を聞いてあげたい。慰めてあげたい。励ましてあげたい。とにかくその涙を笑顔に変えてあげたい。佑太はあの時、確かにそう思った。

 しかし、そのいずれもしてやれなかった。佑太は「軽い男」だった。周りがどう思うにせよ、佑太は「軽い男」を自認していたし、また、そうあらねばならないとも考えていた。

 まして、山崎には岩井がいた。彼女を慰めるべきは自分ではない。適任者は、他にいたのだ。


 では、雪乃は。


「何も……訊かないのね」

 雪乃の言葉が、混沌とした思考から佑太を引き上げた。

 佑太は、大きく息を吐く。

「……何の、ことかな?」

「あたしが落ち込んでるの、気付いてたでしょ?」

 返答に窮し、佑太はとりあえず煙草に火を点けた。

「顔に全部、出ちゃってたのよね? 藤村君、あたしの顔、何度も見てた」

 顔から火が出る、という言葉を佑太はこれ以上ないくらい実感した。咳き込まなかったのは、「軽い男」のプライドが成せる業か。

 佑太は陽が没し切っていることを、神に感謝したくなった。

 雲が流れ、煌々と輝く月が姿を現す。暗がりに慣れた目に、月光は少し眩しい程だった。

 ようやく雪乃の顔が見えたと思ったのも束の間、彼女はくるりと背を向けてしまう。

「藤村君、憶えてる? あの時のこと」

 心臓が止まりそうになる。心を読まれたのかと、佑太は一瞬本気で思った。

「……って、それだけでわかるわけないわよね。一年位前だったかしら。明日香ちゃんが部室で泣いてたことがあったでしょ?」

 しかして、佑太の「あの時」と雪乃の「あの時」は一致していた。

「言ったかもしれないけど、あたしあの時、藤村君は優しい人だなって思った」

 佑太にそんな記憶は無かった。あるのは、悲しみに暮れる人を前に何もできなかったという無力感。それだけだった。

 佑太は、両手をコートのポケットに突っ込んだ。左手は、冷たいオイルライターを固く握り締める。

「……違う。優しさなんかじゃ、ない」

 偽りの自分を肯定されているようだった。それはとても惨めで耐え難いことのように思えた。

「うん……そうかもしれない」

 そして、それを首肯されれば落胆してしまう。佑太自身にも、自分が掴み切れない。

「藤村君がそう思ったように、優しいと思わない人も多いかもしれない。もしかしたら、冷たいと思う人だって」

 雪乃が何を言おうとしているのかも、わからなくなっていた。雪乃の顔も見えない。見えるのは、雪乃の小さな背中だけだった。

 左手のオイルライターは、汗でじっとりと濡れていた。

「でもあたしは、『踏み込まない優しさ』もあると思う」

 雪乃が月を見上げる。鼻をすする音がした。

「今日はありがとう。何も訊かずにいてくれて」

 明らかに、涙声だった。

 佑太は、雪乃を後ろから抱きしめたい衝動に駆られた。それは、抗うことが苦痛なほど強く、脳髄を溶かすように甘い衝動だった。

 同時に、雪乃を思い続ける川田の顔が脳裏を走り抜ける。次いで田口が、山崎が、岩井が。一年前の光景が。色々な人の思いが。佑太自身の思いもまた。

 強く甘い衝動に、針のような痛みが突き刺さる。


 佑太は雪乃に背を向けた。

 自分は適任者ではない。

 混沌に埋め尽くされた頭の中からやっとのことで引っ張り出した答は、一年前と同じだった。

 一年前と同じ?

 佑太は自嘲する。

 一年前はもっと楽に、この答に辿り着いていた。

「風邪引く前に、帰れよ」

 できるだけ柔らかい声を意識したつもりだが、自信は持てなかった。

 佑太は歩き出そうとして、もう一度雪乃を振り返りたくなった。だがそれもできず、歩き出す。


「──ないで」

 何歩か進んだ所で、か細い声を聞いたような気がした。

 立ち止まり、耳を澄ます。

「行かないで」

 今度こそ、佑太の耳は雪乃の声をはっきり捉えた。

 振り返る。雪乃は背を向けたままだ。

「藤村君……ごめん。もう少し、もう少しだけでいいから──」

 その後は、言葉になっていなかった。

 衝動が、再び頭をもたげてくる。

 佑太は、歩き出した。

 一歩。

 また一歩。

 雪乃の背中が近付く。

 一歩。

 一歩。

 雪乃の肩が上下している。

 一歩。

 一歩。

 歩む毎に、佑太の衝動は強く、大きくなっていく。

 一歩。

 一歩。

 嗚咽が耳を打った。

 既に至近距離に立っていることは、雪乃にもわからないはずは無い。

 蒼い月光に、小さく震える艶やかな長い髪が浮かんだ。時折隙間から覗く白いうなじは、恐ろしく艶かしい。


 ほんの少し手を伸ばせば、雪乃を包み込むできる。

 ほんの少し手を伸ばせば、届く。


 ここまで近付くことを許しているのなら、雪乃もそれを望んでいるのではないか。

 そんな考えが、佑太の脳裏にちらつきもした。

 蕩けるような甘い衝動と、胸を貫き続ける痛みがせめぎ合っていた。膨らみ続ける風船に鋭い針を刺しているのに、破裂しそうで破裂しない。

 小さく息を吐く。

 佑太の心は、既に決まっていた。


「そんなカッコじゃ、寒いだろ?」

 佑太は、雪乃の背中にコートをかけた。煙草とライターと灰皿を抜いておくことを、忘れてはいない。

「ん……ありがと」

 佑太はゆっくり三歩ほど下がってから、雪乃に背を向けた。

 衝動が消えたわけではなく、背中を見ていられない。

 しかし、佑太の心は既に決まっていたのだ。

 昔、誰かが言っていた。


 手を伸ばせば届く距離とは、手を伸ばさなければ決して届かない距離である。


 その「距離」が、佑太には理解できたような気がした。

「あったかい……」

「当たり前だろ。何しろ俺のお気に入りのコートだぜ。しかも、俺の愛情がたっぷり詰まってるんだからな」

「あははっ。そうだね。きっと、そう」

 涙声のままだったが、雪乃の笑う声を聞けたことは、今の佑太には何よりも嬉しいことだった。

「あたし、昔色々あって。それで、今でも男の子が少し怖いの」

 佑太は、咥えた煙草を落としそうになった。

「そ、そうなのか」

 そうは見えない。という言葉は飲み込んだ。

「だから、キミの『踏み込まない優しさ』は、凄くホッとする。踏み込まないのは、冷たいからじゃなくて、優し過ぎるから。それがわかるから、あたしはキミといると安心するの」

 煙草を大きく吸い込み、そして吐き出す。

 佑太は思う。正直、雪乃の言う「優しさ」はよくわからない。自分がそんなに優しいとも思わない。でも、雪乃が望むなら、自分はそれを叶えるだけだ。それ以上でもそれ以下でもない。それが、「軽い男」というものだ。

「藤村君」

 振り返ると、雪乃がコートを手に持ち佑太を見ていた。目と鼻が少し赤かったが、それ以外は普段の雪乃だった。

「ありがとう」

 雪乃が差し出すコートに、佑太はゆっくりと手を伸ばす。

 黒いコートには、雪乃の白くしなやかな指が良く映える。佑太はそこに強く吸い寄せられるのを感じ、しかし敢えて抗うことはしなかった。


 佑太はコートを受け取ると、すぐさま羽織る。

「実は、すっげえ寒かったんだよね」

「でも、それを我慢するのが男の甲斐性なんでしょう?」

 どちらともなく二人は笑い出し、そして夜の屋上を後にした。



4 卒業式


 中学高校の両方とも制服が詰襟だったという岩井恭二は、ネクタイの締め方を知らない。その結果、卒業式当日の朝に部室で山崎に締めてもらう破目になった。

「これで良し、と。もう、いい加減ネクタイの締め方くらい覚えてよね」

「いやあ、面目ない」

 くいと眼鏡を持ち上げ、岩井は照れを隠そうとする。

「うぃーす。おっ。早いね、ご両人」

 岩井達と同じ3年生の柴崎良平が、ジャージ姿にボサボサの長髪という出で立ちで現れた。

「柴崎、先輩方の卒業式なんだから、もうちょっとちゃんとした格好で来れないのか?」

 柴崎は上着のポケットに両手を入れたまま、乱暴にパイプ椅子に座る。ぎしり、という音がした。

「俺さ、スーツとか嫌いなんだよね。ネクタイの締め方も知らねえし。誰かさんみたいに締めてくれる可愛い彼女もいないしな」

「……見てたのか?」

「やっぱりか。そんなこったろうと思ったよ」

 語るに落ちたことを悟り、岩井は苦し紛れに眼鏡をくいと持ち上げた。

「来年こそは、俺も彼女を作るぜ。山崎よりも、可愛い彼女をな。新入生に期待大!」

 自分の彼女を引き合いに出されたが、岩井に怒る様子は無い。当の本人も涼しい顔だ。

 岩井は眼鏡をくいと持ち上げてから、柴崎の肩を叩いた。

「まあ、頑張れ」

「俺、お前のそーゆートコ嫌い」

 岩井と山崎が笑い、なぜか柴崎も笑い出した。


「しかし、俺達ももう4年生になるのか」

 どこか遠くを見るような目で、柴崎が呟く。

「もう、3年も経っちゃったんだよね……」

 山崎は、窓から空を覗いた。青空が、広がっていた。

「色々あったよな、俺達も」

 ネクタイをいじりながら、岩井。

 遠くの方から、大勢の話し声が聞こえてくる。まだ卒業式が終わるには早い時間だが、講堂前には在校生やOB・OG達がひしめき合っているのだろう。

「こんだけ人が集まりゃあよ、そりゃ色々と起こるモンだ。男と女なら、尚更だろう」

 組んでいた足を解き、柴崎は長机に乗せられたたくさんの花束の中から一束、手に持つ。

「先輩達だって、きっとな」

 柴崎の言葉に、岩井と山崎は同時に頷く。

「あの代は人数多いからな。色々くっついたり離れたりはあったらしいが」

 詳しくは知らない。という言葉は省略し、岩井はタイピンをいじり始める。

「私、やっぱ藤村先輩が誰とくっつくのか気になるなあ」

 今度は岩井と柴崎が同時に頷く。

「てゆーか、好きな人とかいないのかな?」

 山崎の目が俄然輝き出した。

「いたら、あんな風に手当たり次第に声をかけられるわけ無いだろう」

 岩井が、ごく常識的な意見で山崎を一刀両断にする。

「それはそうかもしれないけど……それだと私が面白くないの!」

「面白……って、オマエ」

 あきれる柴崎。

「例えば……実は田口先輩が好き、とか。菅原先輩もありそうね」

「ないない」

「ないない」

 岩井と柴崎の声がハモる。

「でも、二人とも藤村先輩のこと気になってたっぽいよね? 他にもまだまだカップリング例は──」

「おいおい」

「お前の目は腐ってる」

 柴崎の暴言に山崎が食ってかかろうとした矢先、後輩達が部室に入ってきた。

「ザンネン。この続きはまた今度ってコトで」

「……憶えてなさいよ」



5 卒業


 講堂から外へ出る。

 そこには各サークル・各ゼミの後輩達が所狭しとひしめいていた。

 講堂の前に、大きな桜が一本。

 毎年送り出す側として見てきた桜が、今日は全く違った趣があるように佑太には感じられた。

 木の下まで歩き、桜を見上げる。

 三月中旬の風には、まだ少しだけ冷気が含まれていた。そのせいか、桜もまだ満開には至っていない。

 去年は確か、満開だったはず。佑太は記憶を手繰る。してみると、今年は例年より寒いということか。

 だが、佑太は満開ではない方が好きだった。一歩引いたような、奥ゆかしさを感じるからかもしれない。

「藤村さーん!」

 後輩達の呼ぶ声がした。

 振り返れば、後輩達だけでなくOBやOG、そして雪乃、田口、川田を始めとする同期の仲間達。

 佑太は大きく手を振り、力一杯叫んだ。

「今行くぜー! マイハニーズ!」

 部員達が笑う。近くにいたほかのサークルの卒業生やその後輩達も、笑っていた。中には失笑や嘲笑もあったかもしれない。しかし、構うものかと佑太は思う。

 大学四年間、「軽い男」を貫いてきた。最後の最後まで、貫き通してやるさ。


 だけど。

 それを今日で卒業するのも、悪くはない。


 足取りも軽く、佑太は駆け出した。

2006年の作品ですが、投稿に当たり、若干の修正はしてあります。

初公開みたいなモンなので、読む側からしたらあまり関係のない話ですけど。

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― 新着の感想 ―
[一言] 「うは、もどかしいっ」、と感じながらも、「ああ、でも恋愛ってそんな駆け引きの繰り返しだよなぁ」と共感しながら読ませていただきました。地味で目立たなかったので軽い男を演じる、別の性格になりすま…
[一言] 祐太と雪野の近い様でそうでない微妙な距離感、その2人の様子に少しやきもきしながら読んでいました。 恋が始まりそうなのに始まらない・・・と言うか。 祐太が「軽い男」のキャラで、あえて踏み込まな…
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