愛しの一人ぼっち
この感情の名前は、とっくの昔に命名されていた。
分量を間違え、つい作ってしまう二人分の料理。返事を期待してしまう独り言。胸に空いた穴、襲う虚無感。意味するのはただ一つ。
でも、決して口にはしなかった。言ったって現実はひっくり返らない。欲しいと求めれば与えられ、泣けば慰めてもらえるガキではないのだ。お気に入りを手放すのは、大人の特権だ。それはいつだって、痛みを伴うけど。
友情ではない。まして恋でもない。葉山秋彦との関係は、そんなものだった。
その頃の私――――そして今の私も――――は安いアパートで一人暮らしを謳歌していた。大学に進学する際入居したもので、学校には程近い。でも人気はまばらで、薄暗い通りに面していた。卒業をから一年経ったその当時も、格安の家賃に釣られて住み続けていた。決め手は破格の値段の住居費の他に、閑古鳥の鳴く古本屋と、手入れの悪いプランターが道にまであふれた植物屋敷。
その六畳一間の私の城に、葉山秋彦は転がりこんできた。
「電気とガスの差し止めを食らいました。家賃も払えません。今晩からここに泊めて下さい」
その晩は、図書館と帰り道の古本屋をはしごしてお目当ての書籍を探し、収穫にほくほくしていた。一息に読了したい誘惑をこらえて、序盤だけに目を通しその後は翻訳の仕事に取り組む。仕事といっても、アルバイト程度。もそもそと英語やフランス語の短い記事を日本語に訳すくらい。フランス語は私の専攻科目だ。物欲は大してないから多少給料が少なくても困らない。
フローリングの床は、食事もレポートも仕事も済ます低いテーブル周囲の極僅かなスペース以外様々な本に埋もれている。仕事には欠かせない辞書に、学生時代収集したお気に入りのフランス文学。原本は必ず揃え、訳者が違えばなるべく全員集めるようにしている。おかげで同じタイトルの作品がいくつ散乱している。それから趣味で読む東西問わない名作が山脈を連ね、そのほとんどが雪崩を起こしている。正直に言えば、私の部屋は汚い。
テーブルに正座で向かい、今日の仕事に一区切りつけた時だった。呼び鈴が鳴ったのは。
遅くはないが、時刻はもう夜。こんな時間帯のお尋ね者に心当たりはない。不審がりながらもドアを小さく開ければ、同世代と見受けられる男が一人立っていた。
肩には斜めがけのボストンバッグ、空いた右手でベルを押したのだろう、左手には重そうな紙袋が二つ。荷物のどれもが膨らんでいた。
伸びた髪形は、手入れの悪さから決しておしゃれではないと告げる。下は丈の短いスウェット、上はよれよれのTシャツ。第一印象は野暮ったい。垢ぬけない感じの男だった。
ドアノブを握ったまま、その姿勢を保持。初め、男のセリフが理解できなかった。それは日本語でもなく、私が専攻するフランス語でも、かろうじて聞き取れる英語でもない言語を耳にしたように、馴染まなかった。知識のない中国語を聞いても、ああ中国だな、と分かる。そんな感じ。
私より頭一つ分上の位置にある目と目を合わせて、状況を整理していた。
「いいですか?」
にこっ。
半ばその清潔な笑顔に丸めこまれたようなもの。反射的に頷いてしまった。男が礼を述べる。最近の若者には見かけない、ちゃんと感謝している口ぶりだった。
グイと戸を押され、力にしたがって後ろに引く。最低限の隙間は大きな荷物がつっかえ終いにはドアを大きく開き、見知らぬ他人を三和土に引き上げた。
そろそろ変えたら、と思わせるほど履き馴らしたスニーカーを丁寧に揃えてから家に上がる男。家に上がってからしまったと我に返ったが、時すでに遅し。迷いのない足取りで居間の直進し、何をするのかはらはらと見守っていれば男は荷物を下ろしバッグを枕に雑魚寝をしてしまった。恐ろしく寝付きがいい。背中の痛さも、積まれた数々の本も意に介さない様子だ。ベッドはあったものの結局その日は監視のため少し離れた床で眠ることにした。
翌朝は、床に揃って正座の仕切り直しから。立場上一方的な質問を重ね、同じアパートに住んでいて(だから昨夜はまっすぐ居間に向かえたのか)、そちらには面識があると知る。しかも学部は違うもののかつての同級生だとも分かった(男は理系だそう)
「同い年か。なら別に、敬語じゃなくていいよ」
「あ、ほんと? では早速」
男は実にひょうきんだった。口が達者で、面白おかしく現在の成行きをつらつらと述べる。昨日の身なりを見て予想した服装への無頓着さは当たったが、それ以上に目を引いたのがその計画性の無さだった。
何でも資格を取るために試験勉強に没していたらバイトが疎かになり、収入が減ってしまったそうな。おかげで生活費は不足し、周辺で唯一同世代の私にあたりをつけて今に至る、と。
ここまでの唐突な展開に納得と同時に呆れもした。
正座に座す男の荷物にさっと目を走らせる。衣服などの生活用品を詰め込んだバッグと、努力の痕がうかがえる小難しそうなテキストブックの入った紙袋二つ。追い出された家から持ち出した全財産は、余りにも素っ気なかった。本ばかりの部屋の住人が口出しできることではないが、生活感が薄い。さすがこの一週間、水と豆腐で生き延びただけある。
家事の協力と、安い家賃の更にその半分を親の仕送りで担うとの好条件を提案されたので、まあいいかと同居を了承した。これだけ勉強熱心ならさほどの関心を私には寄せず、文字通り無害だろう。
会話に一段落つけたところでもてなそうと、正座を崩し立ち上がると、声をかけられた。
「名前」
「ん?」
「聞かなくていいの?」
あぁ……。曖昧に声を漏らしてから、きっぱりと返事を。いいよ、別に。
「聞いたら、他人から知り合いになっちゃうでしょ」
私の領域と重ならない他人だからOKを出したのだ。男は中途半端に腑に落ちたようで、それ以上の追及はしなかった。好ましい対応だ。
こうして、私は他人との共同生活を始めた。
男の氏名は、一週間後にあっけなく判明した。どうやら男は住所を全部登録し直したらしく、覚えのない郵便がチマチマ届くようになった。住所は私、でも宛先は知らない男の名。試しに一通手渡してみれば、ビンゴだった。
「……葉山秋彦っていうんだ」
「おうよ。これで知り合いに昇格しちゃったね、香月衣良サン」
出世がそんなに嬉しいのか、満足げに葉山秋彦は笑う。
「残念。他人でいたかったのに」
冗談を冗談で返す愉快さは彼が教えてくれた。
本名を知るより早く、彼について分かったことがいくつかある。まずは努力家だということ。資格がうんぬん零してたけど、合格への努力に対する集中力には目を見張る。
フランス語とその文学史を学んだ私の部屋は、何度も言うが本で溢れ返っている。ベッドだって私より本の方がよっぽど占領している。辞書・原本・翻訳本。コンビニより古本屋へ行く頻度の方が遥かに高い。最早常連で、店員には名前も覚えてもらった。
そんな劣悪な環境で、本に埋もれて膝の上に教材を広げ勉強に励む葉山秋彦。さすがに向こうが下手だとしてもこの住居事情は不憫だと、小さなテーブルを買ったのは三日前だ。室内で本が表紙を広げないスペースは島みたいで、浮いた光景に暫くは目が慣れなかった。その内、机にかじりつく葉山秋彦の姿が当たり前になるのだけれど。
それからとっても料理ベタ。ここに居座りつくようになった経緯からも察しがつくように、彼は先のことは考えないタイプだった。だから段階をきちんと踏まなければ失敗する料理は不得手。思いつきで入れた調味料に悶絶したり、ボヤ騒ぎになったり。ミスに気付き慌てた二次災害で食器を割ることもしょっちゅう。以来男子厨房に入るべからず、だ。他の家事をがんばってもらっている。
「まぁ、一つお近付きになれたってことで。よろしくね、香月衣良サン」
「はいはい、よろしくね。葉山秋彦クン」
折り合いをつけて暮らす日々は。何かと不便もあったけど、それすら気にならないほど素直に楽しかった。
私と葉山秋彦の関係が恋になり得なかったのは、彼に恋人がいたからだ。
名前は知らないけど、よくのろけてくれた。目の大きい小動物みたいな子らしい。「うちのヒバリちゃん! うちの子リスちゃん!」と、イプセンの「人形の家」から引用して分かりやすくそのかわいさを語ってくれた。ここに住み始めてから読み始めた文学作品で、このフレーズがどうやら彼のお気に入りらしい。
彼女の話が持ち上がるたび、恋人の元へ行ったらと促してみたが、頑なにうんとは言わなかった。情けない姿は見せたくなそうだ。男のプライドとか何とか。確かに、何も考えないで生きていますと公言するようなものだから、あまりよい解決策ではないのかも。
ちなみに彼女には、ここで私と二人で暮らしているとは伝えてないらしい。当然といえば当然か。私だって、疑いはかけられたくないからそれについては特に言及しなかった。補足すれば、葉山秋彦曰く女の嫉妬は恐ろしいらしく、巻きこまれないためにも沈黙が金だった。
共同生活の期限は約一年後、突然身に降ってかかった。
帰宅して見当たらない人影、私のものしかない空間。優等生みたいに、すぐさま悟った。葉山秋彦は決してここに戻ってこないと。
そこでようやく、一人の空気の冷たさを実感した。温度が肌に合わなすぎて、自分が一人暮らししていたとはにわかに信じがたい。
唐突で永遠の不在も、一人で繋げた日々も幻で、一年穏やかに紡いだ昨日までが本物なのではと一瞬現実逃避に走った。正解は、全部が「真実」なのに。
絶望はその時限り。適応さえしてしまえば、少し前の日を繰り返すだけだった。最初のうちは葉山秋彦の存在を錯覚してばかりだった。迎える人はいないのに「ただいま」と帰宅する自分に、その都度苦しくなった。
胸の痛みと、宿るさびしさ。別れから季節が一巡りした今でも、その言葉はふと蘇る。ほんのちょっぴりの切なさを滲ませて。
正しく損なわれるということ。きっと、こういうことなのだろう。失われた隙間に、ああでもない、こうでもないと代用を当てはめて、ゆっくりと、面影が遠ざかっていくこと。
元気でやってるのかな。ふと、かつての同居人を思い出すのが最近だった。
今朝、新聞を取ろうと外へ出たら、ポストの中に手紙を見つけた。縦長で真っ白の封筒は、普段ダイレクトメールしか届かない私にとって眩しい色をしていた。奇妙なことに、切手は貼ってあるのに消印は押されていない。差出人も不明。でも、怪しさに後押しされ封を開き中身を一読すれば、全て明らかだった。
『香月衣良サン。お久しぶりです。葉山秋彦です』
三つの短文から始まって、その後は長々と空白の一年について記されていた。
まず、ここを出たきっかけは彼女からのプロポーズ。文面でやたら逆プロポーズ!! と騒いでいて興奮が読むこちらにまで伝わって来た。そこから、カッコ悪いままの自分では彼女と結婚出来ない、すぐに状況を変えようとアパートを飛び出した、とも。相変わらず向こう見ずで文を目で追ってて苦笑いが絶えない。人目についたらなんと思われるかと自室に引き返す。
文字通り独り立ちして、どうにか苦手な料理ができるようになったのを区切りに挙式。並行して資格も取った、元気でやっている。近況報告はそう締めくくられていた。
幸せに生きている。その場の勢いで行動する考えなしの脳も健在。変わったけど、変わらない。丸々変わったら、変わらない私は置いてけぼりを食らったようで益々さびしくなるだろう。
今の住所が記されてなくとも、消印のない切手から直接投函したと分かる。近くに住んでいるに違いない。バラしたくなかったのは、万が一私が顔を見せに行って浮気の嫌疑を被らないためか。つれないし、たかが切手一つでごまかせると目論んでるんだから抜けている。
ふ、と笑って便箋を封筒に戻した。まだまだ現役の、脚の短い机に置く。
知り合いからの手紙は、今日一日分の元気をもたらした。少し浮かれた気分。私もそろそろ結婚したいなぁなんてひとりごちた。
恋愛回避症候群の私はどうしても二人に愛を育ませたくなかったそうです。
なんとなく「落下する夕方」「植物図鑑」が混ざった感じで失敗だったかなぁ……と思ったり思わなかったり。
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今後の文芸部活動に役立たせてもらいます。