十年前、僕を救って死んだはずの先生からLINEが届いた
導入
森川先生の死後、二通のLINEメッセージが残された。一通は人を死に追いやり、もう一通は僕を救った。
あの旧貯水池事故の生存者として、僕は霧見警察署刑事課に夜通し事情聴取を受けた。けれど、自分がいったい何を覚えているのか、最後までうまく説明できなかった。
先生の十回忌の日、墓前で二つの影を見た。あの瞬間、僕はようやく理解した。水に呑まれたのは、二つの命だけではなかった。十年分の嘘も、そこに沈んでいたのだ。
十年前、中学を卒業したあとの夏。僕は同級生だった友人たちと、町西にある旧貯水池へこっそり泳ぎに行った。突然、足に何かが絡み、僕は水の中へ沈んだ。このまま溺れ死ぬのだと思った。意識が遠のく中、誰かが僕の腕をつかみ、必死に岸へ押し上げてくれた。
みんなが言った。僕を救ったのは森川先生だ、と。けれど十年後、旧貯水池の浚渫作業で一体の遺体が見つかった。警察は言った。森川先生と思われるその遺体は、十一年前に死亡している可能性がある、と。
1.恩師と思われる遺体
家の玄関を開けた瞬間、居間にスーツ姿の警察官が三人座っているのが見えた。母は湯呑みを持ったまま脇に立ち、顔色が怖いほど白かった。いちばん手前に座っていた男が立ち上がり、懐から警察手帳を取り出して、僕の前で開いた。
「佐藤亮介さんですね?」
僕は頷いた。胸の奥が急にざわついた。自分がなぜ警察に訪ねられるのか、まるで見当がつかなかった。
男は警察手帳をしまい、低く落ち着いた声で言った。
「霧見警察署刑事課の佐伯です。ある古い事件について、捜査に協力していただきたい」
僕は警察車両に乗せられ、霧見警察署へ向かった。
事情聴取室の白い照明は、目に刺さるほど明るかった。机の片側に座った僕の手のひらには、いつの間にか冷たい汗がにじんでいた。向かいには佐伯刑事と、もう一人の若い刑事が座っている。二人は遠回しな言い方をしなかった。
「森川健司さんを知っていますか?」
その名前が耳に入った瞬間、体が固まった。知らないはずがない。森川先生は、僕の中学時代の担任だった。十年前、溺れた僕を救うために町西の旧貯水池へ入り、そのまま姿を消した。遺体さえ見つからなかった。
僕は頷いた。声が喉に引っかかる。
「知っています。中学時代の担任の先生です」
佐伯刑事は一枚の写真を僕の前へ滑らせた。そこには泥に包まれた白骨遺体が写っていた。衣服はほとんど腐り、かろうじて暗い色の上着の切れ端が見える程度だった。遺体のそばの泥の中には、ひどく錆びた万年筆が押しつぶされるように埋まっていた。キャップは割れている。
僕は一目で分かった。森川先生は授業中、いつもその万年筆を胸ポケットに挿していた。
胃の奥がひっくり返るような感覚に襲われた。必死にこらえなければ、その場で吐いていたと思う。刑事ドラマを見ていたころは、遺体なんて物語の一部でしかなかった。けれど、見覚えのあるものが本当に損なわれた骸のそばにあると、冷たい水のような恐怖が背骨の奥へ染み込んでくる。
佐伯刑事は写真を引き戻し、さらに重い声で続けた。
「遺体は旧貯水池の浚渫作業中に発見されました。そばにあった万年筆、衣服の一部、職員証の破片から、死者が森川健司さんに関係している可能性が高いと見ています」
僕は思わず顔を上げた。
「関係している、って……どういう意味ですか?」
「身元はDNA鑑定を待つ必要があります」
佐伯刑事は僕を見た。
「ただし、司法解剖の暫定的な結果では、死亡推定時期はおよそ十一年前です」
僕は椅子を蹴るように立ち上がった。椅子の脚が床をこすり、耳障りな音を立てる。
「何年前だって言いました?」
若い刑事が眉をひそめ、もう一度繰り返した。
「十一年前です。暫定結果ですが、大きくはずれないと思います」
全身の血が一瞬で抜け落ちたようだった。ありえない。森川先生は、十年前のあの夏、僕を救ったはずなのだ。
「ありえません」
自分の声とは思えないほど震えていた。
「何かの間違いです。森川先生は十年前、僕たちのクラスにいました。卒業写真だって一緒に撮っています!」
佐伯刑事はすぐには反論しなかった。ただ、一冊のファイルを机に置いた。
「当時の霧見町立西中学校の正式な勤務記録を確認しました。森川健司さんは十一年前に退職手続きを済ませており、その後、システム上に正式な担当記録は残っていません」
僕は乱暴に自分の鞄をつかみ、中をひっくり返すように探した。ようやく内ポケットから、古い卒業写真を見つける。写真は少し色褪せていた。二列目のいちばん左に立っているのが森川先生だ。深い青色のジャージを着て、穏やかに笑っている。背景には古い校舎が写っていた。
横断幕には、こう書かれていた。2014年度卒業記念。
それは、まさに十年前だった。
僕は写真を佐伯刑事の前へ押し出した。指先がひどく震えていた。
「見てください。十年前、先生は僕たちと一緒に卒業写真を撮っています。どうして十一年前に死んでいるんですか?」
佐伯刑事は写真を受け取り、何度も見返した。表情が重くなる。
「写真に写っている人物が森川健司さん本人かどうか、確認が必要です。当時学校に在籍していた数名の教員にも聞き取りましたが、彼らは『あなた方のクラスに出入りしていた臨時講師がいた』とは覚えていました。ただ、正式に担任をしていたかまでは確認できていません」
僕は言葉を失った。森川先生は、確かに僕たちのクラスを二年間見てくれた。どうして、ただの臨時講師だなんて話になるのだろう。
僕はスマホを取り出し、中学の同級生たちのLINEグループを開いた。グループは静かで、最後のメッセージは去年の正月に誰かが送った挨拶だった。そこからずっとさかのぼり、十年前の卒業式の日、ようやく「森川先生」からのメッセージを見つけた。
「卒業おめでとう。これからも、ちゃんと生きていきなさい」
僕はスマホを差し出した。佐伯刑事は受け取り、そのアカウントを開く。アイコンは空白で、プロフィールも空白だった。本人を示す投稿や情報は、一つもない。
「このLINEアカウントを誰が使っているのかは、こちらで調べます」
彼はスマホを返し、声を低くした。
「まずは、十年前の溺水事故について、最初から最後まで話してください。細かいことでも、思い出せる限りすべて」
僕は椅子の背に体を預けた。背中は冷たい汗で濡れていた。
十年前の夏、僕は同級生の高橋翔太、田村慎也、中村悠斗と一緒に、大人たちが昼寝している時間を狙って、町西の旧貯水池へ泳ぎに行った。
その日の水は冷たかった。深い場所に近づいたとき、足首に何かが絡み、体がいきなり下へ引きずられた。水が一瞬で頭の上を覆い、僕は必死にもがきながら助けを求めた。けれど翔太たちは三人とも怯えきって、岸辺に立ち尽くすだけだった。
そのあと、僕が覚えているのは一本の手だけだ。その手は僕の腕をつかんだ。とても強い力だった。少しずつ僕を岸へ押し上げてくれた。翔太たちに岸へ引き上げられたとき、意識はほとんどなかった。振り返ったときには、水面に濁った波だけが広がっていた。
誰もが言った。僕を救ったのは森川先生だ、と。みんなが言った。先生は暗流に呑まれて、そのまま二度と上がってこなかったのだ、と。その後、警察と消防は旧貯水池を三日三晩捜索した。けれど何も見つからなかった。
それ以来、命日には毎年、僕たち四人で旧貯水池のそばへ行き、先生を弔ってきた。今日も同じだった。弔いを終え、それぞれ家へ帰ったあと、僕はここへ連れてこられた。
事情聴取が終わったころには、外はすっかり暗くなっていた。警察署を出た瞬間、夜風が吹き、体がぶるりと震えた。そこでスマホが鳴った。
LINEの通知だった。画面を点けると、送信者の名前が表示されていた。
森川先生。
内容はたった一文だった。
「亮介、今日、僕を弔いに来てくれたんだね?」
2.一通目のLINE
スマホを落としそうになった。警察署の前に立ち尽くし、震える指ではなかなかトーク画面を開けない。
「あなたは誰ですか? 森川先生じゃない。先生は十年前に死んだはずです」
送信してから、画面はしばらく静かだった。空白のアイコンがそこにある。まるで、目のない目にじっと見られているようだった。
半分ほどの時間が過ぎたころ、相手から返信が来た。
「僕は森川健司だ。信じないなら、ビデオ通話しよう」
次の瞬間、ビデオ通話の着信が画面に弾けた。僕は思わず一歩後ずさり、そのまま警察署の中へ駆け戻った。
ロビーでは、さっき僕を取り調べた佐伯刑事が紙コップの水を飲んでいた。僕は彼の腕をつかみ、スマホを押しつけた。
「佐伯さん! ビデオ通話が来ています! 森川先生のアカウントからです!」
佐伯刑事の顔色が変わった。彼は迷わず通話に出た。
画面の中は真っ暗だった。聞こえるのは、風の音だけ。数秒後、カメラがゆっくり持ち上がり、半分だけ手首が映った。その手首には、黒いスポーツ用リストバンドが巻かれている。洗いざらしたように白っぽくなっていた。
頭の中で、何かが大きく鳴った。あれは僕のリストバンドだ。十年前、溺れたときに水に流され、旧貯水池の底へ沈んだのだと思っていた。
背景には、かすかに水面が見えた。そして、その横に立つ古い銀杏の木の影。町西の旧貯水池のそばにある、あの銀杏だ。
僕は一目で分かった。
映像は突然途切れた。佐伯刑事はスマホを握ったまま、顔を険しくした。
彼は隣の刑事に向かって叫んだ。
「すぐ町西の旧貯水池へ向かえ。鑑識にも連絡、急げ!」
僕は彼の袖をつかんだ。声が震えていた。
「あのリストバンドは、僕があのときなくしたものです。間違いありません」
佐伯刑事はスマホを返すと、署に二人の警察官を残し、自分は捜査員を連れて旧貯水池へ向かった。
僕は警察署の入口に立ったまま、スマホを握りしめていた。手のひらは汗で濡れていた。
それからほどなくして、またスマホが鳴った。送信者はやはり「森川先生」だった。
「次は、高橋翔太だ」
胸が締めつけられた。僕はすぐ翔太に電話をかけた。コールは長く続いたが、誰も出ない。慎也と悠斗にも電話した。二人は、翔太は弔いを終えたあと、そのまま家へ帰ったと言った。
僕は翔太の家へ走った。翔太の家は町の東側にあり、二十分以上走ってようやく着いた。門は半分開いていて、庭の灯りは消えている。僕は扉を押し開け、彼の名前を呼んだ。
「翔太!」
返事はなかった。
居間の明かりだけがついていた。扉を開けた瞬間、血の匂いが正面から押し寄せてきた。翔太は床に倒れていた。胸には果物ナイフが突き立っていて、目を大きく見開いたまま、すでに息をしていなかった。右手には古い写真を握っている。僕たち四人と森川先生が写った、卒業の日の写真だった。
写真の中の森川先生の顔には、赤いペンで大きなバツ印が描かれていた。壁には血で四文字が書かれている。次はお前。
膝から力が抜け、その場に崩れ落ちた。ポケットの中のスマホがまた鳴った。今度は悠斗からだった。電話に出た瞬間、泣きそうな声が耳に飛び込んでくる。
「亮介、すぐ家に来てくれ。慎也が……慎也が死んだ!」
僕は這うように立ち上がり、悠斗の家へ走った。
悠斗の家は町の北側にある。着いたころには、玄関の前に近所の人たちが集まっていた。佐伯刑事も到着したばかりで、捜査員を連れて庭へ入っていくところだった。
僕も人の間をすり抜けて中へ入り、すぐに慎也の姿を見つけた。彼は庭の井戸のそばに倒れていた。上半身はもともと井戸に落ち込んでいたらしく、すでに引き上げられている。顔色は紫がかり、唇は白かった。溺死だった。首には、割れた万年筆のキャップが掛けられていた。
森川先生の万年筆のキャップと、まったく同じだった。
悠斗は縁側に座り、全身を震わせていた。言葉もうまくつながらない。
「俺……さっきまで慎也と家で話してたんだ。あいつが喉渇いたって、井戸の水を汲みに行って……俺、部屋でドンって音を聞いて、外に出たら、あいつが井戸に落ちてて」
「引き上げたときには、もう首にこのキャップが掛かってたんだ」
佐伯刑事はしゃがみ、キャップを見た。顔色がひどく険しくなる。僕は横で立っていたが、全身が冷たくなっていた。翔太は刺され、慎也は溺れた。
死亡リストは、まだ終わっていない。
佐伯刑事は立ち上がり、そばの刑事に指示を出した。
「二人の遺体は司法解剖へ。残る生存者二人には、絶対に単独行動をさせるな」
僕は彼の腕をつかんだ。声がひどく震えていた。
「佐伯さん、信じてください。森川先生は十年前、本当に生きていました。十一年前に死んでいるはずがないんです」
佐伯刑事は僕を見た。何か言おうとして、結局、低い声で話した。
「旧貯水池へ行き、あの銀杏の木に小型カメラが仕掛けられているのを見つけた。それから、森川先生のLINEアカウントの接続元も調べた」
僕は息を止めた。
「どこだったんですか?」
佐伯刑事が僕を見据える。
「君の家だ」
その言葉は雷のように落ちた。僕は手を離し、数歩後ずさった。接続元が僕の家? そんなはずがない。
僕は家へ走った。佐伯刑事たちも後ろからついてきた。家に飛び込むと、母は台所で夕食を作っていた。僕が汗だくで駆け込んできたのを見て、目を見開く。
「亮介、どうしたの? どうしてまた警察の人が?」
答える余裕はなかった。僕は自分の部屋へ飛び込み、引き出しも棚もひっくり返すように探した。何もない。居間、台所、洗面所、ベランダ、全部見た。それでも異常は見つからなかった。
佐伯刑事が背後に立ち、僕に首を横に振った。
「技術班が確認した。君の家からあのアカウントにログインした記録はない。相手はVPNか何かで接続元を偽装し、わざと我々をここへ誘導したんだ」
僕は壁にもたれ、大きく息を吐いた。いったい誰だ。誰が、森川先生を名乗ってこんなことをしている。翔太が死に、慎也も死んだ。
次は、僕か悠斗だ。
3.消された少年
そこで、僕は一つの名前を思い出した。森川朔也。森川先生の息子だ。
朔也は僕たちの同級生だった。とても静かな性格で、いつも窓際の席に座っていた。彼は森川先生によく似ていた。特に眉と目元がそっくりで、横顔だけなら一瞬見間違えるほどだった。けれど、僕の中の彼の記憶は中学二年生のころで止まっている。そのあと、彼は突然転校した。
みんなが言った。森川先生が妻と離婚し、朔也は母親について遠くへ引っ越したのだ、と。
僕は佐伯刑事の腕をつかんだ。
「森川朔也です。森川先生の息子です。調べてください。彼なら何か知っているはずです」
佐伯刑事は一瞬だけ目を見開き、すぐ隣の刑事に朔也の足取りを調べるよう指示した。
僕は床にしゃがみ込み、頭を抱えた。十年前のあの日、どこかが間違っている。森川先生はどうして十一年前に死んだことになっているのか。あのとき僕を岸へ押し上げたのは、本当は誰だったのか。
スマホが突然鳴った。今度は知らない番号からのSMSだった。
「真実を知りたければ、明日の夜十時、町西の旧貯水池へ来い。一人で来い。そうしなければ、中村悠斗が死ぬ」
僕は窓の外を見た。夜はすでに深く、風が窓を小さく鳴らしている。ふと、今日の弔いのとき、悠斗が旧貯水池のそばで何かを拾い、こっそり上着のポケットへ入れたのを思い出した。そのときは気にも留めなかったが、今思えば、あれは古い職員証のように見えた。
僕は上着をつかみ、外へ飛び出した。佐伯刑事が後ろで呼んだが、振り返らなかった。悠斗に会って、今日何を拾ったのか聞かなければならない。
悠斗の家はすでに警察に封鎖されていた。僕は裏へ回り、低い塀を越えて中へ入った。彼は自分の部屋にこもり、窓も扉も閉めきっていた。僕が窓を叩くと、彼の体がびくりと震えた。
悠斗は窓を開けた。僕が中へ入ると、彼はすぐに窓を閉め、鍵をかける。
「亮介、なんで来たんだよ。警察は家で待てって言ってただろ?」
僕は彼の上着のポケットを見た。
「今日、旧貯水池で何を拾った? 出して」
悠斗の顔色が一瞬で変わった。
「な、何も……ただの割れたプラスチックだよ」
もう話し合う気にはなれなかった。僕はそのまま手を伸ばし、彼のポケットを探った。悠斗は身をよじったが、僕は腕を押さえた。ポケットから出てきたのは、硬いプラスチックケースに入った職員証だった。
写真に写っているのは森川先生。名前は森川健司。
勤務先は、霧見町立西中学校。採用日は2013年。
2013年。
十年前の、そのさらに一年前だ。
警察が、森川先生はもう正式に教壇に立っていなかったと言った年だった。
職員証の裏には、万年筆で書かれた文字が滲んで残っていた。かろうじて読めるのは、いくつかの単語だけだった。
告発。校舎改修。補助金。
僕は悠斗を見た。声が低くなった。
「これは何だ。お前、前から知っていたんだろ」
悠斗は足から力が抜けたようにベッドへ座り込み、頭を抱えて泣き出した。
「俺だって、知ったのは去年なんだ。親父が死ぬ前に言ったんだよ。森川先生は、校長と県教育委員会の人間が校舎耐震改修補助金を横領していることに気づいて、告発しようとしていたって。そしたら次の日、朔也が事故に遭ったって」
僕はその場で固まった。
「朔也が?」
悠斗は顔を上げた。頬は涙で濡れている。
「親父が言ってた。本当の始まりは、十年前じゃない」
「十一年前なんだ」
体の芯から、少しずつ冷たくなっていくのが分かった。
悠斗の父親が残した話では、十一年前、森川先生は校舎耐震改修補助金の不正に気づき、県教育委員会と監査部門へ告発しようとしていた。黒田校長、県教育委員会の宮本課長、工事に関わった数人は、ひどく慌てた。
彼らは森川先生を旧貯水池のそばへ呼び出し、金で口を塞ごうとした。その日、朔也も父親についてきていた。話し合いは決裂し、現場でもみ合いになった。その混乱の中で、朔也が水に落ちた。
森川先生は彼を助けようと飛び込んだが、助けられなかった。その日から、先生は少しずつ壊れていったらしい。
僕は頭皮がしびれるようだった。
「じゃあ、十年前に僕を救ったのは?」
悠斗は僕を見つめた。声は震えていた。
「親父は、あの日お前を救ったのは、森川先生とは限らないって言ってた」
体がこわばった。
「どういう意味だよ」
「あの日、岸辺で朔也のものを見た人がいた。でも、そのあと誰もが言ったんだ。お前を救ったのは森川先生だって」
悠斗は自分の髪をつかんだ。声がどんどん乱れていく。
「亮介、お前は考えたことがあるか? 本当にお前を岸へ押し上げた人間は、森川先生じゃなかったのかもしれないって」
言葉が出なかった。水の中で僕の腕をつかんだあの手が、また頭に浮かぶ。力強い手だった。けれど、その顔を僕は一度もはっきり見ていない。
悠斗は枕の下から古いノートを取り出し、僕に渡した。
「親父が残したものだ。全部、ここに書いてある」
僕はノートを開いた。中には当時の帳簿、補助金の流れ、関係者の名前がびっしりと書かれていた。黒田校長、県教育委員会の宮本課長、高橋建設の社長。そして、僕の父の署名。
僕の父、佐藤正明。当時は町議会議員で、学校改修委員会のメンバーでもあった。手が震え、ノートが床へ落ちた。道理で父は、僕が森川先生の話をするたび、もう聞くなと言ったのだ。父も、関わっていた。
僕はノートを拾い、部屋を出ようとした。
悠斗が僕の腕をつかむ。顔は真っ青だった。
「亮介、どこへ行くんだ。あのSMSを送ってきたのは、きっと朔也だ。あいつは死んでいない。復讐に戻ってきたんだ。俺たち、自首しよう。なあ」
僕はその手を振り払った。
「今さらそんなことを言って何になる。翔太も慎也も、もう死んだ。次は僕たちだ」
ノートを胸元へ押し込む。
「当時、何があったのか。僕は聞きに行く」
窓から外へ出て地面に降りた瞬間、塀の陰に父が立っているのが見えた。顔は青ざめ、手には園芸用の鍬を持っている。手の甲には、青い血管が浮き上がっていた。
「今の話、全部聞こえた」
4.父が隠した罪
僕はその場に立ち尽くし、父を見た。何も言えなかった。父は長い沈黙のあと、ようやく園芸用の鍬を地面へ投げ捨てた。煙草に火をつけ、塀のそばにしゃがみ込む。煙が立ち上るころ、父の顔は一気に老け込んで見えた。
「当時のことは、森川親子に申し訳ないと思っている」
十一年前、校舎耐震改修の補助金が下りたあと、黒田校長が父を訪ねてきた。そのころ、父は町議会議員になったばかりで、町内ではそれなりに顔が利いた。黒田は、父が手続きを通す手助けをすれば、工事費の一部を抜き、関係者全員に分けると言った。父は一時の欲に目がくらみ、話に乗った。
その後、森川先生が帳簿の不正に気づき、県教育委員会と監査部門へ告発しようとした。黒田校長、宮本課長、父、そして工事を請け負っていた高橋建設の社長は、慌てた。彼らは森川先生を町西の旧貯水池へ呼び出し、金を渡して騒ぎを大きくしないよう頼もうとした。
「その日、朔也も一緒に来ていた」
父の声は、どんどん掠れていった。
「話はまとまらなかった。言い争いになって、もみ合っているうちに、朔也が水へ落ちた」
「森川は飛び込んだ。でも、助けられなかった」
僕は父を睨んだ。
「森川先生は?」
父は目を閉じた。
「生き残った。だが、それ以来、あいつは別人みたいになった」
森川先生は、時々ひどく混乱していたらしい。黒田校長は事件が明るみに出るのを恐れ、彼の異変も隠した。正式な教師としての記録も消し、臨時講師や校外指導員のような形で、学校に出入りさせ続けた。
生徒たちは相変わらず、先生を担任だと思っていた。けれどシステム上、森川健司という正式な担当教師は、もう存在していなかった。
「じゃあ、十年前に僕が溺れたときは?」
父の指に挟まれた煙草が、激しく震えた。
「俺たちが旧貯水池に着いたときには、お前はもう岸へ引き上げられていた。森川もいなかった」
指先が、少しずつ冷たくなる。
「つまり、誰が僕を助けたのか、父さんたちは見ていないんだね?」
父は答えなかった。その沈黙は、どんな返事よりも恐ろしかった。
長い沈黙のあと、父はようやく掠れた声で言った。
「あのとき、全員が森川がお前を救ったのだと思った。俺たちにも、その説明が必要だった。だから、森川はお前を助けるために失踪したと、みんなにそう伝えた」
僕は父を見た。喉に鉄の塊が詰まったようだった。
「十一年前のことを隠すために、十年前のことまで嘘にしたんだ」
父は頭を下げたまま、否定しなかった。僕は背を向けた。父が後ろで僕を呼んだが、振り返らなかった。
部屋へ戻り、当時の卒業写真を取り出した。
写真の中で、朔也は僕の隣に立っていた。少し照れたような笑顔だった。眉と目元は森川先生によく似ていて、よく見なければ一瞬見間違えてしまう。
まさか、本当に彼だったのか。十年間、命の恩人だと思い続けてきた相手は、最初から間違っていたのか。
僕はスマホを取り出し、あの知らない番号へSMSを返した。
「明日の夜、時間どおりに行く。悠斗には手を出さないでくれ」
相手はすぐに返してきた。
「分かった」
翌日の昼、佐伯刑事が僕を訪ねてきた。怪しい場所が分かったという。三年前、「森川朔也」という名前で、霧見町の南側にある修理工場を借りた人物がいた。ただし登録情報は不自然で、明らかに偽造された形跡があるらしい。
僕は佐伯刑事について、その修理工場へ向かった。シャッターは閉まっていた。近所の人は、店主はここ数日帰っていないと言う。警察が扉を開けて中に入ると、室内は嵐が通ったように荒れていた。
壁には、当時の新聞記事がびっしり貼られている。どれも「森川健司先生、教え子を救い犠牲に」という記事だった。すべての記事の中で、「森川健司」という四文字は赤いペンで消され、その横に「森川朔也」と書き直されていた。
机の上には、アルバムが一冊置かれていた。
中には、僕、翔太、慎也、悠斗の写真が入っていた。父、黒田校長、宮本課長、高橋建設の社長の写真もあった。そのすべてに、赤いバツ印が付けられている。
佐伯刑事の顔色が変わった。彼はすぐに無線機を手に取る。
「当時の関係者を保護しろ。特に黒田義明、宮本昭夫、それから佐藤正明」
言い終えるのと同時に、僕のスマホが鳴った。母からだった。声は泣き崩れていて、何を言っているのかほとんど聞き取れない。
「亮介、早く帰ってきて。お父さんが……お父さんが首を吊って……!」
5.偽りの朔也
僕は狂ったように家へ走った。佐伯刑事たちも後ろからついてくる。
家に飛び込むと、母が床に座り込み、声を上げて泣いていた。父は梁から吊られていた。すでに息はなかった。足元には遺書が置かれていた。
そこには、十一年前、旧貯水池のそばで起きたことが書かれていた。父、黒田校長、宮本課長、高橋建設の社長が補助金の不正に関わった経緯も書かれている。
最後の一行には、こうあった。私は罪を償うべき人間だ。どうか、息子だけは許してほしい。
佐伯刑事はしゃがみ、遺書を確認したあと、父の首に残った痕を見た。顔が険しくなる。
「自殺じゃない」
僕はその場で凍りついた。佐伯刑事は父の首元を指した。
「絞め痕が二本ある。殺害されたあと、自殺に見せかけられている」
体が震え、立っていることすらできなかった。朔也が動いたのだ。少なくとも、その瞬間の僕はそう思っていた。
スマホがまた鳴った。あの知らない番号だった。
「あと二時間だ。約束を忘れるな。警察を連れてきたら、次に死ぬのはお前の母親だ」
僕はスマホを握りしめ、佐伯刑事に言った。
「今夜十時、旧貯水池に来いと言われています。僕一人で行きます。あなたたちは後ろからついてきてください。見つからないように」
佐伯刑事は眉をひそめた。
「駄目だ。危険すぎる」
僕は彼を見た。声は嗄れていた。
「もう三人死んでいます。僕が行かなければ、母が殺されます」
佐伯刑事は長く黙り、最後に小さく頷いた。
夜九時半。僕は一人で町西の旧貯水池へ向かった。空は暗く、月は出ていなかった。風が銀杏の木を揺らし、葉がさわさわと鳴っている。貯水池のそばに、一人の男が背を向けて立っていた。深い青色の上着を着ている。その上着は、森川先生が当時着ていたジャージによく似ていた。男はキャップとマスクで顔の半分を隠していた。
近づくと、男が振り返った。灯りは暗く、顔立ちは見えない。ただ、その目は冷たかった。帽子のつばの下には古い傷跡が貼りつくように走り、横顔が卒業写真の朔也に少し似て見えた。
「来たか」
声は低かった。わざと抑えているようにも、機械で変えられているようにも聞こえ、わずかに歪んでいた。
僕は三メートルほど離れて立ち止まった。
「あなたは……朔也なのか?」
男は笑った。肯定もしなければ、否定もしなかった。
「十年前、俺がお前を水の中から岸へ押し上げた」
喉が一気に締まった。
「じゃあ、本当に……」
頭の中は真っ白だった。
「翔太も、慎也も、僕の父も、あなたが殺したのか?」
男はゆっくり頷いた。ポケットからナイフを取り出し、手の中でくるりと回す。
「あいつらは全員、死ぬべきだった」
彼は暗い水面を見た。声の中には、憎しみと痛みが混ざっていた。
「あいつらが欲を出さなければ、俺の父は死ななかった。俺だって、十年も人間とも幽霊ともつかない日々を送ることはなかった」
僕は聞いた。
「それで十年隠れて、復讐しに戻ってきたのか?」
彼は聞き返した。
「ほかに何をしろと? 警察に行けとでも?」
笑いには、強い嘲りがにじんでいた。
「あいつらは町で顔の利く連中だ。証拠もとっくに消されている。子どもの俺が訴えて、誰が信じた?」
男は一歩近づき、ナイフの先を僕へ向けた。
「お前の父親も関わっていた。お前はその息子だ。お前も死ぬべきだ」
その瞬間、佐伯刑事たちが木の陰から飛び出した。
「ナイフを捨てろ!」
男は少しも慌てなかった。むしろ笑い出した。
「逃げる? 俺は最初から逃げる気なんてない」
彼は僕を見た。声は水底から響いてくるようだった。
「今日、お前を呼んだのは教えてやるためだ。お前が十年も感謝してきた命の恩人は、殺人犯の父親だった。そして本当にお前を救った人間が、今からお前を殺す」
言い終えると、男は一歩後ろへ下がった。足元は貯水池の縁のぬかるんだ土だった。
「父さんは、ここで十一年眠っていた」
彼は暗い水面を見つめ、静かに言った。
「俺も、一緒に行く」
次の瞬間、男は身を投げ、旧貯水池へ飛び込んだ。
佐伯刑事がすぐに水中捜索を命じた。僕は岸辺に立ち、水面に広がる波紋を見つめていた。全身が冷たく震えていた。
警察は長い時間捜索したが、何も見つからなかった。あとになって分かったことだが、男は事前に旧貯水池の排水用暗渠へ簡易潜水装備を隠していた。飛び込みは目くらましで、別の廃用水路から逃げたのだ。
けれどその夜、岸に立っていた僕はそんなことを知らなかった。ただ、彼が飛び込む前に言った言葉だけが頭に残っていた。父さんは、ここで十一年眠っていた。
だが、警察が昨日見つけた遺体の死亡推定時期も十一年前だった。
なら、十一年そこに眠っていたのは、いったい誰だったのか。
6.十一年前に死んだ少年
僕は霧見警察署へ走った。
佐伯刑事はちょうど署へ戻ったところだった。息を切らして飛び込んできた僕を見て、明らかに驚いた顔をした。
「どうした?」
僕は彼の腕をつかんだ。
「昨日見つかった遺体は、本当は森川先生じゃないんじゃないですか?」
佐伯刑事の顔色が変わった。すぐには答えない。胸の中で、嫌な推測がどんどん膨らんでいく。声も抑えられなかった。
「あの男は、自分の父親が旧貯水池に十一年眠っていたと言いました。でも、警察が見つけたのが父親だとは一言も言っていません」
僕は彼を見つめた。
「あの遺体は、誰なんですか?」
佐伯刑事は長く黙っていた。やがて机の引き出しからDNA鑑定書を取り出し、僕に差し出した。
「こんなに早く君に伝えるつもりはなかった。受け止めきれないかもしれないと思ったからだ」
声は低かった。
「昨日見つかった遺体は、森川健司さんではない。森川朔也だ。死亡推定時期は十一年前。死因は溺死」
手の中の書類が床に落ちた。朔也は、十一年前に死んでいた?
なら、さっき僕と話した男は誰だ。
佐伯刑事は書類を拾い、もう一度僕に渡した。
「森川健司さんの通院記録も調べ直した。朔也が亡くなったあと、彼には重い同一性の混乱が出ていた。発作的な症状で、普段は周囲から見ても大きな違和感はなかったらしい」
「黒田校長は後ろめたさから、そのことを意図的に隠した。そして臨時講師という形で学校に残し、外部に不審がられないようにした」
僕はその場に立ち尽くした。頭の中が真っ白だった。
佐伯刑事は続ける。
「十年前、君を岸へ押し上げたのは、やはり森川健司さんだった可能性が高い」
「ただ、そのときの彼の精神状態はかなり不安定だった。君を救ったあと、まだ朔也が水の中にいると思い込み、もう一度飛び込んだ。そして、そのまま行方不明になった」
長い沈黙のあと、ようやく理解が追いついた。
十一年前に死んだのは、森川朔也。
森川先生は壊れてしまった。十年前、僕を水の中から救い上げたあと、すでに死んでいる息子を探して、また水へ戻ったのだ。
なら、翔太、慎也、そして僕の父を殺したのは誰だ。
佐伯刑事のスマホが突然鳴った。彼は電話に出て、すぐに顔色を変えた。
「何だと? 黒田義明が死んだ?」
数秒聞いたあと、声がさらに低くなる。
「死因は?」
電話を切ると、佐伯刑事は僕を見た。
「黒田校長が自宅で死亡した。胸に刃物が刺さっていた。現場には紙が残されている」
喉が締まった。
「何て書いてあったんですか?」
佐伯刑事は言った。
「あと一人」
あと一人。当時この件に関わった人間は、父と黒田校長のほかに、県教育委員会の宮本課長がいる。今はすでに退職し、県庁所在地に住んでいる。
佐伯刑事はすぐに捜査員を連れて県庁所在地へ向かった。僕もついていった。
宮本の家へ着いたとき、玄関の扉は開いていた。中には誰もいない。
机の上には、まだ湯気の立つ茶が置かれていた。壁には、校舎耐震改修工事の着工時に撮られた古い写真が貼られている。写真には父、黒田校長、宮本課長、そして高橋翔太の父親が写っていた。
僕はそこで思い出した。翔太の父は当時、高橋建設の社長だった。まさにあの校舎改修工事の請負業者だ。
だが彼は去年の冬に死んでいる。酒に酔って水路に落ち、凍死したと聞いていた。まさか、当時のことは、まだ他にも続いているのか。
僕は窓際へ行き、下を見た。通りに一人の男が立っていた。こちらを見上げ、僕に向かって笑っている。
中村悠斗だった。
次の瞬間、彼は背を向けて走り出した。佐伯刑事が叫ぶ。
「追え!」
僕たちは三つの通りを追い、ようやく狭い路地で悠斗を追い詰めた。彼は壁にもたれ、大きく息をしていた。けれど、顔には恐怖の色がなかった。むしろ、楽しそうに笑っていた。
「やっと気づいたんだ」
「もっと時間がかかると思ってた」
7.本当の復讐者
佐伯刑事は手錠を取り出し、ゆっくり近づいた。
「殺したのはお前か?」
悠斗は頷いた。ポケットからナイフを取り出し、地面へ放る。
「そうだよ。翔太、慎也、佐藤のおじさん、黒田校長。全員、俺が殺した」
彼は首を傾げ、何かを思い出したように続けた。
「そうだ。森川先生のLINEも俺がログインした。SMSを送ったのも俺。動画を撮ったのも俺だ」
僕は彼を見つめた。耳が信じようとしなかった。
「どうして?」
悠斗は笑った。笑いながら、涙まで流していた。
彼は顔を上げ、僕を見た。目には怨みだけが満ちていた。
「俺の父さんは、お前たちに殺されたんだ」
悠斗の父は当時、学校の事務長で、校舎改修工事の帳簿を扱う責任者だった。
最初から不正に手を染めたかったわけではない。だが黒田校長や父たちは彼を脅した。もし事実を外に漏らせば、中村家が霧見町で暮らせないようにしてやる、と。
その後何年ものあいだ、中村家は恐怖の中で生きた。悠斗の父は去年、癌で亡くなった。死ぬ直前まで真実を公にすることはできず、すべての資料をノートに隠し、息子に託した。
悠斗はその遺品の中から、森川先生が使っていた古いスマホとアカウント情報を見つけた。さらに、十年前に旧貯水池のそばに沈み、あとで誰かが拾って隠していた黒いリストバンドも見つけた。
「俺は、あいつら全員に味わわせただけだ。森川親子が味わった絶望を」
悠斗は僕を見た。その声は、恐ろしいほど低かった。
「それから、お前もだよ、亮介」
「僕は何も知らなかった」
「だから?」
「何も知らなかったと言えば、英雄に救われた命をのうのうと享受していいのか? みんながお前を褒める。先生を毎年弔って偉い、感謝を忘れない子だって」
彼の目は赤かった。
「何でだよ。俺の父さんは毎日、苦しみながら生きていたのに。お前だけ普通に生きていた。何でお前だけ」
佐伯刑事が近づき、悠斗の手に手錠を掛けた。悠斗は抵抗しなかった。代わりに、僕のほうへ顔を向けた。
「そうだ。言い忘れてた」
胸の奥が沈んだ。悠斗の笑みが少しずつ広がっていく。
「あの日、お前の足に絡んだものは事故じゃない」
「翔太がお前の足首に細い紐を結んだんだ。ちょっとした悪ふざけのつもりでな。そのせいで、お前は溺れかけた」
体が固まった。
「お前たちは知っていたのか?」
悠斗は頷いた。
「俺も、翔太も、慎也も知っていた。でも誰も言わなかった」
路地の入口から吹き込んだ夜風が、体をすり抜けていく。まるで、また水の中に立っているようだった。あの日の溺水も、事故ではなかった。
悠斗が警察に連れていかれたあと、僕は路地にしばらく立っていた。やがて、スマホが一度鳴る。知らない番号だと思った。
けれど画面を点けた瞬間、送信者はあの空白のアイコンだった。
森川先生。
それは二通目のLINEだった。僕を救ったほうのメッセージだった。
「一人で旧貯水池へ行くな」
「高橋に紐を結ばせた本当の人物は、佐藤峻だ」
「佐伯に知らせろ」
その三行を見た瞬間、全身の毛が逆立った。
佐伯刑事はすぐに技術担当へ調査を命じた。
まもなく結果が出た。それは予約送信されたメッセージだった。送信時刻は、悠斗が逮捕されたあとの時間に設定されていた。佐伯刑事は画面を見つめ、低い声で言った。
「森川さんは、最後の一人を君に引きずり出させようとしていたんだ」
佐藤峻。僕の従兄だ。
彼は当時、学校の夜間警備員をしていた。今は町で小さなスーパーを経営している。父の遺書に彼の名前がなかったことを、僕は思い出した。父は黒田校長、宮本課長、高橋建設の社長の名前を書いた。けれど、峻だけは抜け落ちていた。
父は、峻がもっと深いところまで関わっていたことを知らなかったのかもしれない。あるいは死ぬ直前になっても、親戚を守ろうとしたのかもしれない。
けれど、もうどうでもよかった。
僕は佐伯刑事と一緒に、町のスーパーへ向かった。シャッターは閉まっていた。隣の店の人は、峻は昨日から店を閉め、数日旅行に行くと言っていたと話した。
僕はスマホを取り出し、悠斗が使っていた知らない番号へ一文を送った。
「あなたなんでしょう? どうして高橋に僕を殺させようとしたんですか?」
数分後、返信が来た。
「あのとき、森川が告発しようとしていた人間の中には、俺もいた」
「お前が溺れ死ねば、森川が教え子を救おうとして溺死したという嘘が、もっと自然になるはずだった」
「だが、あの狂人が本当にお前を救い上げた」
スマホを握る指から力が抜けそうになった。
「今どこにいるんですか?」
返事は早かった。
「旧貯水池だ。ここで待っている」
今度は、一人で行かなかった。僕はスマホを佐伯刑事に渡した。
「彼の言うとおりにします。後ろからついてきてください」
夜、旧貯水池のそばにはまた風が吹いていた。水面は、裂けた黒い布のように暗かった。佐藤峻は岸辺に立っていた。手にはナイフを持っている。僕が近づくと、彼は笑った。
「やっぱり来たか」
声はいつもと同じ、親しげなものだった。けれど、その目に親族への情など少しもなかった。
「お前の父親と同じで、愚かだな」
僕は数メートル離れた場所で立ち止まった。歯が震えていた。
「当時のことに、あなたも関わっていたんですか」
「当然だ」
彼は軽く笑った。
「俺が連中に知らせていなければ、森川健司はとっくに告発状を県へ送っていた」
峻は一歩前へ出た。
「お前を殺すつもりだった。お前が貯水池で死ねば、森川が教え子を救うために溺死したという筋書きは、完璧になった」
ナイフの先が僕へ向けられる。
「だが、あいつはお前を救った」
僕は一歩下がった。背中が冷たい汗で濡れていた。
「あなたは狂っている」
「狂っていたのはあいつだ」
従兄の顔から笑みが消えた。
「あいつは息子を失ったのに、それでもお前を助けた。余計なことをしなければ、すべて終わっていたんだ」
峻が突然、こちらへ突進してきた。その瞬間、佐伯刑事たちが後ろから飛び出し、彼を地面へ押さえ込んだ。
ナイフは泥の上に落ち、鈍い音を立てた。
手錠を掛けられるとき、峻は顔を上げて僕を見た。笑みはひどく歪んでいた。
「亮介、自分だけはきれいだと思うなよ」
体がこわばった。
彼は僕を睨み、一語一語刻むように言った。
「お前の父親が受け取った金で、お前は学校へ通った。お前が使った金の一円一円に、森川親子の血が染みている」
僕はその場に立ち尽くした。全身が冷たかった。佐伯刑事が近づき、僕の肩を軽く叩いた。
「終わった」
僕は頷いた。けれど、声は出なかった。目の前の旧貯水池は、まるで何も起きていないかのように静かだった。
8.二通のLINEメッセージ
翌日、警察は旧貯水池での捜索を続けた。夕方になって、ようやく森川健司先生の遺体が見つかった。
遺体は水底の泥と古い金網に絡まり、高度に白骨化していた。けれど上着のポケットには、ビニール袋に包まれた告発状が残っていた。
その手紙は、一度も投函されなかった。
そこには、校舎耐震改修補助金が横領されていた証拠と、県教育委員会へ告発する予定の日付が記されていた。
日付は、十一年前、朔也が死んだ前日だった。
僕は森川先生と朔也を、同じ場所に葬った。墓石は二つ建てた。
帰る前に、帳簿、録音機、そしてようやく見つかった告発状の写しを、墓前に置いた。風が丘を渡り、紙の端が静かにめくれた。
山を下りようとしたとき、背後で誰かが僕の名前を呼んだ気がした。
「亮介」
振り返った。けれど、そこには誰もいなかった。風が木の葉を抜ける音だけが聞こえる。陽光が二つの墓石の上に落ちていた。森川先生と朔也が並んで立っているように見えた。朔也は卒業写真のまま、少し照れたような顔で、森川先生はその隣で彼を見下ろし、ようやく穏やかな表情をしていた。
目をこすってもう一度見ると、墓前には何もなかった。僕は分かった。二人は、ようやく眠れるのだ。町へ戻ったあと、僕は荷物をまとめ、霧見町を離れることにした。
母は玄関先で僕を見送った。手には古い布包みを持っていた。
「これは、森川先生があなたを助けたあと、岸に残されていた万年筆よ。お父さんがずっと隠していた。今こそ、返すべきだと思う」
僕は布包みを受け取った。中に入っていた万年筆はひどく錆び、キャップは割れていた。軸にはまだ、森川健司の名前が刻まれている。
僕は万年筆を鞄へ入れ、車に乗った。
車がしばらく走ってから、僕は振り返った。霧見町はどんどん小さくなり、やがて山道の向こうへ消えていった。
スマホを取り出し、「森川先生」と登録されたLINEアカウントを開く。
トーク履歴は、最後の二通で止まっていた。僕はその二通を長いあいだ見つめ、最後に削除を押した。すべての嘘も、すべての恨みも、水に沈められたすべての名前も、ここで終わるべきだった。
そして僕は、残りの人生を使って彼らを忘れずに生きていく。
――完――




