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春風の朝食

作者: 雨音トキ
掲載日:2026/02/21

四月の朝。春風が、駅のホームを吹き抜ける。


私、桐島美月、三十二歳。派遣切りから半年。就職活動は百社を超えたが、全て不採用。貯金は底をつき、実家に戻った。


両親は優しかった。でも、毎朝の食卓が辛い。


「今日も面接?」


「うん」


「頑張ってね」


父の笑顔。母の笑顔。


その笑顔の裏に、心配と失望が透けて見える。


三十二歳で無職。結婚もしていない。キャリアもない。


私は、家族の重荷だ。


朝食を食べる。母が作った卵焼き。味噌汁。ご飯。


美味しいはずなのに、喉を通らない。


「ごちそうさま」


席を立つ。駅に向かう。


今日の面接は、小さな出版社。編集アシスタント。給料は手取り十八万円。


でも、受かるはずがない。


だって、私には何もないから。


駅のホームで電車を待つ。隣のホームに、スーツ姿のビジネスパーソンが並んでいる。


みんな、どこかに所属している。会社に。社会に。


私だけが、宙に浮いている。


春風が、また吹く。


桜の花びらが、ホームに舞い落ちる。


綺麗だ。でも、悲しい。


散っていく桜みたいに、私も消えていくのかもしれない。


電車が来た。乗り込む。


面接会場の最寄り駅で降りる。時計を見ると、まだ一時間早い。


近くの公園に入った。ベンチに座る。


ため息が出る。


「どうして、こうなっちゃったんだろう」


呟く。誰も聞いていない。


そのとき、目の前を小学生の女の子が走っていった。


転んだ。膝を擦りむいて、泣き出す。


私は立ち上がり、駆け寄った。


「大丈夫?」


ハンカチを差し出す。傷口を拭いてあげる。


「痛いね。でも、大丈夫。すぐ治るよ」


女の子が、涙を拭いて、笑顔になった。


「ありがとう、お姉ちゃん」


その笑顔を見て、胸が温かくなった。


久しぶりに、誰かの役に立てた気がした。


面接会場に着いた。小さなビルの三階。


「桐島美月さんですね。お待ちしておりました」


面接官は、四十代くらいの女性。編集長の吉川さんだ。


「よろしくお願いします」


履歴書を見ながら、吉川さんが言った。


「ブランクが長いですね」


「はい。前職を辞めてから、半年になります」


「なぜ辞めたんですか?」


「派遣切りです」


「なるほど。それで、なぜうちを?」


「子供向けの本が好きで。絵本や児童書の編集に携わりたいと思いました」


嘘だった。


本当は、どこでもよかった。どこかに所属したかっただけ。


吉川さんは、私の目をじっと見た。


「桐島さん。正直に言ってください。本当に、子供の本が好きなんですか?」


心臓がドキリとした。


「それは……」


言葉が出てこない。


吉川さんが、ため息をついた。


「面接で嘘をつく人、多いんです。『御社の理念に共感しました』とか、『この仕事が夢でした』とか。でもね、嘘はすぐ分かります」


「すみません」


「なぜ、嘘をついたんですか?」


「どこでもよかったんです。ただ、働きたくて。社会に必要とされたくて」


涙が出そうになった。


「親に心配かけたくなくて。無職の自分が嫌で。だから、どこでもいいから、採用してほしくて」


吉川さんは、黙っていた。


「もう、帰ってください」


やっぱり、ダメだった。


公園に戻った。ベンチに座る。


もう、どうでもいい。


スマホを取り出す。母からのメッセージ。


「面接、どうだった?」


返信できない。


公園の奥、立ち入り禁止の看板がある場所に、古い小屋があった。


管理人用の倉庫らしい。鍵はかかっていない。


入ってはいけない場所だと分かっている。


でも、どうでもよくなった。


ドアを開けて、中に入った。


薄暗い。埃っぽい。でも、静かだ。


床に座り込む。膝を抱える。


泣いた。


誰にも見られない場所で。


どれくらい泣いただろう。


ドアが開いた。


「誰だ?」


管理人のおじさんだった。


「すみません。勝手に入って」


「ここ、立ち入り禁止だぞ」


「分かってます。すみません」


おじさんは、私を見て、ため息をついた。


「何かあったのか?」


「面接、落ちました」


「そうか」


おじさんは、隣に座った。


「俺もな、昔、会社クビになったことあるんだ」


「え?」


「五十の時。リストラでな。家族もいて、ローンもあって。でも、どこも雇ってくれなかった」


おじさんの目が、遠くを見ていた。


「で、今は?」


「ここの管理人やってる。給料は安いけどな。でも、毎日、子供たちの笑顔が見れる。それだけで、生きてる価値があるって思えるんだ」


翌朝。また、朝食の席。


「昨日の面接、どうだった?」


父が聞く。


「ダメだった」


母が、悲しそうな顔をする。


でも、もう嘘はつかない。


「お父さん、お母さん。ごめん。私、もう百社以上落ちてる。多分、どこも雇ってくれない」


父が、箸を置いた。


「美月」


「でもね、決めたの。もう、『どこでもいい』って考えるのはやめる」


母が、不安そうに見ている。


「私、子供が好き。昨日、公園で転んだ子を助けたら、すごく嬉しかった。だから、子供に関わる仕事がしたい」


「でも、そういう仕事、経験ないでしょ」


「うん。だから、資格を取る。保育士の資格」


父が、驚いた顔をした。


「保育士? 試験、難しいぞ」


「分かってる。でも、やってみる。お金がないから、バイトしながら勉強する」


「何年かかるか分からないぞ」


「それでもいい。私、気づいたの。『どこかに所属すること』が目的じゃなくて、『何かの役に立つこと』が大事なんだって」


母が、涙を拭いた。


「美月。頑張りなさい」


その日から、私はコンビニでバイトを始めた。


朝五時から昼まで。夜は、保育士試験の勉強。


キャリアも、プライドも、全部捨てた。


でも、不思議と、心は軽かった。


一年半後。


保育士試験に合格した。


そして、あの出版社から、連絡が来た。


「桐島さん。吉川です。覚えていますか?」


「はい」


「実は、欠員が出まして。あなたに、来てほしいんです」


「え?」


「あの日、あなたは嘘をついた。でも、その後、正直に自分の気持ちを話してくれた。私、その姿勢が忘れられなくて」


「でも、私、落ちたはずでは」


「調べたんです。あなたのこと。コンビニで働きながら、保育士の資格を取ったって」


吉川さんの声が、温かかった。


「うちは、子供向けの本を作ってます。保育士の資格を持った編集者なんて、最高じゃないですか」


涙が出た。


「ありがとうございます」


初出勤の日。春の朝。


母が作った朝食を食べる。卵焼き。味噌汁。ご飯。


美味しい。本当に、美味しい。


「いってきます」


「いってらっしゃい」


両親の笑顔。今度は、本物の笑顔だ。


駅のホームに立つ。春風が吹く。


桜の花びらが舞う。


一年半前と同じ景色。でも、全く違う。


あの時、私は何もなかった。


今、私には資格がある。仕事がある。目的がある。


電車に乗る。


会社の最寄り駅で降りて、あの公園を通る。


管理人のおじさんが、掃除をしていた。


「おじさん!」


「お、君か。久しぶりだな」


「私、決まりました。出版社で働きます」


「そうか。よかったな」


おじさんが、笑顔になった。


「あの時、ありがとうございました」


「何もしてないよ」


「いえ。おじさんの言葉で、気づけたんです。大事なのは、肩書きじゃなくて、誰かの役に立つことだって」


会社に着いた。


吉川さんが、笑顔で迎えてくれた。


「桐島さん。ようこそ。今日から、一緒に働きましょう」


「よろしくお願いします」


デスクに座る。


目の前に、新刊の絵本が積まれている。


『春風の朝』というタイトル。


ページをめくる。


主人公は、小さな女の子。公園で転んで泣いている。


そこに、お姉さんが来て、優しく手を差し伸べる。


女の子が、笑顔になる。


「これから、この絵本のプロモーション、お願いね」


吉川さんが言った。


「分かりました」


窓の外、春風が吹いている。


桜の花びらが、舞っている。


散るんじゃない。舞っているんだ。


次の場所へ、運ばれていくんだ。


私も、散ったんじゃなかった。


一年半、待機していただけ。


そして今、新しい場所に根を下ろした。


ため息は、もう出ない。


代わりに、深呼吸をする。


春の空気。新しい始まり。


私は、今、ここにいる。


誰かの役に立つために。


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