春風の朝食
四月の朝。春風が、駅のホームを吹き抜ける。
私、桐島美月、三十二歳。派遣切りから半年。就職活動は百社を超えたが、全て不採用。貯金は底をつき、実家に戻った。
両親は優しかった。でも、毎朝の食卓が辛い。
「今日も面接?」
「うん」
「頑張ってね」
父の笑顔。母の笑顔。
その笑顔の裏に、心配と失望が透けて見える。
三十二歳で無職。結婚もしていない。キャリアもない。
私は、家族の重荷だ。
朝食を食べる。母が作った卵焼き。味噌汁。ご飯。
美味しいはずなのに、喉を通らない。
「ごちそうさま」
席を立つ。駅に向かう。
今日の面接は、小さな出版社。編集アシスタント。給料は手取り十八万円。
でも、受かるはずがない。
だって、私には何もないから。
駅のホームで電車を待つ。隣のホームに、スーツ姿のビジネスパーソンが並んでいる。
みんな、どこかに所属している。会社に。社会に。
私だけが、宙に浮いている。
春風が、また吹く。
桜の花びらが、ホームに舞い落ちる。
綺麗だ。でも、悲しい。
散っていく桜みたいに、私も消えていくのかもしれない。
電車が来た。乗り込む。
面接会場の最寄り駅で降りる。時計を見ると、まだ一時間早い。
近くの公園に入った。ベンチに座る。
ため息が出る。
「どうして、こうなっちゃったんだろう」
呟く。誰も聞いていない。
そのとき、目の前を小学生の女の子が走っていった。
転んだ。膝を擦りむいて、泣き出す。
私は立ち上がり、駆け寄った。
「大丈夫?」
ハンカチを差し出す。傷口を拭いてあげる。
「痛いね。でも、大丈夫。すぐ治るよ」
女の子が、涙を拭いて、笑顔になった。
「ありがとう、お姉ちゃん」
その笑顔を見て、胸が温かくなった。
久しぶりに、誰かの役に立てた気がした。
面接会場に着いた。小さなビルの三階。
「桐島美月さんですね。お待ちしておりました」
面接官は、四十代くらいの女性。編集長の吉川さんだ。
「よろしくお願いします」
履歴書を見ながら、吉川さんが言った。
「ブランクが長いですね」
「はい。前職を辞めてから、半年になります」
「なぜ辞めたんですか?」
「派遣切りです」
「なるほど。それで、なぜうちを?」
「子供向けの本が好きで。絵本や児童書の編集に携わりたいと思いました」
嘘だった。
本当は、どこでもよかった。どこかに所属したかっただけ。
吉川さんは、私の目をじっと見た。
「桐島さん。正直に言ってください。本当に、子供の本が好きなんですか?」
心臓がドキリとした。
「それは……」
言葉が出てこない。
吉川さんが、ため息をついた。
「面接で嘘をつく人、多いんです。『御社の理念に共感しました』とか、『この仕事が夢でした』とか。でもね、嘘はすぐ分かります」
「すみません」
「なぜ、嘘をついたんですか?」
「どこでもよかったんです。ただ、働きたくて。社会に必要とされたくて」
涙が出そうになった。
「親に心配かけたくなくて。無職の自分が嫌で。だから、どこでもいいから、採用してほしくて」
吉川さんは、黙っていた。
「もう、帰ってください」
やっぱり、ダメだった。
公園に戻った。ベンチに座る。
もう、どうでもいい。
スマホを取り出す。母からのメッセージ。
「面接、どうだった?」
返信できない。
公園の奥、立ち入り禁止の看板がある場所に、古い小屋があった。
管理人用の倉庫らしい。鍵はかかっていない。
入ってはいけない場所だと分かっている。
でも、どうでもよくなった。
ドアを開けて、中に入った。
薄暗い。埃っぽい。でも、静かだ。
床に座り込む。膝を抱える。
泣いた。
誰にも見られない場所で。
どれくらい泣いただろう。
ドアが開いた。
「誰だ?」
管理人のおじさんだった。
「すみません。勝手に入って」
「ここ、立ち入り禁止だぞ」
「分かってます。すみません」
おじさんは、私を見て、ため息をついた。
「何かあったのか?」
「面接、落ちました」
「そうか」
おじさんは、隣に座った。
「俺もな、昔、会社クビになったことあるんだ」
「え?」
「五十の時。リストラでな。家族もいて、ローンもあって。でも、どこも雇ってくれなかった」
おじさんの目が、遠くを見ていた。
「で、今は?」
「ここの管理人やってる。給料は安いけどな。でも、毎日、子供たちの笑顔が見れる。それだけで、生きてる価値があるって思えるんだ」
翌朝。また、朝食の席。
「昨日の面接、どうだった?」
父が聞く。
「ダメだった」
母が、悲しそうな顔をする。
でも、もう嘘はつかない。
「お父さん、お母さん。ごめん。私、もう百社以上落ちてる。多分、どこも雇ってくれない」
父が、箸を置いた。
「美月」
「でもね、決めたの。もう、『どこでもいい』って考えるのはやめる」
母が、不安そうに見ている。
「私、子供が好き。昨日、公園で転んだ子を助けたら、すごく嬉しかった。だから、子供に関わる仕事がしたい」
「でも、そういう仕事、経験ないでしょ」
「うん。だから、資格を取る。保育士の資格」
父が、驚いた顔をした。
「保育士? 試験、難しいぞ」
「分かってる。でも、やってみる。お金がないから、バイトしながら勉強する」
「何年かかるか分からないぞ」
「それでもいい。私、気づいたの。『どこかに所属すること』が目的じゃなくて、『何かの役に立つこと』が大事なんだって」
母が、涙を拭いた。
「美月。頑張りなさい」
その日から、私はコンビニでバイトを始めた。
朝五時から昼まで。夜は、保育士試験の勉強。
キャリアも、プライドも、全部捨てた。
でも、不思議と、心は軽かった。
一年半後。
保育士試験に合格した。
そして、あの出版社から、連絡が来た。
「桐島さん。吉川です。覚えていますか?」
「はい」
「実は、欠員が出まして。あなたに、来てほしいんです」
「え?」
「あの日、あなたは嘘をついた。でも、その後、正直に自分の気持ちを話してくれた。私、その姿勢が忘れられなくて」
「でも、私、落ちたはずでは」
「調べたんです。あなたのこと。コンビニで働きながら、保育士の資格を取ったって」
吉川さんの声が、温かかった。
「うちは、子供向けの本を作ってます。保育士の資格を持った編集者なんて、最高じゃないですか」
涙が出た。
「ありがとうございます」
初出勤の日。春の朝。
母が作った朝食を食べる。卵焼き。味噌汁。ご飯。
美味しい。本当に、美味しい。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
両親の笑顔。今度は、本物の笑顔だ。
駅のホームに立つ。春風が吹く。
桜の花びらが舞う。
一年半前と同じ景色。でも、全く違う。
あの時、私は何もなかった。
今、私には資格がある。仕事がある。目的がある。
電車に乗る。
会社の最寄り駅で降りて、あの公園を通る。
管理人のおじさんが、掃除をしていた。
「おじさん!」
「お、君か。久しぶりだな」
「私、決まりました。出版社で働きます」
「そうか。よかったな」
おじさんが、笑顔になった。
「あの時、ありがとうございました」
「何もしてないよ」
「いえ。おじさんの言葉で、気づけたんです。大事なのは、肩書きじゃなくて、誰かの役に立つことだって」
会社に着いた。
吉川さんが、笑顔で迎えてくれた。
「桐島さん。ようこそ。今日から、一緒に働きましょう」
「よろしくお願いします」
デスクに座る。
目の前に、新刊の絵本が積まれている。
『春風の朝』というタイトル。
ページをめくる。
主人公は、小さな女の子。公園で転んで泣いている。
そこに、お姉さんが来て、優しく手を差し伸べる。
女の子が、笑顔になる。
「これから、この絵本のプロモーション、お願いね」
吉川さんが言った。
「分かりました」
窓の外、春風が吹いている。
桜の花びらが、舞っている。
散るんじゃない。舞っているんだ。
次の場所へ、運ばれていくんだ。
私も、散ったんじゃなかった。
一年半、待機していただけ。
そして今、新しい場所に根を下ろした。
ため息は、もう出ない。
代わりに、深呼吸をする。
春の空気。新しい始まり。
私は、今、ここにいる。
誰かの役に立つために。




