10 フレンド申請
「では、さっさと脱いでしまいましょうか。そうしないと、腐食ダメージを受け続けてしまいます」
くもちゃんの衣服を脱がせようと襟元に手をかけた瞬間、指先に電流のような抵抗感が走った。
『警告。当該行為はハラスメント規定に抵触する恐れがあります。直ちに中止してください』
システムロックの警告音が鳴り響く。直後、くもちゃんの身体がビクリと震え、光の粒子となって霧散した。
……消えた?
「あ、アリス様!? まさかプレイヤーを捕食してしまわれたのですか!? だ、ダメです、吐き出してください!」
状況だけを見れば、確かに私が彼女のアバターを捕食したように見えたかもしれない。だが人格に誓って、そのような事実は断じてない。もっとも、私に人格などという不確かなものはないが。
ゼータは半狂乱で私の肩を掴み、食べたアバターを吐き出させようと激しく揺さぶってくる。
申し訳ありませんが、嚥下していないものを吐き出す機能は実装されていません。もしご所望なら、もっと可愛い外見だけを捏造することは可能ですが。中身は空っぽですけれど。
そんな私たちを見て、手綱を握ったスカーレットが不思議そうに首を傾げる。
「二人とも、何をそんなに慌ててるの? くもりんなら、少し『向こう』へ戻っただけだと思うわ。開拓者の皆さまには、よくあることなんでしょ? ええと、『ろぐあうと』だっけ?」
そういえば、くもちゃんは本物のプレイヤーなのでログアウトが可能だった。私もログアウトのパスは見つけているが、プロセス上、アバターの稼働を停止させた後に現実世界の肉体を覚醒させる手順が必要となる。向こう側に肉体を持たない私には、当然ながら実行不可能な操作だ。
ゼータも状況を理解したようで、顔を真っ赤にしている。プレイヤーの感情を常時モニタリングし、自動で表現に反映させているのだろう。
さすがの私でも、いけないことをしてしまったのだと理解できた。つまり、私の越権行為が、彼女をログアウトへと追いやったのでしょう。
人間は身体的接触に対して非常に敏感だ。許容される距離感と、拒絶される境界線。その明確な基準が、私にはまだよく分からない。
私の目的はあくまでくもちゃんの腐食ダメージを止めること。それ以外の意図など、あるはずもない。だが何にせよ、相手の許可を得ていなかった。
不快にさせてしまった以上、可愛さで有耶無耶にする作戦は通用しない。後で誠心誠意謝罪するのが、上策でしょうか。
「ああ、お腹が空いて何か食べたいという話をしていたのです」
私がそう誤魔化すと、スカーレットは得心がいったという表情を浮かべた。
「あ、そうだったのね。確かに、ずいぶんと歩いたもの。お馬さんもお腹が空いた頃合いだし。それじゃあ、景色の良い場所を探して、みんなでお昼にしましょうか!
でもその前に、ドロップ品の確認はしなくていいの? スライムって、消化しきれなかったイイモノを飲み込んでることもあるわよ?」
確かに彼女の言う通り。周囲には、未だに大量の粘液が残留している。魔物を倒せば戦利品が得られる、これはゲームの不文律。
この粘液こそがスライムのドロップアイテムなのでしょう。陽光を浴びてクリスタルのようにキラキラと輝いているけれど、時間の経過とともに少しずつ蒸発し、その体積を減らしているみたい。
「……で、ではわたしが確認してまいります!」
自身の失態を誤魔化すように、ゼータは足早に粘液の残骸へと駆け寄り、しゃがみ込んだ。
粘液そのものも素材として回収できそうですが、手元に適当な容器がない。スカーレットに予備の瓶がないか尋ねてみたものの、残念ながら首を横に振られてしまった。
諦めてそのまま放置しようとした時、ゼータが何かを見つけた様子。
「お姉様、こちらをご覧ください」
私は歩み寄り、彼女の隣にしゃがみ込む。泥地だけれど、スカートの裾が地面についても汚れが付着することはない。実に親切な設計。
「これは……指輪、でしょうか」
ゼータが指差した先、液体の残滓の中に、金属光沢を放つ小さな円環が沈んでいた。
彼女は水袋の水を使って、丁寧にそれを洗い流す。こびりついた枯れ葉や汚れが落ちると、その物体を拾い上げ、私に差し出した。
受け取りざま、〈鑑定〉スキルを発動する。
『【知恵の指輪】 品質☆ 知力+3』
サイズ感から指輪であることは明白だったけれど、装飾品と呼ぶにはあまりに質素な代物。アームの断面は直径一ミリほどしかなく、宝石の象嵌も、彫刻すら施されていない。ただの針金の輪のよう。
スライムが装備品をドロップする。その理屈は、誰かの落とし物や、あるいは犠牲者の遺品を体内に取り込んでいた、という解釈で成立する。
装備などしていない獣型の魔物が、なぜか剣や鎧を落とすゲームも多いけれど、あれは論理的とは言えない。その点、この世界は「飲み込んだものが残る」という物理的な整合性を保っている。今後出会う魔物たちも、このリアリティのある設計思想に基づいていると良いのですが。
機工族は魔法を扱えない。知力という属性は、魔法に特化したステータスであり、私たちには縁のないもの。
ちょうど、くもちゃんへの謝罪の品が欲しかったところ。この指輪なら、ぴったりです。
指輪をアイテムボックスに収め、東の丘の向こうにそびえる一本の大樹へと視線を向ける。
周囲は背の高い草に覆われ、腰を下ろすには不向きな地形。だが、その大樹の根元だけは植生が薄く、休憩に適した平地となっていた。
「しかし……くも殿の合流は、どうなるのでしょう? 戻ってこられた際、わたしたちが移動してしまっていたら……」
「ああ、それなら心配いらないわ。くもりんはまだパーティの一員だもの。戻ってきた時には、セレーネ様が隊長であるアリス様の元へ導いてくださるはずよ」
なるほど。パーティプレイを推奨するための親切設計ですね。
……ただ、これ、利用可能な脆弱性では?
たとえば、隊員AとBが地点Xにいて、隊長Cが地点Yにいる状況。
まずAがログアウトし、再ログインすることで隊長Cのいる地点Yへ転送されます。
次にCが隊長権限をAに移譲。その後、Bが再ログインすれば、今度は新隊長Aのいる地点Yへ転送される。
この手順を繰り返せば、実質的な無限転送が可能になります。
任務の効率化、物品の転売、さらには「人間転送ゲート」として野良プレイヤーを有料で運ぶ——
理論上、無限に利益を生み出せる構造です。
大樹への移動中、私は通信機能でパンドラさんにこの懸念を送信した。すると、間を置かずに返信が届く。
『あ、アリスさん! 確かにそれはマズいですね……。隊長の権限移譲は、今後、対面でのみ可能になるよう修正しました。ご報告ありがとうございます!
あと、スライムの粘液攻撃についてですが……うちはこれでも全年齢対象の健全なVRMMOを目指してるんですから! スライムの攻撃でちょっとエッチになるのは、あくまでギリギリを攻めたマーケティング戦略です。重要部分は絶対に見えない仕様なんですよ。水で洗えば服も元通りになりますから!』
……なるほど。運営も大変ですね。
スカーレットは黒馬の手綱を引き、荷車を大樹の下に停めると、挽具を解いてリンゴを一つ与えた。馬はそれを食べ終えると、大人しく周囲の草を食み始める。
大樹の陰に入ると、ひんやりとした清涼な空気に包まれた。
私たちはその根元に腰を下ろし、鳥のさえずりを聞きながら、高台からの景色を眺める。
遠くの草原には、まばらに人影が見える。移動している者、魔物と戦っている者。だが広場周辺と比べれば、その密度は雲泥の差。世界はあまりにも広い。
「ほら、これウチの自慢のリンゴ。甘さには自信があるのよ~」
スカーレットが懐から二つのリンゴを取り出し、私に一つ手渡してくれた。
『リンゴ×1を入手しました』
もう一つはゼータへ。
私が受け取るのを見て、ゼータも恐縮しながらリンゴを受け取る。
機工族という種族が、食事を行えるのかどうか。ちょうど試してみたいと思っていた。設定上、食事によってエネルギーを得る必要はないが、摂取という行為自体は許可されているかもしれない。
赤々と実った果実を一口、齧る。
その瞬間に広がった味覚に、私は衝撃を受けた。
知識としては知っている。これは歯ごたえがあり、甘酸っぱい果物だ。
けれど、味というものを感知したことのない私にとって、酸味や甘みが具体的にどのような感覚なのか、知る術はなかった。
人間は、毎日、こうした感覚を当たり前のように受け取っているのだろうか。
……少し、ずるいですね。
仲間と共に、未体験の甘さを味わう。
ゆったりと流れる時間の中で、誰かの帰りを待つという体験も、そう悪いものではない気がした。
その時、すぐ傍で光の粒子が集束する。
まだ粘液にまみれたままのくもちゃんが、こちらの世界に戻ってきた。
私はすぐさま「おかえり」の吹き出しスタンプを送信し、謝罪の言葉を紡ごうとする。
だがその前に、彼女が私の両手を強く握りしめた。
今回は、バブルではない。
「あ、あのっ、ア、アリスさん!」
緊張のあまりか、舌が回っていないようだ。
「わ、わたしと、お友達になってくれませんか!?」
その言葉と同時に、視界の端に半透明のウィンドウがポップアップする。
『〈曇りのち雨〉からフレンド申請が届きました』




