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第7話 魔女のワインと、帝国からの珍客

「よいしょっ、よいしょっ!」


軽快な掛け声とともに、私は大きな木の桶の中で足踏みをしていた。

足の裏に感じるのは、プチン、プチンと弾けるブドウの感触。

ひんやりとした果肉が潰れ、指の間から果汁がジュワリと溢れ出してくる。


ここは世界樹の根元にある、即席の醸造所だ。

桶の中には、私の背丈ほどもある『巨峰』の山――いや、正確には私が魔力で巨大化させた『ギガント・グレープ』が詰め込まれている。


「ふぅ……結構いい運動になりますね!」


私は額の汗を拭いながら、桶の縁にもたれて見守っているレンさんに笑顔を向けた。

裾を太ももまでまくり上げた状態で踏んでいるので、少し恥ずかしいけれど、美味しいワインのためだ。


「レンさん、どうですか? 潰れ具合は」


「……ああ。完璧だ」


レンさんは腕組みをしたまま、私の足元を凝視していた。

その視線は真剣そのもので、まるで剣術の型を見極めているかのようだ。

でも、耳が少し赤くなっているのは気のせいだろうか?


「その、フローリア。疲れたら代わろう。君の足が冷えてしまう」


「大丈夫ですよ! それに、これは『乙女の足踏み』という工程が重要なんです。おばあちゃんが言ってました、若い娘が踏むと菌が活性化して美味しくなるって!」


「……なるほど。確かに、視覚的な活性化効果は凄まじいな」


「視覚的?」


「いや、独り言だ。続けたまえ」


レンさんは口元を手で覆い、咳払いをした。


私は再び足踏みを再開した。

リズミカルに踏むたびに、私の魔力が自然と果汁に溶け込んでいく。


通常、ワイン作りには長い熟成期間が必要だ。

酵母が糖分を分解し、アルコールへと変えるのに数ヶ月、さらに樽で寝かせて数年。

けれど、私の手にかかればそんな常識は通用しない。


「美味しくなーれ、芳醇になーれ。百年の時を、今ここで駆け抜けよ」


心の中で詠唱する。

桶の中がポウッと淡い紫色の光に包まれた。

ブドウの果汁が渦を巻き、発酵と熟成のプロセスが数秒で進行していく。


辺りに漂い始めたのは、ただのブドウジュースの香りではない。

もっと深く、妖艶で、鼻孔をくすぐるような熟成酒のアロマ。

樽の木の香りと、果実の凝縮された甘み、そして鼻に抜けるスパイシーな刺激。


「よし、完成です!」


私は桶から飛び出し、近くの小川で足を洗うと、柄杓ひしゃくを持って戻ってきた。

桶の中には、透き通ったルビー色の液体がなみなみと満たされている。


「さあ、レンさん。試飲タイムですよ!」


グラスに注ぐと、美しい『天使の足跡(ワインの滴)』がガラスの内側を伝い落ちる。

レンさんはグラスを受け取り、光にかざして色を確認した。


「……信じられん。今の数分で、ヴィンテージワインのような輝きだ」


「お味はどうでしょう?」


彼はグラスを回して空気に触れさせ、静かに口に含んだ。


瞬間、レンさんの目がカッ! と見開かれた。


「――ッ!!」


言葉にならない衝撃が、彼を襲ったようだ。

彼はしばらく身動きもせず、喉を鳴らしてワインを飲み干すと、呆然とグラスを見つめた。


「どうですか? 渋すぎました?」


「……いや。これは、酒ではない」


「えっ、失敗!?」


「『神の血』だ」


レンさんは震える声で言った。


「口に含んだ瞬間、全身の血流が爆発的に加速した。魔力回路が拡張され、五感が研ぎ澄まされていく。……これ一杯で、最高級の回復薬ハイ・ポーション数本分の効果があるぞ」


「あら、元気が出るお酒ってことですね! よかったぁ」


「元気が出る、などというレベルではないが……まあいい」


レンさんは苦笑し、もう一口飲んだ。

頬がほんのりと朱に染まる。

あの無敵の竜公爵様でも、私の作った『百年熟成(魔法)』のワインには酔いが回るらしい。


「フローリア、君も飲みなさい。君が作った奇跡だ」


「はい! いただきます」


私もグラスに注いで一口飲んだ。

うわぁ、濃厚!

ブドウの甘みがガツンと来て、その後に心地よいアルコールの熱さが広がる。

体がポカポカして、ふわふわといい気分になってきた。


私たちは世界樹の根元に腰を下ろし、即席の酒盛りを始めた。

おつまみは、自家製のドライフルーツとチーズ。

夕暮れの風が心地よく吹き抜ける。


「……なぁ、フローリア」


グラスを傾けながら、レンさんが静かに口を開いた。

いつもより少しだけ、ガードが緩んでいるような声色だ。


「君は、恨んでいないのか?」


「何をですか?」


「国を、だ。君を不当に扱い、こんな荒野に捨てた王家や家族を……復讐したいとは思わないのか?」


レンさんの琥珀色の瞳が、じっと私を見つめている。

私はチーズをかじりながら、少し考えてから首を振った。


「うーん……最初は、ちょっと悔しかったですけど」


「ちょっと、か」


「でも、今は感謝してるんです。だって、あそこにいたら、こんなに素敵な毎日は送れませんでしたから」


私は頭上の世界樹を見上げた。

葉の間からこぼれる夕日が、金色の粒子のように降ってくる。


「私は植物が好きです。植物はね、怒りや憎しみの言葉をかけると、枯れちゃうんです。でも、愛情をかけて『綺麗だね』『ありがとう』って育てると、予想以上の花を咲かせてくれる」


私はレンさんに向き直り、へへと笑った。


「だから、私の人生も同じかなって。過去を恨んでイライラするより、今の幸せを育てた方が、きっと美味しい実がなりますよ。……このワインみたいに!」


レンさんは目を丸くし、それからふっと柔らかく笑った。

その笑顔は、今まで見たどの表情よりも優しくて、胸がトクンと跳ねた。


「……そうか。君は、本当に強いな」


「そ、そうですか? レンさんの方が強そうに見えますけど」


「いや、俺は……」


レンさんが何か言いかけた、その時だった。


ザッ。


風の音が変わった。

楽しげな酔いが一瞬で覚めるような、鋭い気配。

レンさんの表情が瞬時に引き締まり、手元のグラスを地面に置いた。


「誰だ」


低く、凍えるような声。

彼は座ったまま、背後の茂みを睨みつけた。


私も慌てて振り返る。

私の庭には『感知結界』が張ってあるはずだ。

害意のある侵入者は、トマトやスミレたちが撃退しているはずなのに、誰も反応しなかった?


「……おたわむれが過ぎますぞ、閣下」


茂みの中から現れたのは、一人の男だった。

銀色の髪をきっちりと撫で付け、銀縁眼鏡をかけた神経質そうな青年。

仕立ての良い旅装束に身を包んでいるが、その目は疲労で少し窪んでいる。


「ジーク……!」


レンさんが驚きの声を上げた。

知り合い?


男の人は、レンさんの姿――白いシャツに土汚れのついたズボン、そして手にはワイングラス――を見て、眼鏡の奥の目を点にした。


「……閣下。そのお姿は、一体?」


「見ての通りだ。晩酌中だが」


「晩酌……? 死の荒野で? 美女と? 庭師の格好で?」


男の人は頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。

そして、私の存在に気づくと、ハッとして居住まいを正した。


「失礼いたしました。私は……レンの、その、古くからの友人で、ジークと申します」


彼は優雅な動作で一礼した。

その動きは洗練されていて、ただの友人とは思えない。

執事さんか、貴族の方だろうか。


「あ、初めまして! フローリアです。レンさんと一緒にここで暮らしています」


「く、暮らして……!? 同棲……!?」


ジークさんは絶句し、レンさんを二度見した。

レンさんはバツが悪そうに顔を背けている。


「あの、レンさんのお友達なら歓迎します! ちょうどワインを開けたところなんです。ジークさんもいかがですか?」


「は? ワイン? いえ、私は任務……いや、用事で来ておりまして」


「まあまあ、そう言わずに!」


私は新しいグラスを取り出し、なみなみと注いで手渡した。

断りきれなかったのか、ジークさんは困惑しながらもそれを受け取った。


「……では、一口だけ」


彼は疑わしげに口をつけた。

そして――


「ぶふっ!!」


盛大にむせた。


「な、なんですかこれはっ!? この魔力濃度……! あ、あり得ない! これは帝国皇帝の御用達ワイン『竜の血涙』すら凌駕する代物……!」


「あら、お口に合いませんでした?」


「合わないどころの話ではありません! これは国宝です! なぜこんなものが野外で振る舞われているのですか!?」


ジークさんは錯乱状態でレンさんに詰め寄った。


「閣……いや、レン! 貴方はこんなものを毎日飲んでいるのですか!?」


「毎日ではない。今日できたばかりだ」


レンさんは冷静に答えた。


「それにジーク、驚くのはまだ早い。そこのチーズを食ってみろ」


「チーズ……? ただのチーズに見えま……むぐッ!?」


チーズを口に入れたジークさんは、今度は膝から崩れ落ちた。


「う、うまい……! 精神の疲労が溶けていく……! 三徹(三日徹夜)の頭痛が嘘のように……!」


どうやらジークさん、相当お疲れのようだ。

涙目でチーズを貪り食う姿を見て、私は「かわいそうな人なんだな」と同情した。


「たくさんありますから、ゆっくり食べてくださいね」


「女神様……ここに女神様がいらっしゃる……」


ジークさんは私を拝み始めた。

レンさんが呆れたように溜息をつき、ジークさんの襟首を掴んで立たせた。


「おい、しっかりしろ。……それで、どうやってここまで入ってきた?」


レンさんの声がトーンダウンし、真剣な響きを帯びる。


「ああ、そうでした」

ジークさんは眼鏡を押し上げ、表情を引き締めた。


「閣下の結界技術は熟知しておりますので、魔力の隙間を縫って侵入しました。……ですが、驚きましたよ。植物たちがまるで意思を持っているかのように襲いかかってくるとは。私の『隠密スキル』がなければ、今頃肥料になっていたでしょう」


「なるほどな。でお前が直接来たということは、緊急事態か?」


「はい」


ジークさんは周囲を警戒するように見回してから、声を潜めた。


「東――サンタリア王国軍が動きました」


その言葉に、空気が凍りついた。


「王国軍?」私が聞き返す。


「はい。先日の偵察隊の報告を受け、カイル王太子が激昂したようです。『魔女討伐』の名目で、近衛騎士団五百、および宮廷魔導師団五十名を率いて、こちらへ進軍中とのこと」


五百!?

私はめまいがした。

いくら防犯植物が強くても、そんな大軍相手では分が悪い。

しかも、魔法使いまでいるなんて。


「到着予定は?」レンさんが短く問う。


「明日の正午。……閣下、いえ、レン。もはや隠れている場合ではありません。帝国の介入を許可してください。私の合図一つで、国境に待機させている『黒竜騎士団』が動けます。王国ごとき、一瞬で消し炭に……」


ジークさんの目が怖い。

本気で消し炭にする気だ。


しかし、レンさんは首を横に振った。


「ならん。帝国軍が動けば、全面戦争になる。ここは中立地帯だ。我々が先に手を出せば、国際条約違反になる」


「ですが! このままではフローリア様も、この楽園も蹂躙されます!」


「……蹂躙?」


レンさんが鼻で笑った。

その笑みは、獰猛な肉食獣のようだった。


「誰の庭に足を踏み入れるつもりだ? 俺がいる限り、雑草一本踏ませはしない」


レンさんは立ち上がった。

夕闇の中で、彼の体から立ち昇るオーラが、赤く揺らめいた気がした。


「ジーク、お前はここでフローリアの護衛をしろ。俺が前線に出る」


「えっ、レンさん!? 一人で行く気ですか!?」


私が慌てて止めようとすると、レンさんは私の方を向き、いつもの穏やかな顔に戻って言った。


「大丈夫だ。ちょっと害虫駆除に行くだけだよ。……それに」


彼は私の手を取り、手の甲にそっと口づけを落とした。


「君が丹精込めて作ったこの庭を、あんな無粋な連中には壊させない。……俺が守りたいのは、君と、君の作ったこの世界だからだ」


「レンさん……」


顔が熱い。

心臓がうるさい。

こんな時に不謹慎だけど、かっこよすぎて直視できない。


「さあ、フローリア。明日の勝利の前祝いだ。もう一杯、注いでくれないか?」


レンさんは悪戯っぽくグラスを差し出した。

私は震える手でボトルを持ち、彼のグラスに注いだ。


月明かりの下。

最強の庭師(公爵)と、最強の執事(騎士団副団長)と、規格外の植物使い(私)。

奇妙な三人の作戦会議――という名の飲み会は、夜遅くまで続いた。


そして翌日。

太陽が真上に昇る頃。

地平線を埋め尽くすほどの砂煙と共に、カイル王太子率いる「魔女討伐軍」が姿を現した。


「見よ! あれが魔女の森だ!」


王太子の号令が響く。

しかし、彼らはまだ知らない。

その森の前に、たった一人で立ちはだかる男が、一国の軍隊よりも遥かに恐ろしい存在であることを。

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主人公はいつの間に竜公爵って知ったんですかね。初めから知ってたけど知らないふりしてただけ?
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