最終話 いつもの朝、世界樹の下で
カーテンの隙間から差し込む光が、昨夜のグラタン皿の縁でキラリと反射している。
小鳥のさえずりが聞こえる。
私はベッドの上で大きく伸びをした。
隣を見ると、シーツにはまだレンさんの体の形が残っていて、微かな温もりがそこにあった。
彼はもう起きて、日課の鍛錬に行っているのだろう。
「……いい天気」
私はベッドを降り、窓を開け放った。
流れ込んでくるのは、エデンの朝の空気。
湿った土の匂いと、若草の香り。
それは、私がこの世界に来てからずっと、何よりも愛してきた匂いだ。
着替えを済ませ、私は部屋を出た。
廊下を抜け、重厚な扉を開けて外に出る。
まぶしい。
朝日が、世界樹の葉を透かして金色のシャワーのように降り注いでいる。
昨日の騒ぎで踏み荒らされた芝生は、マリアベルさんの手によってもう修復され、青々と輝いていた。
私は深呼吸をして、いつもの作業小屋へ向かった。
使い慣れたスコップと、じょうろを手に取る。
柄の感触が掌にしっくりと馴染む。
この重みが、私を「世界を救った聖女」から「ただの庭師」へと引き戻してくれる。
「さて、今日はトマトの様子を見なくちゃ」
私は鼻歌交じりに畑へ歩き出した。
カゴを片手に、畝の間を進む。
足元の土はふかふかで、踏みしめるたびに「おはよう」と返事をくれているようだ。
トマト畑に到着すると、そこにはすでに先客がいた。
「パパ! これ、あかいよ!」
「ああ。いい色だ。……フローリアが喜ぶぞ」
レンさんとユユだ。
レンさんは剣の代わりに収穫用のハサミを持ち、ユユは自分の顔より大きなカゴを抱えている。
二人は真剣な顔で、トマトの選別作業をしていた。
「……ふふっ」
私は思わず吹き出してしまった。
世界最強の竜公爵と、伝説の女神の力を持つ娘が、トマト一つにこれほど真剣な顔をしているなんて。
「あ、ママ! おはよ!」
私の笑い声に気づいたユユが、パッと顔を輝かせて駆け寄ってくる。
背中の翼がパタパタと揺れ、頭の双葉が嬉しそうに震えている。
「おはよう、ユユ。早起きね」
「うん! パパとおてつだいしてるの!」
「おはよう、フローリア」
レンさんが立ち上がり、こちらへ歩いてくる。
朝露に濡れたシャツの袖をまくり上げ、泥のついた手で額の汗を拭う仕草。
その飾らない姿が、どんな礼服姿よりも素敵に見えた。
「おはようございます、レンさん。……起こしてくださればよかったのに」
「君は昨日、疲れ果てていただろう。……可愛い寝顔を邪魔したくなかったんだ」
レンさんはサラリと言って、私の頬に軽くキスをした。
朝から心臓に悪い。
でも、その唇の温度が、今日という一日の始まりを祝福してくれているようで、私は自然と微笑み返した。
「ありがとうございます。……見てください、このトマト」
私は真っ赤に熟れたトマトを一つもぎ取った。
ずっしりとした重み。
パンパンに張った皮の中で、生命力が溢れ出しそうになっている。
「『太陽のルビートマト』……。最初にここで作った時よりも、ずっと立派になりましたね」
「ああ。君の愛と、この土地の力が育てた結晶だ」
レンさんがトマトを受け取り、袖で軽く拭いてから、ガブリとかじった。
ジュワッ、という音と共に果汁が溢れる。
「……甘い」
彼は目を細め、満足げに頷いた。
「世界中のどんな宝石よりも、俺にはこの赤色の方が価値がある」
「宝石じゃお腹は膨れませんからね」
私もトマトをかじった。
甘酸っぱい味が口いっぱいに広がり、身体の細胞が一つ一つ目覚めていくのを感じる。
これだ。
この味が、私の原点。
かつて「雑草」と蔑まれ、婚約破棄され、荒野に捨てられた私。
でも、今はこうして、愛する家族と、最高のトマトに囲まれている。
「ママ、ユユもたべるー!」
「はいはい。お口を開けて」
私が差し出したトマトに、ユユが小さな歯を立てる。
口の周りを真っ赤にして笑う娘を見て、レンさんも声を上げて笑った。
風が吹いた。
世界樹がザワザワと枝を揺らし、私たちの上に木漏れ日を落とす。
その光の中で、私は改めて周囲を見渡した。
遠くには、シルヴィオ様が新しい温室の設計図を広げているのが見える。
マリアベルさんは、ゴブリンたちに指示を出して、新しい畝を作っている。
空には、ゼファーさんが送ってくれた定期便の飛行船が浮かび、海の方からはマリーナさんの船の汽笛が聞こえる。
地底からは、ハーデス様からの「キノコ便」が届いた合図の鐘が鳴っている。
世界は繋がった。
そして、私たちはここで生きている。
「フローリア」
レンさんが私の手を握った。
土で汚れた、私の手。
彼はその手を、両手で包み込むようにして持ち上げた。
「……俺は、幸せだ」
彼の言葉に、胸が詰まる。
言葉少なな彼の、精一杯の愛の告白。
「君が俺を見つけてくれたあの日から……俺の世界は、色鮮やかになった。……ありがとう」
「私の方こそ」
私は彼の手を握り返した。
「私を見つけてくれて、信じてくれて……一緒に畑を耕してくれて、ありがとうございます」
レンさんの瞳に、私が映っている。
そこにはもう、孤独な令嬢の姿はない。
愛され、必要とされ、そして誰かを愛する、一人の女性がいるだけだ。
「これからも、ずっと一緒だ」
「はい。……死ぬまで、いえ、死んでからも」
「気が早いな。……だが、悪くない契約だ」
レンさんが笑い、私を抱き寄せた。
二人の間に、ユユが「ぎゅー!」と言って割り込んでくる。
温かくて、少し重くて、愛おしい塊。
これが、私の手に入れた全て。
王冠よりも、ドレスよりも、ずっと価値のある宝物。
「さあ、作業を続けましょうか! 今日は収穫が忙しくなりそうですよ!」
私はレンさんの腕から抜け出し、カゴを持ち直した。
感傷に浸っている暇はない。
野菜たちは待ってくれないのだ。
「ああ。……昼飯は何だ?」
「採れたて野菜のカレーにしましょうか!」
「やったー! カレー!」
ユユが飛び跳ねる。
レンさんも「楽しみだ」と口元を緩める。
私たちは並んで歩き出した。
どこまでも続く青空の下、緑溢れるエデンの畑を。
私の名前はフローリア・グリーン。
かつて「雑草」と呼ばれた、世界一幸せな庭師。
物語はここで一区切り。
でも、私たちの人生は、これからもずっと続いていく。
太陽が昇り、雨が降り、種が芽吹く限り。
「……大きく育ってね」
私は足元の小さな芽に声をかけた。
それは、新しい命への、そして私たち自身の未来への、祈りの言葉だった。
風が、優しく私の髪を撫でていった。
-完-
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