第11話 熱々のグラタンと世界平和の隠し条項
世界中に緑の点が灯ったあの地図の残像が、まぶたの裏でまだチカチカと輝いている。
日が落ちて、エデンの空には満天の星が広がっていた。
窓の外からは虫の声が聞こえる。
私はダイニングの椅子を引き、ふぅ、と息を吐いて座った。
背もたれに預けた背中から、一日中動き回った心地よい疲れが溶け出していく。
「さあ、焼き上がりましたよ」
私はミトンをはめた手で、オーブンから大きな耐熱皿を取り出した。
ズシリとした重み。
それは、今日という長い一日を締めくくる、幸せの重さだ。
テーブルの中央に皿を置く。
グツグツという音と共に、焦げたチーズとホワイトソースの濃厚な香りが、部屋いっぱいに弾けた。
「わぁ! グラタンだ!」
ユユが歓声を上げ、スプーンを握りしめて身を乗り出す。
その隣で、レンさんが私の手からミトンを受け取り、労うように手の甲を撫でた。
「いい匂いだ。……世界中の王たちと食った飯より、ずっと美味そうだ」
「ふふ、中身はただの野菜ですよ」
「それがいいんだ」
レンさんがワインをグラスに注ぐ。
トクトクという音が、静かな夜に染み渡る。
今日の食卓には、王様も海賊もいない。
私とレンさん、ユユ、タケシ。
そして、まだ興奮冷めやらぬ様子で羊皮紙を整理しているシルヴィオ様と、ワインを開けるマリアベルさんだけだ。
気兼ねない、いつものメンバー。
張り詰めていた糸が緩み、私は自然と頬が緩むのを感じた。
「いただきましょう。冷めないうちに」
私が取り分けたグラタンを、みんなが一斉に口に運ぶ。
「あつっ、はふっ……うまーい!」
マリアベルさんが行儀悪く足をバタつかせた。
ホワイトソースには、マリアベルさんが育てた玉ねぎの甘みが溶け込んでいる。
ホクホクのジャガイモ、ジューシーなカボチャ、そしてプリプリのキノコ。
すべてがエデンの土で育った子供たちだ。
「……ん。最高だ」
レンさんも目を細める。
彼が咀嚼するたびに、その鋭い目つきが優しく崩れていくのを見るのが、私は好きだ。
「ところで、フローリア先生」
シルヴィオ様が、フォークを置かずに羊皮紙を一枚、テーブルに滑らせてきた。
「例の条約の正本、清書が終わりました。確認をお願いします」
「ああ、昼間のサインのやつですね」
私はスプーンを置き、チーズで少し汚れた指先をナプキンで拭った。
紙を受け取る。
そこには『エデン不可侵および食料供給に関する恒久平和条約』と、仰々しい文字が並んでいた。
各国の代表のサインが並んでいる。
皇帝陛下の力強い筆跡、マリーナさんの殴り書き、ハーデス様の達筆な文字。
それを見ているだけで、あのドタバタとした宴の光景が蘇り、口元が緩む。
「みんな、ご飯が美味しかったから仲良くしてくれたんですよね」
私がそう言うと、レンさんがグラスを回しながら、フッと笑った。
「まあ、表向きはな」
「表向き?」
「よく読んでみろ。……一番下の、小さな文字だ」
レンさんの長い指が、紙の隅を指し示す。
私は目を凝らした。
そこには、虫眼鏡が必要なほど小さな文字で、びっしりと補足条項が書かれていた。
『第99条:エデンの野菜を食した者は、その魔力的な充足感により、提供者に対する敵対意識を喪失する。なお、この効果は永続する』
「……えっ?」
さらに続く。
『第100条:万が一、提供者の心身を傷つける行為があった場合、帝国竜公爵ロレンツォ・ドラグニルは、即座に当該国家を地図から抹消する権利を有する』
「ちょ、ちょっとレンさん!?」
私は紙をテーブルに叩きつけた。
「なんですかこの物騒な条文は! しかも『地図から抹消』って!」
「事実を記述しただけだ。契約は正確でなければならん」
レンさんは悪びれもせず、グラタンの焦げ目を突っついている。
「それに、99条の効果は実証済みだ。現に、あの好戦的な海賊や狂信的な教団が、君の前では借りてきた猫のようになっていただろう?」
「それは……料理が美味しかったからじゃ……」
「美味いだけでは、人は剣を捨てんよ。……君の料理には、食べた者の闘争本能を鎮める『魔法』がかかっているんだ」
レンさんが私を見た。
その瞳は真剣で、そして深い愛情に満ちていた。
「君は無自覚かもしれないが……君は料理で、世界に『去勢』を施したんだよ」
「言い方が悪すぎます!」
私は頬を膨らませたけれど、心の中では少しだけ納得していた。
確かに、みんな憑き物が落ちたような顔をしていた。
あれが私の魔法のせいだとしても、結果として平和になったのなら、まあいいか。
「パパ、ママ、むずかしいはなし、だめー」
隣から、とろんとした声が聞こえた。
見ると、ユユがスプーンを握ったまま、船を漕いでいる。
口の周りをソースだらけにして、瞼がくっつきそうだ。
「おや。限界か」
レンさんが苦笑し、立ち上がった。
彼は慣れた手つきでユユを抱き上げる。
ユユは抵抗することなく、パパの広い胸に顔を埋めた。
「寝室へ運んでくる。……フローリア、君ももう休め。今日は働きすぎだ」
「はい。片付けが終わったら……」
「片付けは僕たちがやりますよ!」
シルヴィオ様が勢いよく手を挙げた。
マリアベルさんも、ワインボトルを空にして豪快に笑う。
「そうよ! 主役はさっさと寝なさい。肌に悪いわよ!」
「……ありがとうございます」
お言葉に甘えることにした。
私も、もう立っているのがやっとなくらい眠かったのだ。
レンさんの背中を追って、廊下に出る。
ダイニングの賑やかな声が、扉一枚隔てて遠ざかる。
廊下は静かで、窓から差し込む月明かりが、床に青白い道を作っていた。
寝室のドアを開ける。
レンさんが、ユユをベッドにそっと下ろした。
布団をかけ、小さなおでこにキスをする。
その一連の動作があまりにも慈愛に満ちていて、私は入り口で立ち止まったまま、その光景に見入ってしまった。
「……どうした? 入らないのか?」
レンさんが振り返り、声を潜めて尋ねる。
「いえ……。ただ、幸せだなって」
私は素直な気持ちを口にした。
レンさんが近づいてくる。
月光を背負った彼は、出会った頃よりもずっと柔らかい空気を纏っている。
「俺もだ。……君がくれた毎日が、俺の宝物だ」
彼は私の腰に手を回し、引き寄せた。
触れ合う体温。
お風呂上がりの石鹸の香りと、微かな土の匂い。
「明日からは、また普通の生活だな」
「はい。畑を耕して、水をやって……」
「世界中から注文が殺到するだろうがな」
「ふふ、嬉しい悲鳴ですね」
私たちは小さく笑い合った。
世界を救ったとか、歴史を変えたとか、そんな大それた実感はない。
ただ、明日もまた、この人と一緒に畑に立てることが、何よりも嬉しかった。
「おやすみ、フローリア」
レンさんの唇が、私のおでこに触れる。
「おやすみなさい、レンさん」
窓の外では、世界樹が静かに葉を揺らしている。
その根は深く大地に張り、その枝は空高く伸びて、世界中を見守っている。
そしてその足元で、私たちは今日という日を終える。
深い眠りが訪れる直前、私は思った。
明日は、トマトの苗を植え替えよう。
きっと、いい実がなるはずだ。
次回最終回です!!
完結までぜひ楽しんでいってくださいー!!




