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第9話 黄金色のお粥と平和のサイン

昨夜の星空の残像が、瞼の裏にまだ焼き付いている。


目を開けると、そこには朝露に濡れた若草色のカーペットが広がっていた。

頬に触れる朝の空気はひんやりとしていて、肺いっぱいに吸い込むと、昨日の喧騒が嘘のように静かだ。


「……ん」


体を起こすと、肩にかけてあったブランケットがカサリと音を立てて滑り落ちた。

厚手で、温かい。

隣を見ると、レンさんが木に背中を預けたまま、腕組みをして仮眠をとっていた。

その寝顔は、戦場で見せる鬼神のような厳しさはなく、ただの穏やかな青年そのものだ。


私は音を立てないように立ち上がり、伸びをした。

関節がポキポキと鳴る。

体の節々に残る気怠さは、昨日一日中、包丁と木べらを振るい続けた勲章のようなものだ。


「さて……」


広場を見渡す。

そこには、信じられない光景が広がっていた。


「むにゃ……もう食えん……」

「酒……酒持ってこい……」


帝国の皇帝陛下が、大の字になってイビキをかいている。

そのお腹を枕にして、海賊のマリーナさんが丸まっている。

少し離れた場所では、騎士団長のゼファーさんが、マントを布団代わりにして直立不動のような姿勢で眠り、その影には冥王ハーデス様が隠れるように小さくなっている。


世界を動かす要人たちが、無防備に転がっている。

その光景がおかしくて、私は口元を手で覆ってクスクスと笑った。


(お腹が空いたら、起きるわよね)


私は腰のエプロンを締め直した。

キュッと紐を結ぶ感触が、私を「庭師」から「この場の母」へと切り替えていく。


昨日の残りの食材を確認する。

ご馳走はほとんど食べ尽くされているけれど、炊いたご飯と、野菜の端切れが少し残っていた。

二日酔いと食べ過ぎの胃には、これしかない。


私は即席カマドに火を入れた。

パチパチと薪が爆ぜる音が、静寂な朝に心地よく響く。


鍋に水を張り、残ったご飯を投入する。

コトコトと煮込みながら、刻んだカブの葉と、すりおろした生姜を加える。

味付けは、薄口の塩と、ほんの少しの出汁だけ。


湯気が立ち昇る。

お米が花開くようにふっくらとし、とろみがついてくる。

仕上げに、溶き卵を回し入れ、黄金色の彩りを添える。


フワァ……。


優しくて、懐かしい香り。

派手さはないけれど、疲れた体に染み渡るような、お米の甘い匂いが広場に漂い始めた。


「……んぐ?」


最初に反応したのは、やはり皇帝陛下だった。

鼻をヒクヒクさせ、重そうな瞼を持ち上げる。


「……いい匂いだ。母上の粥を思い出す……」


「おはようございます、陛下。胃薬代わりの『黄金卵のお粥』ですよ」


私が鍋をかき混ぜながら声をかけると、陛下はガバッと起き上がった。

つられて、枕にされていたマリーナさんも「痛ぇ……」と呻きながら目を覚ます。


「おはよう、フローリア。……あんた、まさかもう朝飯を作ってるのかい?」


「はい。皆さん、昨日あんなに飲んでましたから」


私は人数分のお椀に、熱々のお粥をよそった。

湯気とともに手渡すと、まだ眠そうだった彼らの目が、ぱっちりと開いた。


「いただきます」


誰からともなく声が上がり、一斉にさじが動く。


ズズッ。


静かな咀嚼音が重なる。

派手なリアクションはない。

ただ、一口食べるごとに、彼らの顔から険しい色が抜け、血色が戻っていくのが見えた。


「……染みる」


ハーデス様が、サングラスの奥で目を細めた。


「昨日の豪華な料理も良かったが……今の我には、これが至高だ」


「ああ。五臓六腑が生き返るとはこのことだ」


ゼファーさんも、行儀良く、しかし素早くお椀を空にしていく。


私はその様子を眺めながら、自分用のお粥を口に運んだ。

トロトロになったお米の甘みと、生姜のピリッとした刺激。

喉を通ると、お腹の底からじんわりと熱が広がる。

空腹だった胃が、優しく活動を始めるのを感じる。


「……フローリア」


いつの間にか目覚めていたレンさんが、私の隣に座った。

彼の手には、いつものブラックコーヒーではなく、温かいお粥のお椀がある。


「おはよう、レンさん。よく眠れましたか?」


「ああ。君が隣にいたからな」


レンさんはサラリと言って、お粥を啜った。

朝から心臓に悪い。

彼は食べ終わると、懐から分厚い羊皮紙の束を取り出し、テーブル代わりの切り株の上に置いた。


「さて、皆の衆。腹も満たされたことだ」


レンさんの声色が、少しだけ「竜公爵」のものに戻る。

場の空気がピリッと引き締まった。


「食後の運動といこうか。……ここにサインを頼む」


「ああん? なんだい、こりゃ」


マリーナさんが羊皮紙を覗き込み、眉をひそめた。


『エデン不可侵条約、並びに食料輸出に関する包括的協定』。


仰々しいタイトルが書かれている。

内容は要するに、「エデンには手出し無用」「その代わり、野菜は公平に売ってあげる」「フローリアを怒らせたら供給ストップ&レンが報復に行く」というものだ。


「……随分と一方的な条約だな、息子よ」


皇帝陛下が苦笑する。


「不服か? なら、今後一切エデンの野菜は帝国に卸さん。マザー・ツリーのメンテナンスも断るし、冥界の根っこもまた暴れさせるぞ」


レンさんが淡々と脅し文句を並べる。

卑怯だ。

完全に胃袋とインフラを人質に取っている。


「……わかった、わかったよ! 書けばいいんだろ!」


マリーナさんが最初に折れ、羽ペンを走らせた。


「アタイらは美味い飯と酒がありゃ文句はねぇ。その代わり、トマトは安くしておくれよ」


「ワシも異論はない。……ユユに会いに来る権利は保証されているのだろうな?」


「事前予約制だ」


「厳しいな……まあいい」


陛下もサインをする。

続いてゼファーさん、ハーデス様も、諦めたように、しかしどこか晴れやかな顔で署名していった。


「ありがとうございます。これで、大っぴらに商売ができますね」


私が羊皮紙を覗き込むと、レンさんは満足げに頷き、それを懐にしまった。

紙束の重みが、これからの平和の重みのように感じられる。


「商売だけではない。……これで、君とユユを、世界中が守ることになる」


レンさんは小声で呟き、私の手を握った。

その手の温かさに、胸が詰まる。

彼はいつだって、私の見ていないところで、私の居場所を守ろうとしてくれている。


「さあ! 飯も食ったし、契約も済んだ! 帰るぞ野郎ども!」


マリーナさんが立ち上がり、伸びをした。

それを合図に、広場の撤収作業が始まった。


魔法で出したテーブルが片付けられ、空飛ぶ船がエンジンをふかす。

帝国の騎士たちが整列し、冥界へのゲートが開く。


「フローリア! また来るよ! 今度は土産を持ってな!」


「身体に気をつけてな。孫によろしく!」


「植物のデータ、共有をお願いします!」


口々に別れを告げ、彼らは去っていった。

嵐のような一日が過ぎ去り、エデンには元の静寂が戻ってくる。


残ったのは、踏み荒らされた芝生と、焚き火の跡。

そして、私たち家族だけ。


「……行っちゃいましたね」


私は空を見上げた。

雲一つない青空。

昨日の巨大クジラも、各国の軍勢も、もうどこにもいない。


「寂しいか?」


レンさんが尋ねる。


「少しだけ。……でも」


私は振り返った。

そこには、まだ眠そうな目をこすりながら起きてきたユユと、植木鉢から飛び出したタケシがいる。

そして、畑で元気に土を耕し始めたマリアベルさんと、研究室へ戻っていくシルヴィオ様。


私の大切な日常が、そこにある。


「いいえ。これからが本番ですから」


私はエプロンを外し、軽く畳んだ。

お祭りは終わった。

これからは、この静かで温かい場所で、本当のスローライフが始まるのだ。


「レンさん。今日は何をしましょうか?」


「そうだな。……ユユが『ブランコがほしい』と言っていた。世界樹の枝で作ろうか」


「いいですね! 私はその間に、新しい花壇を作ります」


「手伝おう。……一生、君の庭師だからな」


レンさんが微笑み、私の肩を抱いた。

その笑顔を見ているだけで、今日という一日が素敵なものになると確信できる。


さあ、働こう。

土に触れ、水をやり、命を育む。

それが、私の選んだ幸せなのだから。


私は大きく深呼吸をして、愛しい我が家の土を踏みしめた。

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