第8話 巨大な果実の分配と世界一の雑魚寝
世界樹の頂上で虹色の果実が割れた、あの清らかな音がまだ耳の奥に残っている。
空を埋め尽くした光の種子たちは、雪のように静かに、けれど確かな温かさを持って大陸中へと溶けていった。
目の前には、半分に割れた千年果実。
滴る黄金色の蜜が、足元の枝を琥珀色に染めている。
私はレンさんの隣で、その瑞々しい断面をうっとりと見つめていた。
「さあ、みんな。宴の準備はいいかしら?」
私は階段を降りながら、地上の広場に向かって声を張り上げた。
世界樹の根本へと続く螺旋階段。
一段ずつ踏みしめる足裏に、大地の柔らかな拍動が伝わってくる。
地上へ降り立つと、エデンの広場はすでに多国籍な熱気に包まれていた。
左手には世界樹の幹。
右手には、かつて私が手作りした石造りの巨大カマド。
正面には、帝国、王国、海、空、地底から集まった数えきれないほどの「家族」たちが、期待に目を輝かせている。
「おめでとう、フローリア嬢。……いや、今は竜公爵夫人と呼ぶべきか」
皇帝陛下が、豪快に笑いながら三歩ほど前に進み出た。
「ありがとうございます、陛下。でも、ここではいつものフローリアでお願いします」
私の頬が熱くなる。
陛下が私の肩を叩こうとして寸前で止めたのを見て、私は初めて彼に振る舞ったトマトの、あの強烈な匂いを思い出した。
あの時、私の指先は泥だらけで、陛下は絶望的なまでに老けていた。
今は二人とも、こうして笑い合っている。
私は四次元収納リュックから、特製のカッティングナイフと銀のお皿を取り出した。
道具を清潔な布で拭き、サイズ順に並べる。
一つひとつの動作を丁寧に行うことで、高ぶった心を静め、これからの重責を自分に言い聞かせる。
「この果実は、みんなで分け合うものです。……レンさん、手伝ってください」
「ああ、もちろんだ。俺が誰よりも公平に切り分けてやる」
レンさんが私の背後に立ち、巨大な果実を魔法の力で浮かせた。
私はナイフを握り、黄金色に輝く果肉に刃を入れた。
スッ、と。
抵抗なく吸い込まれていく刃先に、これまでの苦労と出会いの重みが乗る。
「まずは、海の家族に」
一切れ目を、マリーナさんに手渡した。
彼女は受け取る際、ニヤリと不敵に笑った。
「最高のご馳走だね。アタイの船の連中も、これで一生病気知らずだよ」
マリーナさんの目が眩しく光る。
彼女の言葉に、私はあの海賊船の甲板で嗅いだ、塩気と血の混じった不健康な匂いを思い出した。
今の彼女からは、海風のように爽やかな生命力が溢れている。
「次は、空の仲間に」
ゼファーさんとNo.9に、透明感のある一切れを差し出す。
「……感謝する。当機のデータベースに『至福』という単語を永久保存した」
No.9の電子音が、心なしか潤んで聞こえた。
私は彼女にスープを飲ませた時の、あの金属の冷たさを思い出す。
今は、彼女のレンズの奥に温かな光が灯っていた。
「地底の方々も、どうぞ。暗い場所でも元気が出るように」
ハーデス様が、サングラスを少しずらしてお皿を受け取った。
「……礼を言う。冥界の天井が花で埋め尽くされるのが、今から楽しみだ」
ハーデス様の静かな声。
引きこもりの彼の寝室を、世界樹の根が突き破ったあの日の騒動が、今は懐かしい思い出だ。
お皿を配り終える手に、世界を食卓で繋ぎ合わせたという誇りが宿る。
宴が本格的に始まると、エデンの広場はカオスな幸福感に支配された。
帝国の騎士と海賊が肩を組み、天空人と冥界の住人が、私の作った料理を奪い合っている。
あちこちで笑い声が上がり、乾杯の音が絶え間なく響く。
「ママ、みて! ばぁばがケーキ食べてる!」
ユユが私のエプロンを引っ張った。
彼女が指差す先、人混みの影で、半透明な姿をした女神様が、千年果実のショートケーキをもぐもぐと食べていた。
「あら。女神様、有給休暇ですか?」
私が声をかけると、女神様はハッとして、口元についたクリームを指で拭った。
『……し、視察ですよ。管理業務の一環です。……美味しいわね、これ』
女神様が満足げに目を細める。
彼女の微笑みを見て、私はこの世界に放り出されたあの夜の、絶望的な暗さを思い出した。
あの時、土の匂いだけが私を支えてくれた。
「これからは、いつでも食べに来てください。特等席を空けておきますから」
『……ええ。期待しているわ』
女神様は光の粒子となって、夜空へ溶けていった。
宴は夜更けまで続き、やがて一人、また一人と、満腹感の中で草の上に横たわり始めた。
帝国の皇帝も、海賊も、騎士も。
身分も国境も関係なく、みんなが同じ土の上で、穏やかな寝息を立てている。
私は、そんな「世界一幸せな雑魚寝」の光景を、レンさんと並んで眺めていた。
「……本当に、静かになったわね」
私の呟きに、レンさんが優しく肩を抱き寄せた。
「ああ。……だが、これが俺たちの目指した景色だ。違うか?」
レンさんの問いかけに、私の胸がトクンと鳴る。
彼の声の熱。
荒野に二人きりでいたあの頃の、ヒリヒリとした孤独感を思い出す。
今は、隣に愛する夫がいて、足元では娘がタケシ(マンドラゴラ)と一緒に丸くなって眠っている。
私は自分の手を見た。
爪の間には、今日の作業でついた黒い土が少しだけ残っている。
この土。
この種。
この手があれば、どんな場所だって楽園に変えられる。
「ねえ、レンさん。明日は何を植えましょうか?」
私は、星空の下で輝く愛しい我が家を見つめた。
明日もまた、この愛おしい土を耕し続けよう。




