第6話 完熟した奇跡と結婚式の宣言
クジラの巨大な影が、雲の彼方へと溶けていく。
私の視界に残ったのは、突き抜けるような青空と、舞い落ちる光の粒だけだった。
星の雫。
クジラが置いていったその輝きは、雪のように静かに降り注ぎ、私たちの島を包み込んでいく。
「……終わった、のよね」
私はエプロンの裾で、額の汗をぬぐった。
手にはまだ、巨大な木べらを握りしめていた感触が残っている。
振り返れば、巨大なクレーターの鍋は空っぽになっていた。
底に残ったスープの香りが、焦げた岩の匂いと混じり合って、祭りのあとのような寂しさと充実感を漂わせている。
「ママ、キラキラしてる!」
ユユが歓声を上げて、落ちてくる光の粒を追いかけている。
その光の一つが、風に乗って世界樹の頂上へと吸い込まれていった。
ドクン。
心臓が跳ねるような音がして、私はハッと空を見上げた。
「……あ」
世界樹の頂上。
防虫ネットの中で守られていた虹色の蕾が、星の雫を浴びて、ゆっくりと花弁を開き始めていた。
パキッ、パキパキッ。
硬質な音が響く。
虹色の光が溢れ出し、エデン全体を染め上げる。
そして、光の中から現れたのは――。
「……なんて、綺麗なの」
それは、巨大な果実だった。
形は桃に似ているけれど、表面はクリスタルのように透き通っている。
内側からは黄金色の蜜が揺らめき、見ているだけで喉が鳴るような、甘く濃厚な香りを放っていた。
『千年果実』。
ついに、完熟の時を迎えたのだ。
「……熟れたか」
隣で、レンさんが低く呟いた。
彼の手が、私の手を強く握りしめる。
その熱が、少しだけ強張っていることに気づく。
「レンさん?」
「気を抜くなよ、フローリア。……害獣は去ったが、もっと厄介な連中が目を覚ます」
レンさんの視線は、空ではなく、地上に向けられていた。
私は視線を下ろした。
そこには、さっきまで一緒に料理を作り、鍋を囲んでいた各国の王たちが立っていた。
彼らの表情は、一変していた。
「……見事な輝きだ」
皇帝陛下が、戦斧を担ぎ直した。
その瞳から、気のいい食いしん坊の光が消え、冷徹な支配者の色が戻っている。
「あれ一つで、帝国の魔力供給は数百年安泰となる。……譲れん」
「悪いね、爺さん。海の上じゃ早い者勝ちがルールなんだよ」
マリーナさんが、二丁拳銃の撃鉄を起こした。
その唇は笑っているが、目は笑っていない。
「我ら天空の民こそが、あの聖なる果実を管理するに相応しい」
ゼファーさんが機械の翼を広げ、剣を構える。
「冥界の浄化には、あの純粋な魔力が必要なのだ……」
ハーデス様が影を広げ、臨戦態勢に入る。
空気が、凍りついた。
さっきまでの「美味しいね」という共感は、潮が引くように消え失せている。
残っているのは、各国の利害と、絶対的な力を前にした欲望だけ。
「……どうして」
私は木べらを地面に置いた。
悲しかった。
みんなで力を合わせて、あんなに美味しいスープを作ったのに。
お腹がいっぱいになれば、争いなんてなくなると思っていたのに。
「皆さん、やめてください! せっかく仲良くなれたじゃないですか!」
私は声を張り上げた。
「あの果実は、みんなで食べるんです! ジャムにすれば、全員に行き渡ります!」
「ジャムだと?」
ゼファーさんが鼻で笑った。
「愚かな。あのような強大な力を、パンに塗って消費するなど……冒涜にも程がある」
「アタイも同意見だね。食い物は惜しくないが、力となれば話は別さ」
マリーナさんが銃口をこちらに向けた――いや、正確には、世界樹の幹に向けた。
「あの樹ごと切り倒せば、果実は落ちてくる。……早いもん勝ちだ!」
「させるか!」
皇帝陛下が咆哮し、地面を蹴った。
それぞれの軍勢が、再び武器を構える。
エデンが、また戦場に戻ろうとしている。
「……ダメ」
私はリュックから、園芸用のハサミを取り出した。
震える手で、それを握りしめる。
私の庭で。
私の育てた木の下で。
家族や友人が傷つけ合うなんて、絶対にさせない。
「私が……私が収穫します! そして、等分に切り分けます! 文句があるなら、庭師である私を倒してからにしなさい!」
私は無謀にも、王たちの前に立ちはだかろうとした。
足がすくむ。
彼らの放つ殺気は、クジラのそれとは違う。
知性と欲望が混ざった、粘りつくような重圧だ。
その時。
カチャン。
金属音が響いた。
私の目の前に、漆黒の剣が突き立てられた。
「……レ、レンさん?」
レンさんが、私と王たちの間に割って入っていた。
彼は私に背中を向けたまま、静かに、しかし世界を凍らせるような冷たい声で告げた。
「……騒々しい」
たった一言。
それだけで、皇帝陛下たちの動きがピタリと止まった。
レンさんから溢れ出す黄金の覇気が、彼らの殺気を上からねじ伏せたのだ。
「俺の庭で、俺の許可なく武器を抜くな。……全員、殺されたいのか?」
「ぬぅ……」
「チッ……」
王たちがたじろぐ。
最強の竜公爵の本気。
その恐ろしさを、彼らは誰よりも知っているはずだ。
レンさんは剣を地面から引き抜き、切っ先を世界樹の頂上――あの輝く果実に向けた。
「あの果実は、誰にも渡さん」
「独り占めする気か、息子よ!」
皇帝陛下が叫ぶ。
「違う」
レンさんは首を横に振った。
そして、くるりと振り返り、私に向き直った。
琥珀色の瞳が、真っ直ぐに私を射抜く。
その瞳には、さっきまでの殺気はなく、代わりに溶けるような熱が宿っていた。
「フローリア」
彼は私の手を取り、その場に片膝をついた。
「えっ……?」
私は状況が飲み込めず、目を白黒させた。
戦場の真ん中で。
世界中の王たちが見守る中で。
レンさんは私の薄汚れた軍手(外すのを忘れていた)を、まるでガラス細工のように優しく包み込んだ。
「ずっと、待たせてすまなかった」
「ま、待たせるって……何を?」
「式だ」
レンさんは言った。
「君と出会って、共に暮らし、子供まで授かった。……だが、俺たちはまだ、世界に対して『誓い』を立てていない」
彼の指が、私の指に絡む。
「俺は、君に相応しい舞台を探していた。世界中の誰もが祝福し、誰もが羨むような、最高の舞台を」
レンさんは立ち上がり、世界樹の頂上を指差した。
「あれは、俺たちの『ケーキ』だ」
「……はい?」
私は間抜けな声を出した。
周囲の王たちも、口をあんぐりと開けている。
「ケーキ……って、あの千年果実のことですか?」
「ああ。伝説の果実。世界を統べる力。……俺たちの結婚式ケーキに、これ以上相応しいものはないだろう?」
レンさんはニヤリと笑った。
それは、かつて私を「庭師」として雇った時と同じ、不敵で、子供のように無邪気な笑顔だった。
「結婚……式」
その言葉が、じんわりと胸に染み込んでいく。
そういえば、していなかった。
毎日が忙しくて、幸せで、すっかり忘れていたけれど。
私は、レンさんの「お嫁さん」になりたかったのだ。
「異論はあるか?」
レンさんが、王たちを睨みつけた。
「これは政治の話ではない。俺とフローリアの、愛の儀式だ。……祝う気がない奴は、今すぐ失せろ」
沈黙が流れた。
最初に吹き出したのは、マリーナさんだった。
「ブッ……アハハハハハ! 最高だね! 伝説の果実をケーキ入刀だってかい!?」
彼女は腹を抱えて笑い転げた。
「負けたよ、旦那! アンタの愛の重さには敵わねぇ!」
「……ふん。我が息子ながら、呆れた度胸だ」
皇帝陛下も、戦斧を地面に放り出した。
「よかろう! 結婚式とあっちゃあ、親父として引くわけにはいかん! 盛大にやってやるわ!」
「神聖なる果実をケーキに……。前代未聞ですが、貴女たちなら許される気がします」
ゼファーさんが剣を収め、敬礼した。
「冥界からも、祝いの品を出そう。……黒水晶の食器でいいか?」
ハーデス様がサングラスを直しながら提案する。
空気が、ガラリと変わった。
殺伐とした奪い合いの場が、一瞬にして祝福の場へと反転したのだ。
「フローリア」
レンさんが、もう一度私の名前を呼んだ。
「俺と、結婚してくれるか? ……この果実を、二人で切ってくれるか?」
私は軍手を外した。
土で汚れた手。
でも、レンさんはその手を、世界で一番大切なもののように握ってくれている。
答えなんて、決まっている。
「……はい。喜んで!」
私はレンさんの胸に飛び込んだ。
周囲から、割れんばかりの拍手と歓声が沸き起こる。
「おめでとうー!」
「ヒューヒュー!」
「パパ、ママ、ちゅーしてー!」
ユユが飛び回って花びらを撒き散らす。
シルヴィオ様が「世紀の植物婚だ!」と謎の感動をしている。
マリアベルさんがハンカチで目頭を押さえている。
「さあ、準備だ!」
レンさんが叫んだ。
「ドレスに着替えろ、フローリア! 俺が世界一の花嫁にしてやる!」
「もう! 急すぎますよ!」
私は嬉し涙を拭いながら、エプロンの紐を解いた。
庭師から、花嫁へ。
私のスローライフは、今日、最高のハッピーエンドを迎える。
いや、エンドじゃない。
これは、新しい家族の物語の、始まりの合図だ。
「マリアベルさん! 手伝ってください! とびきりのドレスを咲かせますよ!」
「任せなさい! 世界中が腰抜かすようなやつ、作ってやるわ!」
私は走り出した。
世界樹の頂上で輝く、私たちのウェディングケーキに向かって。




