第3話 そのトマト、伝説級につき
「ではレンさん、早速ですがお仕事をお願いしますね」
採用が決まった直後、フローリアは満面の笑みで俺――ロレンツォ・ドラグニルに農具を差し出した。
それは柄の長い鍬だった。
俺はそれを受け取り、まじまじと見つめた。
帝国の皇位継承権を持ち、大陸最強の騎士と謳われるこの手が握るのは、いつだって魔剣か、あるいは署名を待つ公文書だった。
まさか、こんな泥のついた木の棒を握る日が来るとは。
「……これを、どうすればいい?」
「あ、使い方はわかりますか? そこの岩場を耕してほしいんです。あの辺り、日当たりが良いから新しいハーブ園にしようと思って」
フローリアが指差したのは、ゴツゴツとした赤茶色の岩盤がむき出しになった一角だった。
耕す? あれを?
あれは土ではない。岩だ。
普通の農民なら「無理です」と逃げ出すレベルの硬度に見える。
だが、俺は竜公爵だ。
その程度の岩盤、剣を一振りすれば粉砕できる。
しかし、今は身分を隠したただの「庭師見習い」である。魔法や闘気で岩を吹き飛ばすわけにはいかない。
(……純粋な筋力だけでやるしかないか)
俺は鍬を構えた。
体内の竜血が活性化し、筋肉が軋む。
フンッ、と気合を入れて鍬を振り下ろした。
ガキンッ!!
金属音が響き、火花が散った。
鍬の刃は見事に岩盤を砕き、深々と突き刺さっていた。
「わあ、すごい! レンさん、本当に力持ちなんですね!」
フローリアがパチパチと手を叩いて喜んでいる。
俺は涼しい顔を装いながら、内心で冷や汗をかいていた。
危ない。力の加減を間違えて、危うく鍬の柄ごとへし折るところだった。
この鍬、妙に丈夫だな。普通の鉄製じゃないのか?
「……まあ、これくらいはな。だが、この硬さの地面を全て耕すのは骨が折れるぞ」
「そうですよね。ごめんなさい、私が準備を忘れてました」
フローリアは「てへ」と舌を出して駆け寄ってくると、俺が砕いた岩のそばにしゃがみ込んだ。
「土さん、土さん。そんなに意固地にならないで。ふかふかのお布団になりましょう?」
彼女が地面に手を当て、歌うように呟く。
その瞬間だった。
俺の肌が粟立った。
(なんだ……この魔力の質は?)
彼女の手のひらから、黄金色の波紋が広がっていく。
それは攻撃的な魔力ではない。
もっと根源的な、生命そのものを強制的に活性化させる「命令」に近い波動。
ゴゴゴゴゴ……
地中で何かが蠢く音がした。
次の瞬間、硬い岩盤がまるで発酵したパン生地のように盛り上がり、崩れ始めたのだ。
岩が砂になり、砂が土になり、どこからともなく現れたミミズたちが土壌を撹拌していく。
ものの数秒で、鉄よりも硬かった岩場が、最高級の黒土の畑へと変貌した。
「よし、これで耕しやすくなりましたね! レンさん、あとは畝作りをお願いします!」
「……ああ、わかった」
俺は乾いた返事をするしかなかった。
今、彼女は何をした?
岩石の組成変換? 生物召喚? いや、時空間魔法による風化促進か?
どれをとっても、宮廷魔導師クラスの大魔法だ。
それを「準備」の一言で済ませるなんて。
この娘、本当にただの「植物好き」なのか?
俺は戦慄しながら、ふかふかになった土に鍬を入れた。
今度は豆腐のように柔らかかった。
◇
昼時になった。
太陽が頭上に昇る頃、フローリアが世界樹の根元に布を広げた。
「レンさん、休憩にしましょう! お昼ご飯作りましたよ」
「ああ、助かる」
正直、腹は減っていた。
竜熱の発作で数日間まともに食事を摂っていなかったし、午前中の労働(といっても大半は土いじりだが)で体力を消費していた。
布の上には、木製の皿に盛られたサラダと、湯気を立てるスープ、そして焼いたパンが並べられている。
肉はない。野菜だけの質素な食事だ。
だが、漂ってくる香りが尋常ではなかった。
「どうぞ。お口に合うかわかりませんが」
「いただく」
俺はまず、サラダにフォークを伸ばした。
真っ赤なトマトと、瑞々しいレタス、そして刻んだ香草が散らされている。
ドレッシングはオリーブオイルと塩だけのようだ。
一口、口に運ぶ。
「――ッ!?」
咀嚼した瞬間、衝撃が脳天を突き抜けた。
美味い。
いや、そんな陳腐な言葉では表現できない。
野菜の甘みが爆発し、細胞の一つ一つに染み渡っていくようだ。
そして何より、驚くべきはその「効果」だ。
トマトを噛み砕くと同時に、体内の魔力回路が熱くなり、詰まっていた澱みが洗い流されていく感覚。
レタスのシャキシャキとした食感と共に、疲労した筋肉繊維が瞬時に修復されていく。
そして、この香草。
口の中に広がる清涼感は、最高級の精神安定剤よりも深く脳を癒やした。
(これは……まさか、【竜の涙】か!?)
俺は皿の中の赤い実を凝視した。
ただのトマトに見えるが、その魔力含有量はドラゴンの心臓に匹敵する。
市場に出れば、これ一つで小さな城が買えるレベルの代物だ。
それを、サラダボウルいっぱいに?
「どうですか? 酸っぱかったですか?」
フローリアが心配そうに覗き込んでくる。
彼女の目は本気だ。本気で「ただのランチ」だと思っている。
「……いや、美味い。驚くほどに」
「よかったぁ! あ、その中に入ってるギザギザした葉っぱ、雑草みたいに見えるけど美味しいんですよ」
「……これは、もしや【聖女の吐息】と呼ばれる薬草ではないか?」
「え? これ、実家の庭の隅に生えてたミントの亜種だと思いますけど。生命力が強くて、抜いても抜いても生えてくるんです」
ミントの亜種。
彼女は、万病に効くとされる伝説の霊薬を、雑草扱いしてサラダに混ぜているのか。
俺は震える手でスープを飲んだ。
カボチャのポタージュだ。
一口飲むと、胃袋の底から力が湧いてくる。
これは……【金剛カボチャ】。食べれば一時間は物理防御力が倍増するという、騎士団の極秘レーションに使われる素材だ。
「レンさん、もっと食べてくださいね。男の人は筋肉が大事ですから」
「ああ……遠慮なくいただく」
俺は無心で食べた。
食べるたびに、死にかけていた身体が全盛期以上の状態へと書き換えられていくのがわかる。
「栄養満点」なんてレベルじゃない。
これは、神々の食卓だ。
もし帝国の貴族たちがこのランチの内容を知れば、戦争が起きるだろう。
だが、目の前の少女は「パンのおかわりありますよ」とのんきに微笑んでいる。
(とんでもない場所に来てしまった……)
恐怖と、それ以上の感動に打ち震えながら、俺は人生で最も贅沢な昼食を完食した。
◇
午後の作業は、果樹園の手入れだった。
といっても、フローリアが「あっちの枝、邪魔ね」と呟くと、樹木が勝手に枝を落とすので、俺はそれを拾い集めるだけだ。
「楽な仕事だ」
薪割り用の斧を片手に、枝を切り揃えながら独りごちる。
体調は万全だ。
長年悩まされてきた竜熱の痛みも、今は完全に消えている。
それどころか、昼食の効果で魔力の循環効率が上がり、以前よりも強くなっている気さえする。
その時だった。
「グルルルルッ……」
低い唸り声が、風に乗って聞こえてきた。
俺は斧を持つ手を止め、鋭く視線を巡らせる。
ここは「死の荒野」。
フローリアの結界内は平和だが、一歩外に出れば魔物の巣窟だ。
世界樹の結界の境界線付近。
そこに、巨大な黒い影が現れた。
全長三メートルはある狼型の魔獣、【荒野の黒狼】だ。
鋼鉄の毛皮を持ち、口から毒のブレスを吐くAランクモンスター。
騎士団でも一個小隊で当たる相手だ。
(まずいな。結界の隙間を嗅ぎつけたか)
フローリアは少し離れた花壇で鼻歌を歌っている。気づいていない。
俺は庭師のふりをかなぐり捨て、腰の剣に手を伸ばそうとした。
彼女を守らなければ。
例え正体がバレようとも、恩人をあんな獣の餌食にはさせない。
殺気立ち、一歩踏み出した瞬間。
「あ、コラ! ポチ!」
フローリアの呑気な声が響いた。
ポチ?
彼女は魔獣に気づき、逃げるどころか、腰に手を当ててプンプンと怒り出したのだ。
「そこは昨日種を撒いたばかりなのよ! 入っちゃダメって言ったでしょ!」
「おい、フローリア! 下がれ、そいつは……!」
俺の警告は間に合わなかった。
黒狼が牙を剥き出しにし、フローリアに向かって飛びかかる。
その距離、わずか数メートル。
俺の足では間に合わない――!
「《お座り》」
フローリアが指をパチンと鳴らした。
ズボォッ!!
地面から、巨大な「何か」が飛び出した。
それは植物の蔦だった。
だが、ただの蔦ではない。大蛇のように太く、表面には鋭利な棘がびっしりと生えている。
蔦は空中で黒狼を正確に捕縛し、グルグル巻きにして締め上げた。
「ギャンッ!?」
Aランク魔獣の悲鳴が上がる。
鋼鉄の毛皮が、植物の棘に容易く貫かれている。
蔦はそのまま黒狼を空中に吊り上げた。
「もう。何度言ったらわかるの? 花壇を踏み荒らしたら、晩ご飯抜きよ」
フローリアは吊るされた魔獣を見上げ、説教を始めた。
黒狼は「クゥ~ン」と情けない声を出し、尻尾(蔦で固定されているが)を丸めている。
俺は呆然と立ち尽くした。
あれは……【捕食植物キラー・アイビー】の変異種か?
いや、動きが知能を持っているように見えた。
それに、あの黒狼を「ポチ」と呼んだのか?
「あ、レンさん! ごめんなさい、怖がらせちゃいました?」
説教を終えたフローリアが、俺に気づいて駆け寄ってきた。
背後では、蔦が黒狼を解放し、代わりに「ペッ」と森の外へ放り投げているのが見えた。
黒狼はキャンキャンと鳴きながら地平線の彼方へ逃げていく。
「あの……今のは?」
「近所に住んでる野良犬なんです。時々庭に入ってきて悪さをするので、うちの『ガーディアン・ローズ』に追い払ってもらってるんです」
「野良犬……」
Aランク魔獣を野良犬扱い。
そして、あの蔦はバラなのか。
「危ないから気をつけてくださいね。レンさんは普通の人間なんだから、噛まれたら大変です」
彼女は本気で俺の身を案じている。
俺が、帝国最強の騎士であることを知らずに。
そして、彼女自身が、帝国軍よりも遥かに強力な防衛システムを有していることに無自覚なまま。
「……ああ、気をつけるよ」
俺は深くため息をつき、斧を持ち直した。
結論が出た。
この娘は、規格外だ。
放置しておけば、無自覚に世界を滅ぼすか、救うか、どちらかだろう。
そして、確信したことがもう一つ。
ここでの生活は、宮廷での権力争いよりも遥かに刺激的で――そして、悪くない。
「さて、仕事に戻りましょうか。今日は収穫したお野菜でシチューにしますからね!」
「……期待している」
俺は自然と口元が緩むのを感じた。
夕日に染まる世界樹の下、俺たちは並んで家路についた。
とりあえず、皇帝陛下への報告書にはこう書こう。
『当分、帰れません。現在、伝説のトマトと格闘中』と。




