最終話 魔界樹だって甘いものが食べたい
「グルルルルァァァァッ!!」
博覧会場である帝都の中央広場は、瞬く間に阿鼻叫喚の地獄へと変貌していた。
地面を引き裂いて出現した『魔界樹』は、見るも無惨な姿をしていた。
樹皮はドス黒く爛れ、そこから滲み出る樹液はヘドロのように粘り気を帯びている。
枝には葉の一枚もなく、代わりに鋭利な棘と、捕食するための口のような洞が無数に開いていた。
「キシャアアア!」
枝が鞭のようにしなり、逃げ遅れた貴族たちを襲う。
幸い、私の作ったトマトを食べて若返ったカイザー皇帝陛下が、有り余る体力で瓦礫を放り投げて応戦しているおかげで、死者は出ていないようだ。
さすがは皇帝陛下。若返った途端に、物理攻撃力が跳ね上がっている。
「フローリア、離れるな!」
レンさんが剣を一閃させる。
迫り来る魔界樹の根が、数本まとめて切り飛ばされた。
しかし――。
ブシュッ!
切断面から黒い瘴気が噴き出し、瞬く間に新しい根が再生していく。
「チッ、再生速度が速すぎる。それにこの瘴気……普通の人間なら吸い込んだだけで肺が腐るぞ」
レンさんが苦々しげに呟く。
確かに、周囲には腐った卵のような悪臭が充満していた。
会場にいたシルヴィオ様が、ハンカチで口を押さえながら人々を避難誘導しているのが見える。
「皆さん、風上へ! この煙を吸わないでください!」
「シルヴィオ様!」
私が声をかけると、彼は悲痛な顔で叫び返してきた。
「フローリア先生! あれはもう植物ではありません! 『呪い』そのものです! 浄化なんて不可能です、逃げてください!」
植物オタクの彼が言うのだから、よほどのことなのだろう。
エルランドが呼び出したこの魔界樹は、生命の理から外れた存在なのだ。
でも。
「……ううん、違うわ」
私はレンさんの背中に隠れながら、じっと魔界樹の中心を見つめた。
黒い瘴気の渦の奥。
そこに、小さな、本当に小さな「核」が見える。
それは泣いていた。
『お腹が空いた』
『苦しい』
『誰も愛してくれない』
そんな悲痛な叫び声が、植物の声を聞ける私には痛いほど伝わってきたのだ。
「レンさん」
私はレンさんの袖をギュッと掴んだ。
「あの子、泣いてます。お腹が空きすぎて、どうしようもなくて暴れてるんです」
「……あんな化け物が、か?」
「はい。エルランド様の歪んだ魔力を無理やり食べさせられて、お腹を壊してるんです。……だから、私が美味しいご飯をあげて、治してあげたい」
レンさんは私を見下ろした。
琥珀色の瞳が、私の覚悟を測るように揺れる。
普通なら「馬鹿なことを言うな」と一蹴される場面だ。
でも、レンさんは違った。
彼はふっと口元を緩め、愛剣を鞘に納めた。
「……わかった。君がそう言うなら、あいつはただの『腹を空かせた迷子』なんだろう」
「レンさん……!」
「ただし、あそこまで近づくには道が必要だ。……少し、熱くなるぞ」
レンさんが私を抱き寄せ、片手で抱え上げた。
そして、もう片方の手を魔界樹にかざす。
ドクンッ。
レンさんの心臓の音が、直接私の鼓膜に響いた。
次の瞬間、彼から立ち昇るオーラが爆発的に膨れ上がった。
バリバリバリッ!
レンさんの腕に、首筋に、黄金色の鱗が浮かび上がる。
人の姿を保ったまま、竜の力を一部解放したのだ。
「道を開けろ、雑草」
レンさんが低く唸る。
それは人間の言葉ではなく、万物の霊長たる竜の王の命令だった。
ゴオオオオオオッ!!
彼の手のひらから、黄金の炎が放たれた。
それは直線状のレーザーとなり、魔界樹の瘴気を焼き払い、再生しようとする枝を消し炭にし、一直線に「核」へのトンネルを穿った。
「いけっ、フローリア!」
「はいっ!」
レンさんが地面を蹴る。
音速に近いスピードで、私たちは炎のトンネルの中を駆け抜けた。
周囲では、魔界樹の断末魔のような叫びと、焼ける音が響いている。
でも、レンさんの腕の中は驚くほど静かで、熱くなかった。
彼が結界で私を守ってくれているからだ。
「見えた……あそこです!」
目の前に、黒い球体状の「核」が現れた。
ドクンドクンと脈打ち、周囲に毒液を垂れ流している。
私はレンさんの腕から飛び降りた。
肩に乗っていたタケシ(マンドラゴラ)も、「ウキャッ!」と勇ましく飛び降りる。
「タケシ、根っこを押さえてて!」
タケシが地面に根を張り、自分の何十倍もある魔界樹の根に絡みついて動きを封じる。
その隙に、私はポケットから「特製肥料」を取り出した。
それは、エデンの土と、私の魔力、そして先ほど食べたトマトの種などを調合し、小瓶に詰めた液体だ。
名付けて『エデン特製・超回復スムージー』。
「さあ、お食べ。もう苦しくないからね」
私は魔界樹の核に触れ、瓶の蓋を開けた。
そして、その液体を核の裂け目へと流し込む。
「《創世樹の愛娘》の権能において命ずる――」
私は祈りを込めた。
「悪いものは全部吐き出して。そして、美味しい実りになりなさい!」
ジュワァァァァ……!
液体が染み込んだ瞬間、核が激しく痙攣した。
そして、ドス黒かった色が、急速に抜け落ちていく。
黒から灰色へ。
灰色から白へ。
そして――鮮やかなピンク色へ。
『――!?』
魔界樹の動きが止まった。
叫び声が消え、代わりに甘い吐息のような風が吹き抜ける。
ポンッ。
枝の先についていた棘が落ち、そこからピンク色の蕾が膨らんだ。
ポンッ、ポンッ、ポンッ。
連鎖反応的に、巨大な樹木全体に花が咲き乱れる。
漂っていた腐臭が消え、イチゴのような、バニラのような、極上のスイーツの香りが広場を満たした。
「な、なんだ……!?」
「黒い木が……桜のように……?」
避難していた人々が、恐る恐る顔を上げる。
そこにあったのは、もはや魔界樹ではなかった。
太い幹はチョコレートのような褐色に変わり、葉はミントグリーンの綿菓子のようにふわふわとしている。
そして、枝には宝石のように輝くフルーツが、たわわに実っていた。
「……ふぅ。お腹いっぱいになったみたいですね」
私は核――今は美しい桃色のクリスタルに変わったそれ――を撫でた。
木全体が、猫が喉を鳴らすようにゴロゴロと震え、喜びを伝えてくる。
「フローリア」
レンさんが鱗を消し、私の隣に立った。
彼は呆れたように、でも誇らしげに頭上の「スイーツの森」を見上げた。
「……魔界樹を『お菓子』に変えたのか?」
「はい! 毒素を糖分に変換して、中和させました。これなら皆で食べられますよ!」
「君の発想には、竜の俺でもついていけん」
レンさんは苦笑し、私の頭をポンポンと撫でた。
◇
事態が収束した後。
広場は別の意味で大騒ぎになっていた。
「う、うまい! なんだこの実は! メロンと桃を足したような味がする!」
「こっちの枝はチョコレート味だぞ!」
「持って帰れ! 袋を持ってこい!」
さっきまで逃げ惑っていた貴族たちが、今は我先にと木に登り、フルーツ狩りを始めていた。
魔界樹改め『スイーツ・ツリー』は、帝都の新たな名物(かつ食料庫)として、あっという間に受け入れられてしまったようだ。
そんな狂乱の傍らで。
事件の元凶であるハイエルフ、エルランドは、瓦礫の上にへたり込んでいた。
「あり得ない……。古代の魔界樹が……あんな、お菓子になるなんて……」
彼のプライドは粉々だった。
恐怖の象徴であるはずの禁忌の種が、人間の娘によって「デザート」にされてしまったのだから。
彼は震える手で、足元に落ちてきたピンク色の果実を拾い上げた。
「……食べるか?」
声をかけたのは、シルヴィオ様だった。
彼は瓦礫に座り、すでに果実を齧っている。
「エルランド殿。貴方は植物を『支配』しようとした。でも、フローリア先生は植物と『共生』した。……その差ですよ」
「共生……だと? 人間ごときが、植物と対等だと……?」
「食べてみれば分かります。この味は、支配からは生まれない」
エルランドは躊躇いながらも、果実を口に運んだ。
シャクッ。
口の中に広がる、優しくて懐かしい甘さ。
それは、彼が幼い頃に森で感じた、木漏れ日のような温かさだった。
「……っ、うぅ……」
エルランドは顔を覆って泣き出した。
今度こそ、完敗だった。
そこへ、若返ったカイザー皇帝陛下が、ムキムキの肉体を誇示しながら歩いてきた。
片手には、引きちぎった巨大な枝(バナナ味)を持っている。
「ふははは! 見事だフローリア! ワシの寿命がまた百年伸びた気がするぞ!」
陛下は豪快に笑い、エルランドを見下ろした。
「さて、エルランドよ。帝都を危険に晒した罪は重いぞ。……だが」
陛下はニヤリと笑った。
「その罪、労働で償う気はあるか?」
「……労働?」
「うむ。フローリアのエデンで、下っ端からやり直せ。エルフの知識と技術、あそこでなら正しく使えるはずだ」
「へ、陛下……」
「どうだフローリア、引き取ってくれるか?」
私はレンさんと顔を見合わせた。
レンさんは「面倒が増える」と渋い顔をしていたが、私がお願いのポーズ(上目遣い)をすると、溜息をついて頷いてくれた。
「わかりました。エデンにはまだまだ人手が足りませんから。……ただし、マリアベル農場長は厳しいですよ?」
「……謹んで、お受けいたします」
エルランドは深々と頭を下げた。
その背中は憑き物が落ちたように小さく、しかし以前よりずっと真っ直ぐに見えた。
◇
夕暮れ時。
騒動も落ち着き、博覧会は「フローリアの完全勝利」という形で幕を閉じた。
私とレンさんは、広場の隅にあるベンチに座り、二人で一つのアイスクリーム(スイーツ・ツリーから採れたミルクの実で作ったもの)を食べていた。
「……疲れたな」
「はい。でも、楽しかったです」
私がスプーンでアイスをすくい、レンさんの口へ運ぶ。
レンさんはそれをパクリと食べ、満足げに目を細めた。
「フローリア」
「はい?」
「……ありがとう」
レンさんが、不意に真面目な顔で言った。
「君が止めてくれなければ、俺はあの木ごと、この広場を焼き尽くしていたかもしれない。……君のおかげで、守れたものがたくさんある」
彼の言葉に、胸が熱くなる。
破壊の化身である竜の力。
それを、レンさんはずっと恐れていたのかもしれない。
「私は知ってますよ。レンさんの炎が、温かいってこと」
私は彼の手を握った。
「だって、あの炎のトンネルの中、全然怖くなかったですから。レンさんが私を守ろうとしてくれているのが、伝わってきました」
「……君には敵わないな」
レンさんは苦笑し、そして私の肩を引き寄せた。
夕日が、彼の横顔を美しく照らす。
「好きだ、フローリア。……世界中のどんな花よりも、君が愛おしい」
「私もです。……世界中のどんな野菜よりも、レンさんが好きです」
「野菜と比べるな」
私たちは笑い合い、そして自然と唇を重ねた。
甘いアイスクリームの味と、それ以上に甘い幸せの味。
広場の人々はフルーツ狩りに夢中で、誰も私たちを見ていない。
今だけは、二人だけの時間だ。
「……ところで、フローリア」
キスを終えたレンさんが、ふと私の顔を覗き込んだ。
「顔色が少し悪いが、大丈夫か? 魔力を使いすぎたんじゃないか?」
「え? そうですか?」
言われてみれば、少しだけ目眩がするような。
それに、さっきからアイスクリームの甘い匂いが、ちょっとだけ鼻につくような……。
「うーん……なんか、酸っぱいものが食べたいかもです」
「酸っぱいもの?」
「はい。レモンとか、梅干しとか……」
私が何気なく言うと、レンさんの顔色がサッと変わった。
同時に、後ろで聞き耳を立てていたシルヴィオ様と、皇帝陛下が飛び出してきた。
「酸っぱいもの!? フローリア先生、まさか!?」
「でかしたぞレン!! ついに本当の孫か!?」
「えっ? えっ?」
私が混乱している間に、レンさんは私を横抱きにし、大声で叫んだ。
「医者だ! 国一番の名医を呼べ! いや、俺が連れて行く! 道を開けろォォォ!」
「ちょ、レンさん!? 落ち着いて!」
「落ち着いていられるか! もし君のお腹に、俺たちの子がいるなら……!」
レンさんは黄金の翼(幻影)を広げ、私を抱えたまま空へと飛び立った。
眼下では、皇帝陛下が万歳三唱し、シルヴィオ様が感動して泣き崩れている。
帝都の夕空を、竜公爵が一直線に飛んでいく。
私のスローライフは、まだまだ落ち着きそうにない。
でも、この腕の中の温もりがある限り、きっとどんな未来も「楽園」になるはずだ。
――こうして、『雑草令嬢』の物語の第2幕は、幸せな予感と共に幕を下ろした。
そして物語は、子育てと新たな冒険が待つ第3部へ……?
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