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第9話「借り拍、橋を渡す」

――拍は貸せる。貸すなら、返す場所までの橋が要る。

橋の設計図は、だいたい人差し指一本で描ける。


 朝。王城中庭の芝に白線で小さな“橋”を描いた。起点と終点、そして中ほどに赤い点。赤は休む場所。殿下が木さじで線の上をとん、とん、と叩き、市鼓いちこたちを集める。


「今日の稽古は借り拍。——歩きにくい人、息の上がった人、子ども、怪我人。群れの中で拍が“ほぐれがちな人”のリズムを一時的に預かって、返す。預かったら返す。返すから借りられる」


 鍵束の音を連れて、鐘守も来た。白髪に深い皺。彼は石畳に膝をつき、人差し指でさらさらと図を描く。“橋”の起点に○、終点に○、その間に小さな橋脚を三つ。


「橋脚は二拍目の笑い、三拍目の“置く”、四拍目の呼吸。壊れにくい」


 ジェイは泡立て器を肩に担ぎ、「泡も橋脚で消える」と上機嫌だ。お前は最近楽しそうだな、と言えば、「泡立て器にも仕事を」と返ってくる。器用に転がるやつは、敵に回すと厄介で、味方だと心強い。


「最初のモデルケースは“杖の婦人”」


 工房街で顔馴染みの婆さまが、細い杖で芝を軽く突く。息は浅い。足はまっすぐ出ない。パズが前に出て、赤い紐旗を半分ほど下ろし、目線を合わせた。


「ぼくが、橋の片側になります」


「頼んだわ、市鼓」


 俺は〈間合い指定〉を薄く、線の上に置く。人ではない、場に置く。単発。今日は基本、重ねない。支援の負債を小さくする。


「一、二、止、四」


 パズの合図に合わせ、婦人の手が杖からほんの一瞬だけ離れる。離すための橋脚が、二(微笑)→三(置く)→四(呼吸)の順にやさしく支える。五歩で橋を渡り終えると、婦人の肩が一段落ちた。


「返す場所は、椅子」


 椅子に腰を落とす四拍目に、パズは両手で胸を軽く叩く。“返しました”の合図。拍の貸し借りに領収が要るわけではない。だが、儀式は貸し借りを美しくする。鐘守が黙って頷いた。


「次。“駆け足の少年と、荷を抱えた母”」


 巡礼路の角でよく見る組み合わせだ。息の合わない二人は、いつも四角く転ぶ。そこで、橋。市鼓が二人の間に細い布を通す。布は手に結ばない。握らせない。布の片側だけを軽く摘む。


「二、で笑う。三、で布を置く。四、で母の息に少年が合わせる」


 少年は引っ張られない。母は引っ張らない。二人の間で布が“橋脚”になる。四歩で角を渡り終え、布は地面の布マットへ落ちる。置くことで、借りた拍は場に返る。母が笑い、少年が照れる。よし、よし、と殿下が木さじを二度、空で叩いた。



 午前の稽古が温まった頃、北門から伝令が駆けた。外縁の風道ふうどうで、人の波が一瞬つんのめる現象が続いているという。四分の一拍がところどころ削れている。昨日の“穴”が、点ではなく線になっているらしい。悪い芸が上手くなっている。


「現場、確認へ」


 殿下の言葉の途中で、すでにシアンが馬を引いている。エレーネは杖を肩に。「借り拍の稽古、続けて。——ルグは半分来て。現場で橋脚の立て方を見ておきたい」


 半分だけ。中庭の指揮はパズと市鼓に任せ、俺は外縁へ。丘陵の背骨は風が強い。見ると、風見塔の帆は正しく回っている。だが、回廊の角で人が足を取られていた。四分の一拍ぶん、足場が“つるん”と抜ける。連続で抜ければ、群衆が波になる。


「抜いてるのは、石の継ぎ目」


 シアンが手袋の指で目地をなぞり、細い黒粉を見せる。「樹脂じゃない。乾いた煤。踏むと滑る。拍の裏腹を狙ってる。視界の端で見えない側」


 煤は音も匂いも薄い。視界安定を人に掛けるか? いや、場に置く。


 俺は〈視界安定〉を目地そのものに一枚。彼らの視界ではなく、石の“見え方”を整える。次に〈間合い指定〉を四分の一拍ごとに梯子状で敷く。足の力を一気に抜かせず、三で置くまでに段差を作る。


「橋脚、間に合う?」


 殿下の問いに、俺は首を横に振る。「橋脚だけだと、橋の名札が要る」


 名札。つまり、人の脳に「ここは橋です」と軽く貼る物語。ジェイが「任せろ」と言って泡立て器を取り出し、煤の上に卵白を塗った。「空気の泡で見える化。足裏にぷつぷつが伝わる。音ではなく、手触りの合図だ」


「泡の橋脚……合理的で腹立つくらい良い」


 エレーネが呟き、殿下は木さじで卵白を二拍目に撫で、三拍目に置く。通る人は無意識に足を緩め、四で呼吸が整う。橋、成立。


「『借り拍』は、人から預かるだけじゃありません。地面から借りることもできる」


 殿下の一言は、たぶん今朝いちばんの発明だ。市井の稽古に帰ったら、地面の拍の借り方も教えよう。



 昼過ぎ。倉庫街へ戻ると、広場の一角に救護席ができていた。日陰、椅子、薄い布、清潔な水。市鼓が交代で立ち、拍の返却を見届ける窓口。パズが胸を張り、領収の所作を人に教えている。


「返す場所は目に見えるほうが安心です」


「いい設計だ、市鼓」


 そこへ、鐘守がふらりと現れ、鍵束を鳴らした。「良い匂い。拍の冷やし方を心得ている」


「冷やす?」


「熱い拍は、喧嘩を煮立たせる。返す前に冷やすと、次の人にも渡せる。——ほら」


 鐘守は椅子の背に手を置き、軽く叩いた。木が二拍目に柔らかく鳴り、三拍目に沈む。家具の拍を使って、熱を逃がす。拍は本当に何でも橋になる。


「午後のモデルケース。“片足を痛めた職人と、急ぐ列”」


 職人は誤魔化すタイプだ。痛みを意地で無かったことにする。無かったことにした拍は、列の端でバタつく。そこで、橋。


 市鼓二人が、職人の肩甲骨の上に空気の手を置く。触れない。指の腹を一寸離したまま。俺は〈間合い指定〉を肩の上に薄く一枚。「ここで置く」。職人は置ける。肩が下がり、痛みが三で逃げる。列は速度を落とさない。四で、返す。職人が拍を自分に戻す瞬間、背筋に“ありがとう”が走る。


「お前ら……何者だ」


「市鼓だよ」


 パズが誇らしげに言い、職人は照れ笑いをした。拍の貸し借りは、誇りを安くしない。むしろ高くする。



 その最中、広場の端で小競り合いが起きた。外から来た商隊と、地元の仲買。言葉が刺の数だけ増え、とんがった音が出始める。シアンが滑り込み、白手袋で三拍を刻む。だが、今回は空気が重い。刺が多すぎる。


「——借り拍、出動」


 俺は市鼓三人を示し、橋の隊形を組む。互いの間に薄い布、足元に布マット。〈不一致強調〉を、争いの中心ではなく、端に一枚。端が気持ち悪さに気づけば、中心が勝手に崩れることがある。


 商隊の長が、拳を握った。二拍目に、俺は彼の手のすぐ上に〈間合い指定〉を置く。三拍目で、彼の指が開いた。拳は置くに変わった。四で、息が落ちる。仲買の女将が二拍目に笑い、三で計算板を置く。数字は凶器でもあり、仲直りの台でもある。


「四で返す」


 殿下の声が空気に通り、喧嘩は解けた。泡立て器が一度だけ空で鳴る。ジェイ、お前は何でも楽器にするな。



 夕刻。王城に戻る道すがら、エレーネが小声で囁いた。


「敵方から返歌。また風に乗ってきた」


 風の中で、歌が遅れて笑う。〈君たちは拍を貸す。ならば、その領収を盗めばいい〉


「領収って……“返しました”の所作?」


「そう。返却儀式に偽符を混ぜて、返してないのに返したことにする。そうすれば、橋の向こうで転ぶ」


 嫌な手口だ。儀式を汚すのは、戦の礼を踏みにじる行為だ。


「対策は簡単」


 殿下が微笑んだ。「二重領収。返す所作を“半拍遅れて”二度やる。——テンポシーフはそこで“遅れ”を掴んで満足する。私たちの本当の返却は、二枚目」


 返歌に返歌。歌で殴るのは王道だ。俺は頷く。偽拍で守り、二重で返す。過制御にならないよう、薄く、薄く。


「それと、今夜は鐘守の稽古。鐘楼で“遠橋”の練習を」


「遠橋?」


「離れた場所同士の拍を、鐘で一時的に繋ぐ。秋分祭の夜行で、外輪と中心を結ぶため」


 遠い橋。胸がじんわり熱くなる。橋は近いほど易しく、遠いほど物語になる。



 夜。鐘楼。梁と梁の間に淡い灯り。鐘守が鍵束を一音鳴らし、俺に合図する。俺は鐘のロープに触れない。代わりに、床へ〈間合い指定〉を一枚。鐘の影に置く。


「一、二、止、四」


 鐘は鳴らない。だが、街が鳴る。遠くの酒場で笑い声、工房で三連打の抜き、巡礼路で鈴の一瞬の沈黙。全部が半拍遅れて合流する。鐘の影が橋になり、街の端同士が一瞬だけ同じ場所になる。


「これが遠橋」


 鐘守の瞳が若くなった気がした。殿下が木さじで空を叩き、エレーネが杖で床を撫でる。シアンは短剣を抜かず、柄に指を置き、半拍遅れて俺を見る。その合図は最近、言葉よりよく通る。


「テンポシーフの楽団編成も掴めた」


 エレーネが巻物を広げる。押収した指揮棒の刻印から辿った符号。〈外輪夜行/第三拍欠落/二拍目笑い無効〉の文字。


「二拍目を無効? 笑いを殺すのは感心しない」


 殿下の声が低くなった。俺も、少し怒った。笑いは呼吸。呼吸を殺すやつは、戦士の前に人間として嫌いだ。


「対抗策。“笑いの借り拍”」


 言ってみて、皆が首を傾げた。俺は説明する。

「二拍目に笑えないなら、一拍目に笑いを“仕込んでおく”。息と肩の位置を、あらかじめ“笑いの形”にしておく。二拍目で発声しなくても、身体が笑う。借り笑いだ」


「できる?」


「やります」


 練習はすぐ始まった。鐘の影で、市鼓が肩を前へ、顎を半寸上げ、目尻を紙一枚ほど緩める。声を出さず、笑いの形だけ作る。エレーネが横から呼吸を見て、「二分の一拍早い」と指摘する。三度目で、形が揃った。借り笑いは、声なしでも肺に効く。二拍目の無効化を超えて、四拍目に向けて息が整う。


「よし。——秋分祭まで、あと二日」


 殿下が木さじを下ろした。夜風が鐘の縁を撫でる。都市は眠り、拍は一枚、また一枚と布団を重ねる。

 俺は胸裏の〈偽拍〉を一枚だけ置いて、目を閉じた。重ねない勇気は、もう手のひらに馴染んでいる。

 借りて、渡して、返す。

 橋は増え、物語は加速する。

 鼓手長、お前の第三拍は空く。だがそこには、置かれた物と、借り笑いがある。

 盗む拍は、どこにもない。

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