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第8話「手放す稽古、第三拍に物を置け」

――戦いの前に、掌を開く練習をする。

武器を研ぐより先に、離す練習。矛盾しているようで、拍はだいたい矛盾でできている。


 朝、王城中庭に長机を並べた。木皿、木杯、槌、麻袋、洗濯ばさみ、パン、野菜、ロープ……ありふれた道具が、ずらりと並ぶ。殿下が木さじで机を軽く叩き、今日の稽古を宣言する。


「秋分祭の夜、鼓手長は第三拍を空けると予告した。ならば第三拍に置く。各自の手の中のものを、いちど、机に置く。——“落とす”ではなく、“置く”」


 殿下の言い回しはいつも、危険を避けるために一拍余計にやさしい。落とすは事故に近い。置くは意志だ。


市鼓いちこ、集合」


 広場の端から、昨日任命された市鼓たちが集まってくる。最年少のパズは、緊張と誇りを同じだけ顔に塗っていた。工房代表、酒場代表、巡礼代表、ジェイもいる。彼は杖ではなく、細い棒——料理用の泡立て器を持ってきた。聞くと、「乱れは泡立てて均せる」らしい。詩人に転職したのか。


「今日は“手放す稽古”。合図は市鼓が出す。——一、二、置く、四」


 俺は手本を見せる。木杯を右手で持ち、二拍で持ち上げ、三拍目に机に置く。音を立てない。置いた瞬間、指の内側に“空気”が生まれる。四拍目、また握る。指が、さっきより自由だ。


〈間合い指定〉を、机の板面に薄く塗る。ここは“置く”が正解。人の手に掛けず、場に置く。支援は空間の機嫌を良くする整髪料みたいなものだ。


「置くと、奪われない」

 エレーネが眠たげな目で言い、机の端の麻袋を指で弾く。「握りしめたものは狙われやすい。置いてしまえば、誰のものでもない“場の音”になる。テンポシーフは“個人の拍”を盗む。場の拍は、盗みにくい」


 練習が始まる。酒場の面々は木杯、工房は槌、巡礼は鈴。パズは市鼓の紐旗を掲げ、合図を出す。最初は音が鳴る——置くが落とすになりがちだ。けれど、三巡目には、音が消えた。机が呼吸するみたいに、道具が静かに上下する。


「三で置く。四で笑う」

 殿下が追加の指示を出した。笑いは呼吸。呼吸は拍。四拍目の笑いが広場に薄く広がり、人の肩から棘が抜けていくのが見える。


 ジェイが泡立て器で空を撫で、「三で泡を消す」と呟いて笑った。なんだその作戦名。悪くない。



 訓練の合間、王城から伝令が走ってきた。北東区、倉庫街の路地で**鼓手長の“使い”**が囮を張っているという。囮は囮でも、寄付箱のふりをした“拍ずらし箱”。小銭を入れた拍で、人の呼吸を奪う仕掛けだ。


「行く」

 殿下が即答し、シアンが頷いて先導する。俺は〈視界安定〉を薄く自分の瞳に置き、エレーネは杖を肩にのせる。走りながら、殿下が短く言う。


「ルグ。さっきの“置く”を応用。——箱の前で、第三拍に手を離す。奪いに来る手には、何も握らせない」


「了解」


 倉庫街の路地は、人が吸い込まれる匂いがする。角を曲がると、小洒落た寄付箱がある。上に“祭の寄進を”と書かれ、脇に笛吹きの男。音は美しい。一音だけ遅れている。箱の前にはすでに数人の列。二拍目に手が箱へ伸び、三拍目に——吸い込まれる。


「二で持ち上げ、三で離す!」


 俺は列の最後尾に声で合図し、〈間合い指定〉を箱の上空に置く。置くのは箱じゃない、空気だ。三拍目に、皆の指がふっと開く。小銭が空で止まるわけもなく、机——ではなく、準備しておいた布に落ちる。布は音を飲み込み、箱が吸い込むべき拍を失う。


 笛の少年の眉が跳ねた。その遅れた眉の動き、昨日の巡礼路で見た手口と兄弟分。エレーネが杖先で笛の口に貼られた符を剥がし、音はただの音に戻る。シアンは寄付箱の脚を蹴り、内側の小さな金属円盤を露出させた。円盤には微細な刻み。第三拍だけ共鳴を吸う仕掛けだ。


「押収」

 シアンが円盤を外し、殿下が布の小銭を箱に改めて入れる。寄付は寄付。箱はただの箱に戻った。騒ぎは起きず、噂だけが風に乗って広がる。


「“置く”と“離す”は、犯罪の計画にとって最悪」

 エレーネが小さく笑い、円盤を日光に透かす。「拍を盗む側は、いつも“握ってこい”と期待している」


 路地の奥で、黒衣が一人、壁の影を離れた。顔は見えない。だが、身のこなしがおかしい。遅れている。俺は〈不一致強調〉を一枚、壁面の影に置く。黒衣の足が半拍遅れ、石を蹴る音を誤魔化せずに響かせた。衛兵が曲がり角で待っていて、無言で肩を極める。捕縛。静かな勝利。



 昼、工房街の広場へ戻ると、槌の三連打に置くが混ざっていた。二打、置く、四打目で“抜き”。背筋が伸びる音。親方たちの眼が少しだけ柔らかくなっている。「肩が楽だ」と口々に言い、徒弟たちは「仕事が速い」と喜ぶ。効率の上がる徳目は、だいたい正義だ。


 酒場では、二拍目で笑い、三拍目に杯を置く。酔いは回り過ぎず、喧嘩は起きにくい。女将が「このままだと売り上げが上がるのか下がるのか微妙だねぇ」と笑って、殿下が「平和のぶんだけ長く飲めます」と返す。政治と商売は一拍違いで踊っている。


 巡礼路では、鈴を持つ子どもたちに手を離す稽古。二で鳴らし、三で手から離し、四でまた握る。鈴は地面に落ちない。地面に布が敷いてあるからだ。布は王城の古い旗をほどいて作った。市井に旗が降りている。いい風景だ。



 午後、王城の鐘守が戻ってきた。行方不明だった鐘守ではない。別の鐘守、白髪の、背筋の伸びた人。目元に深い皺。殿下に一礼し、俺を見て言う。


「拍は、鈍器にも刃物にもなる。——あなたは鈍器にしない。よろしい」


「刃物にも、しないつもりです」


「なおよろしい。拍は、橋にすると長持ちする」


 鐘守は塔の鍵束を鳴らし、音で挨拶を置いていった。橋——つまり、人の間に渡すもの。俺は胸の裏で〈偽拍〉を一枚撫で、鍵の音の残響に耳を澄ませる。



 夕刻前、伝令がもう一つ。北門の風見塔の基礎に、**“空白の穴”**が再度仕込まれているという。昨日と似ているが、深さが違う。第三拍だけでなく、四分の一拍を連続で抜く細工。細かい揺さぶりは、群衆の足をもつれさせる。


の連続盗みだね」

 エレーネが嫌そうに眉をひそめる。

「埋めるより、渡す。——ルグ、連続四分の一拍に“手を離す階段”を掛けて」


「任せて」


 風見塔の基礎に手を置く。〈視界安定〉は使わない。代わりに、〈間合い指定〉を階段状に置く。三拍目の手放しに向けて、四分の一拍ごとに“少しずつ、力を抜く”合図。落とさず、置くための助走だ。


 塔がかすかに息を吐き、帆の布が柔らかく沈む。人は急に手を離せない。だから、離す練習を事前に埋め込む。支援は、未来の動作に優しい嘘をつく。


「よし」

 シアンが塔脚を一周して確認し、親指を立てる。指先に小さな絆創膏。昼の乱闘の痕だろう。彼女は気にも留めず、俺にだけ一瞬、半拍遅れて視線を寄越した。危ない合図は、甘い合図に似ている。



 黄昏。王城の中庭に、今日の“手放す稽古”の仕上げとして、大机を据えた。長さ十間の板。上に、町じゅうから集めた道具が載る。パン、杯、槌、鈴、針、糸、筆、杓子、鍋蓋。殿下が木さじを構える。


「王都、全員で一度。——二で持ち上げ、三で置き、四で笑う」


 市鼓のパズが前列に立ち、赤い紐旗を振る。俺は支援を——置かない。今日は、場が自力で呼吸できるかを確かめる夜だ。シアンが側で頷き、エレーネが杖の先で地図の端を押さえる。ジェイは泡立て器を腰に挿し、なぜか誇らしげだ。


「いち、に、おく、よん」


 パズの声は、まだ細いが、真っ直ぐだ。木皿が、杯が、槌が、鈴が、針が、同時に音を立てずに机へ帰る。四拍目、笑いが広場に生まれる。笑いは小さく、でも確かだ。王都の肩が、ひとつ、落ちた。


 風が、歌を運んでくる。〈第三拍を空ける〉の悪趣味な旋律。だが、今日はそれが空回りした。第三拍は空いているが、物で満ちている。空白は、ただの空白ではない。


 殿下が木さじを下ろし、深く息を吐いた。


「今日の拍は、八割五分」


「上げすぎない」

 俺は笑って言う。「九割で止める。十分な余白は、祭りの安全弁」


「了解。——十分な余白」


 殿下はそう言って、ふと空を見上げた。雲が夜の紺に擦り寄り、初秋の月が薄く笑う。



 夜。王城の食堂で、いつもの薄いスープ。鍋は大きい。今日は置くを祝うために、パンを二口で一呼吸と決めた。シアンは背筋を伸ばして座り、匙を持つ手を三拍目に机へ置き、四拍目に微笑む。エレーネは眠気と戦いながらスープに顔を寄せ、ジェイは泡立て器で空気を撫でる——撫でる必要はないが、彼は楽しそうだ。


「手放すのは難しい」

 殿下がパンを置いて言う。「権力も、怒りも、期待も。三で置ける王都にしたい」


「王女様が最初に置けば、だいたい続く」

 俺は言ってから、置きすぎにならないようにと付け加える。「何でも置く王都は、スカスカで倒れる」


「ええ。置いて、また握る。四で笑って、次の一で、また持ち上げる」


 拍の輪。息の輪。殿下の目は、今日も鐘のように明るい。


 食後、地図に赤い点が増える。市鼓は四十名を超えた。明日には五十。巡礼路の角には布が敷かれ、酒場の掲示は“二で笑い、三で置く”。工房の三連打には“抜き”の記号。


「テンポシーフからの返歌、来ると思う?」

 エレーネが欠伸を噛み殺しながら問う。

「来る」

 殿下は即答した。「彼らは音楽家。黙らない。——明日は**“借り拍”**の稽古。誰かの拍を、一時的に預かり、返す練習」


「借り拍?」

 ジェイが首を傾げる。泡立て器がカチャリと鳴る。

「怪我人、子ども、高齢者。行列の中で“拍が崩れやすい人”の拍を、市鼓が一時的に預かって支える。返す場所まで、橋を掛ける」


 鐘守の言葉が、そこでひっそりと輪を閉じた。拍は橋。橋は、置いた手と手の間に渡す。


 寝る前、俺は〈偽拍〉を胸裏に一枚。今日はそれだけ。窓の外で、不意に遠い拍子木の音がした。遅れている。鼓手長は、こちらの余白を測っている。


 どうぞ、測ってくれ。余白は見せても、渡さない。第三拍に置いた物は、四拍目の笑いで返す。


 秋分祭まで、あと三日。

 王都は「置く」を覚えた。

 次は「借りる」と「返す」。

 拍は、貸し借りができる。

 物語もまた、そうやって回る。

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