第7話「市井版公開試験、“しない”の稽古」
――喧嘩は、始め方よりも、終わらせ方に技術がいる。
翌朝の倉庫街は、麦粉の白と魚箱の匂いで満ちていた。荷車の軋みが拍を刻み、縄のきしみが裏拍を鳴らす。殿下の布告札はもう出ている。〈本日、市井版公開試験——“しない”の稽古。見学自由〉
「見学自由って、つまり野次馬大歓迎ってことよね」
エレーネが書見台を携えて、眠たげな目で笑う。
「賑やかなほうが、練習の雑音に近い。実戦だ」
俺は頷き、広場の中央に立った。靴裏で石畳を押して、今日の“地の拍”を足の骨に写す。
侍女騎士シアンが人垣をさっと整え、通路を確保する。短剣は見せない。代わりに白手袋で“この半歩は譲る”を示す。彼女の所作は、喧嘩の芽を摘む園芸だ。
「まずは、喧嘩の“手前”を知るところから」
俺は両手を上げ、指で四拍を描く。
「一、二、止、四。——三で止まる。今日は重ねない。薄く一枚ずつ、場に“空白の付箋”を貼っていく」
〈間合い指定〉
支援というにはあまりに地味な、合図の影。石畳に、壁に、荷車の角に、薄く置く。単発。誰の身体にも触れない。ただ“ここは今、やらないと得”だと、空気が告げる。
「見本役——喧嘩師の皆さん」
シアンが顎で合図する。呼ばれて出てきたのは、酒場《青い水車》で見かけた腕っぷし自慢たちだ。筋骨は立派、心は善良、頭はやや直線的。こういう連中は、稽古に向いている。
「台本は『順番抜かし』。荷の検品をめぐって口論。——さあ、どうぞ」
がなり声。肩がぶつかる。腕が上がる——三拍目に、腕が空中で迷子になった。俺の“付箋”がそこにあったからだ。“今は上げない”という正解が、肘に重りを置く。
「止まると、恥ずかしくない?」
最前列の少年が囁く。俺は首を振る。
「止まれる人は、強い。止めない人は、勝つより先に負ける」
喧嘩師たちは四拍目で視線を落とし、口の形を“どうも”に変える。笑いが起き、拍手が散る。拍手はまだ薄い。だが、薄い拍手は重なれば厚くなる。
「次。『値切りすぎ』」
魚屋と客の寸劇。言い合いは白熱する——三拍目、客が財布を取り落とす。わざとだ。落ちた小銭が石に当たって、乾いた音を出す。小さな間。目線が下がる。怒気は足元で熱を失い、笑いが落ちる。客は小銭を拾い、魚屋は氷を一掴み多く入れた。
「取り落とすは謝罪の初手。覚えて帰って」
殿下が袖の中で指を一つ鳴らし、掲示板に〈小銭の音=和解の鐘〉と書く。嘘ではない。倹約と平和は同居できる。
最後に、俺は両手を下ろし、深く息を吸った。
「仕上げ。『群衆の押し合い』——一番危ない。やらないほうがいいことは、たいてい“群れの中”で起きる」
荷馬車が二台、狭い辻で行き違おうとして詰まる。人の波が滞り、怒号の種が湿る。俺は印を切らない。代わりに、声だけを置く。
「—三で止まって、四で下がる—」
合図は言葉にした。支援ではない。だが、言葉もまた支援だ。三拍目、先頭の男が半歩分だけ踵を引いた。すぐ後ろの女が真似る。子どもが笑って後ずさる。四拍目、荷馬車の車輪が溝を跨いだ。詰まりは解け、怒気は起きなかった。
人垣の後ろで、乾いた手が二つ、静かに拍手した。黒衣。目の端に笑いの皺。——遅い響き。テンポシーフの歩様。
「鼓手長の差し金か?」
エレーネが杖の先で石畳を軽く叩く。音はすぐに空に吸われた。今日は吸音罠はない。あるのは、じわじわと広がる注視。
「本戦は祭りだろう。今日は“視察”です」
シアンがささやき、手袋の上から俺の手首を一瞬だけ叩いた。半拍遅れの合図。彼女の視線は黒衣をなぞり、危険を見つけ——見送る。追わない。まだ追わない。拍を崩すほどの敵意ではない、観客の視線だ。
◇
稽古は成功だった。騒ぎは起きず、見物人は“止めどき”のコツを一つ二つ、表情に刻んで帰っていった。帰り際、少年が振り向いて言う。
「三で止まるやつ、家でもやる!」
「家の喧嘩は、一でやめるが正解だ」
笑いが大きくなる。いい。大きくなりすぎないのが、なおいい。
解散の空気が緩む、その端っこに、緩みすぎた音が混じった。小さな短い悲鳴——いや、飲み込まれた吸い込み。倉庫の裏手。薄暗い通路。俺たちは同時に動いた。
通路の奥に、細い影。少年だ。額に汗、口に布。背後に黒衣が一人。手には小さな拍子木——ではなく、指揮棒。鼓手長が使う、正式の器具。こいつは下っ端じゃない、指揮を伝える側の人間だ。
「坊やを渡して」
シアンの声は低い。黒衣は笑った。遅れて笑う。
「子どもを返すのは簡単さ。代わりに——君の拍をもらう」
指揮棒が空を切る。空気が半拍だけあらぬ方向へ引っ張られ、足場が一瞬痩せる感覚。俺はその“痩せ”を狙って、指を一本立てた。
〈不一致強調〉
心拍と呼吸のズレを、黒衣の身体に“意識させる”。単発。気持ち悪い。指揮棒の軌道が、ほんの一瞬だけ迷った。
「いまだ」
シアンは風音の速さで踏み込み、少年の肩を抱く。黒衣の肘が動く——その三拍目に、俺は通路の床へそっと薄い付箋を置いた。
〈間合い指定〉
“ここでは踏み込まない”。黒衣は自分の体幹に裏切られ、僅かに躓いた。指揮棒の先から抜けそうになった合図が空へ逸れる。エレーネの杖が軽く鳴り、逸れた合図は——ただの風になった。
少年は俺の胸に飛び込んだ。鼓動が速い。骨が細い。抱き上げると、胸の裏に〈偽拍〉を一枚だけ置く。半拍ずらし固定。怖がっている時の心臓は、敵に見せないに限る。
「指揮棒、没収」
シアンが黒衣の手首をねじり、棒を抜き取る。黒衣は逃げた。追える。だが、追わない。通路は狭く、空気は熱く、拍は乱れやすい。祭り前に“追って怪我”は、悪い見本だ。
「衛兵に棒を渡す。符号が刻まれてるはず」
エレーネが棒の根元を見て、顎を引く。「——刻まれてる。〈外輪 夜行 第三拍欠落〉。ほんとに“譜で戦う”のが好きね」
少年はまだ震えていた。俺はしゃがみ、目線を落とす。
「怖かったな。名前は?」
「……パズ」
「パズ。今日覚えた“止める三拍”、家で母ちゃんに教えてやってくれ」
「うん……ぼく、三で止まる」
「その勇気があれば、大体の喧嘩は勝ちになる前に終わる」
パズは涙の中で、小さく笑った。いい拍だ。殿下が後ろから肩に手を置く。
「ルグ、**市鼓**を任命します」
「市鼓?」
「街の鼓手。王城の鼓手が都市の心拍を、市鼓は路地の拍を整える。——第一号はパズ」
「え、ぼくが?」
「拍の意味を、今日、身体で覚えたのはあなた。肩に乗せるのは重すぎない。町角で三を数えるだけでいい」
「……やる」
パズの返事は、拍に遅れない。あの黒衣がもし近くで聞いていたなら、眉をひそめただろう。“盗めない拍”が生まれた瞬間だ。
◇
午後は、各所で“市鼓”を増やして回った。パン屋の店先に一人、工房の軒下に一人、巡礼路の角に二人。子どもばかりではない。腰の曲がった元兵が嬉しそうに名乗り、寡黙な魚屋の娘が頷きで引き受けた。
「合図はこれだけ。——一、二、止、四。危ない匂いがしたら、三で声を出す。『止まって』って」
合図を教える間じゅう、俺は支援を置かない。置くのは言葉と、緊張の抜き方だけ。祭りは、できる限り“自力の拍”で走らせたい。
夕方、風見塔の影が長く伸びた頃、鼓手長の返事が来た。予告状の続き。今度は紙ではない。風だ。風が、歌を運んできた。
〈秋分祭の夜、第三拍を空ける。君たちは、そこで落ちる〉
歌は悪趣味なほど美しかった。エレーネが舌打ちし、殿下が静かに笑う。
「第三拍を空けるなら、二拍目で笑えばいい」
「笑い?」
「笑いは呼吸。呼吸は拍。——“強拍の前に笑う”のは、古い戦の知恵」
殿下は木さじを抜き、空へ四拍を描いた。手首の裏で、月の白が跳ねる。
シアンが俺の横で小さく囁く。
「ルグ殿。あなたの拍、最近、私に寄ってくる」
「業務に支障」
「支障は出さない。強くなる寄り方だけ覚えた」
言い切ると、彼女は視線をすっと外した。頬は赤くない。侍女騎士は、胸の拍すら規律で押さえるらしい。厄介で、尊い。
◇
夜。王城食堂。今日も薄いスープに大きな鍋。塩は高い位置から。殿下が一口飲んで、息を一つ落とす。
「市鼓、初日で二十名。明日には五十。祭の“外輪夜行”は、彼らが鍵」
「テンポシーフは第三拍を空ける。空白は強い。——空けさせないか、別の意味で埋める」
「別の意味で?」
「笑い。歌。手を離す。——第三拍で人が物を置けば、彼らは拍を盗めない」
エレーネが頷く。「手を離すのは、戦術上も正しい。“握りしめたもの”は狙われやすい」
食後、地図の上で作戦は形になる。巡礼路の角ごとに“市鼓”。酒場は乾杯の笑いを二拍目に寄せ、工房は三連打の“抜き”を第三拍に足す。王都は、空白で戦う。
寝る前、俺は〈偽拍〉を胸裏に一枚。今日は、それだけ。呼吸は深く、眠りは静かに。窓の外で、風が遠くの塔を撫でる。拍は正しい。鼓手長はきっと笑っている。いい。笑わせておこう。二拍目で、こっちも笑う。
秋分祭まで、あと四日。都市は「止める」を覚えた。次は「手放す」だ。
握っていた剣を、杯を、怒りを、一瞬だけ——置く。
その一瞬の間で、王都はきっと、誰にも盗めない拍を得る。