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第6話「市井の練習、拍はパンと槌と巡礼で」

――祭りは勝手に始まらない。始まる前に“練習”がある。練習は、だいたい騒がしい。


 午前。最初の会場は酒場《青い水車》。昼前から客が多いのは、ここの麦酒が“仕事の前の勇気”として認められているかららしい。樽の並ぶ壁に、殿下が自筆の紙を貼った。〈本日より、拍の練習。乾杯は四拍で〉


「四拍ってなんだ、二拍でぐいっと行くのが礼儀だろ」


「三拍目で我慢したら喉が死ぬ」


 野次をまとめて、俺は卓の前に立つ。指を鳴らして、落とす。


「一、二、止、四。——三拍目は“空腹の我慢”。ここで止めるから、四で旨くなる」


 〈間合い指定〉を空間に薄く散らす。単発。今日は重ねない。客たちは最初こそもつれて笑ったが、三度目で突然揃った。木のコップが、同じ音で卓を打つ。泡が同時に喉に落ち、誰かが驚いた声で言う。


「確かに四がうまい!」


 殿下が親指を立て、掲示板にもう一枚紙を貼る。〈拍が揃うと酔いがまわりづらい〉。真偽はさておき、客の顔は明るい。酒場は拍を覚えた。


 その裏で、侍女騎士シアンが静かに動く。酔い過ぎた男の肩を軽く叩き、座る場所を半拍ずらすだけで騒ぎは起きない。短剣より先に、椅子の脚を扱う手がうまい。


「あなたの“空白”、治安にも効くのね」


「治安はだいたい、半拍の我慢でできてる」


 エレーネはカウンター越しに、麦酒の泡へ顔を寄せた。眠そうな目のまま、泡の粒に刻まれた不揃いを眺め、ふっと笑う。


「理想的な乱れ。完全な同期は危ない。——ねえ、ルグ。過制御に入らないよう監視させて?」


「頼む。俺も怖い」


 祭りは、盛り上げすぎるとよく燃える。



 昼。工房街の槌は、もともと拍の塊だ。南門側の広場で親方たちを集め、殿下が短く演説する。


「今日から秋分祭まで、正午前後の一刻だけ、同じ型の三連打を入れてください。酒場と巡礼路と、響きを合わせるために」


 「仕事が遅れる」と頑固な親方が言ったので、俺は試しに一つ支援を置く。


〈疲労分散〉


 薄く一枚。三連打の“抜き”の場所に合わせる。やってみせると、年若い徒弟が目を丸くした。


「肩が……楽だ」


「三つ叩いて、一つ抜く。抜いたところで背筋が伸びる。——抜きの拍は、町に戻る」


 親方たちは渋面で頷き、殿下が判子を落とす。王女のハンコの暴力は、今日も合法だ。


 練習の最中、広場の隅で小さな喧嘩が起きかけた。工具の貸し借り、順番の争い。シアンが間合いに滑り込み、指で三拍を刻んだだけで両者は口を閉じた。


「その拍は、謝るための拍です」


 騎士の急所突きは、言葉にも効くらしい。二人は素直に頭を下げ、槌はまた歌に戻った。



 午後。巡礼路。王都の外輪を回る白い石畳に、赤い糸が点々と置かれる。ボランティアの子どもたちが「ここ、半拍止まる」と札を掲げ、老若男女がそれに合わせて歩く。最初はぎこちない。だが、十歩もしないうちに、列の呼吸が少しずつ合い始めた。


〈視界安定〉を薄く、路面に。線が揺れないだけで、足並みは崩れにくい。


「テンポシーフは“群衆の端”を狙うわ」

 エレーネが帽子のつばの影で囁く。

「だから端に〈偽拍〉を薄く置く。敵が掴むのは影」


 やり過ぎない。置き過ぎない。殿下が時折、列の前に立って片手を打つ。トン、トン、止、トン。子どもたちが真似をして笑い、老人が少し誇らしげに歩く。


 巡礼の途中、道端で笛を吹く青年がいた。旋律は美しいが、一音だけわざと遅れる。列の端が吸い込まれるように崩れかけ——俺は笛に向けて指を一本立てる。青年の息が止まり、目が泳いだ。テンポシーフの手先。エレーネの杖が短く鳴り、青年の笛に貼られた薄い符が剥がれる。音はただの音に戻り、青年は膝から崩れた。


「ごめん……仕事で……」


「仕事は選べ」


 シアンの声は冷たいが、刃ではない。衛兵が青年を連れていく。巡礼路は、何事もなかったかのように流れを取り戻す。



 夕方。王城中庭で“合図合わせ”の最終リハ。酒場代表、工房代表、巡礼代表が集まり、殿下が指揮棒……ではなく、木さじを持つ。王女の木さじ指揮、似合うのがずるい。


「一、二、止、四。槌は二小節目で三連打。巡礼は三小節目で一歩止める。——ルグ、場に薄く“柔らかい床”を」


〈衝撃散逸〉を芝に一枚、二枚。子どもが走っても転ばない程度のクッション。工房の兄ちゃんが裸足になって跳ね、笑った。


 練習は、概ね順調だった。概ね、だ。終盤、遠くの風見塔が止まった。風が息を止める、いや——止められた。


「樹脂で帆を固められた。……仕事が早い」


 伝令が駆け込み、殿下が即座に指で印を切る。「風道組、第二梯隊。——ルグ、場を頼む」


「了解」


 殿下たちが外縁へ向かった後、中庭の空気は少し不安になった。拍が散らばると、不安は音になる。俺は手を叩かない。代わりに、笑う。


「今日の晩飯の話をしよう。酒場は四拍で乾杯、工房は三連打、巡礼は一歩止める。——食堂は、二口で一呼吸」


 肩の力が抜ける笑いが広がり、拍がゆっくり戻る。〈間合い指定〉を薄く天幕に置いて、夕風の代わりに呼吸を配る。王都の肺は、今日、頑丈だ。



 夜。王女たちは風見塔の樹脂を剥がして戻ってきた。シアンの袖に煤、エレーネの髪に木の粉。殿下は額の汗を拭い、微笑む。


「今日の拍は、七割。明日には八割に」


「上げすぎないほうがいい。祭りの入り口は、少し乱れていたほうが楽しい」


「同感。——それから、これを」


 殿下が差し出したのは、黒衣の男から押収した“予告状”の写しだった。朱の字で、たった一行。


〈秋分祭、外輪の夜行で“あなたの拍”をいただく——鼓手長〉


 鼓手長。テンポシーフの頭。礼儀はあるが、趣味が悪い。


「こちらからも予告を出す」

 殿下が木さじを指揮棒のように掲げる。

「秋分祭、王都は自由拍で踊る。——盗む拍は、どこにもない」


 エレーネが肩をすくめる。「宣戦布告に、理想主義で返すのね」

「理想は宣言しないと形にならない」

 殿下のそういうところが、好きだ。言葉が拍になる。



 夜食のパンとスープ。今日は俺が“重ねない”日を守り切った記念に、塩を少しだけ高い位置から。シアンが椅子の背にもたれ、横目で俺を見る。


「王都の拍、あなたに寄ってきます。……私も、少し」


「業務に支障」


「支障は出しません。お世話の効率が上がるだけ」


 エレーネがあくびを噛み殺し、指で机を二度叩く。「はいはい、奪い合いの宣言は一日一回まで。明日は北東区の倉庫街、市井版公開試験よ。あなたの“重ねない技術”を、市民に配る」


「市民に?」


「うん。“やらないで済む”のも技術。祭りの喧嘩は、だいたい止めどきが分からないから起きる」


 なるほど。何をしないかを教える公開試験。嫌いじゃない。


 遠くで鐘が一つ。都市の心拍は、今日も正しく鳴っている。


 秋分祭まで、あと五日。明日は市井の舞台だ。練習は本番を裏切らない。拍は嘘をつかない。偽拍ですら、真実を守るための嘘だ。


 鍋は、ますます大きい。薄いスープでも、きっと祝宴になる。次は、鍋を焦がさない話だ。

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