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第5話「鐘楼の空白、偽拍で守る」

――眠るにも作法がいる。敵が“寝息”から侵入してくる世界なら、なおさらだ。


 夜。王城の客間で、俺は枕を二つ使った。片方は呼吸のため、もう片方は用心のため。エレーネ直伝の〈偽拍〉を、胸骨の真裏にそっと置く。


〈偽拍:半拍ずらし固定〉


 寝息を半拍ずらして“偽物のリズム”にする。侵入者が拍をなぞろうとしても、掴むのは影。支援というより、いたずらの類だ。だが、いたずらは命を救う。


 部屋の隅で、侍女騎士シアンが椅子に腰掛けたまま、目だけを閉じている。寝ているのか起きているのか、半分ずつに見える。床に置いた短剣は、柄が手のひらに吸い付く距離。どの角度からでも抜ける間合いだ。


 扉の外、廊下を風が渡る。城は大きく息をする。俺は〈偽拍〉をもう一枚重ねたい衝動を押さえた。殿下の言葉が響く——今夜だけは、何も重ねない勇気を。重ねないという選択肢は、弱さではない。見つからない強さだ。


 半分眠って、半分起きていた。その境目で、気配が“遅れて”触れた。遅れて、というのが嫌な感じだ。テンポシーフの仕業。寝息の裏拍に、針のような意志が差し込まれる。


 偽拍がからりと空回りし、針は影を掴んだまま宙を裂く。ベッドの天蓋にかすかな縫い目——“拍を縫い替える糸”が残って、すぐに霧のようにほどけた。成功でも失敗でもない、様子見の一手。次は本手で来る。


 俺は起き上がり、足音を敢えて二重にする。床板に〈偽拍〉の癖を移す。廊下側に残るのは偽物の足取り。シアンが片目を開け、口角だけで笑った。


「おやすみの顔、似合ってました」

「その台詞、寝顔を見てた人しか言っちゃいけないやつだ」

「仕事ですから」


 ささやく声が短剣の光を撫でる。冗談はここまで。俺たちは夜を、無傷で渡った。



 明け方、王城の屋根裏を鳴らす足音があった。鐘楼へ続く螺旋階段の扉が、内側から半拍遅れて閉まる音。嫌な遅れだ。テンポシーフの足運びは、足音までズラす。


 王女殿下が自ら先頭に立った。眠っていない気配はない。だが眼差しは朝一番の鐘と同じ明るさだ。


「鐘の空白は、都市の不安に直結します。——急ぎましょう」


 鐘楼は、石と木と鉄でできた巨大な楽器だ。梁は腱、綱は筋、鐘は心臓。階段の途中、壁に白いチョーク跡が残っていた。小さな丸印が三つ、そして“取扱注意”の文字。行方不明の鐘守の筆跡だ、と殿下が言う。


「鐘守は、拍にうるさい。最後まで、拍で伝えたのでしょう」


 最上段の踊り場で、空気が変わった。音が吸われる感じ。どれだけ息をしても、肺の奥で音が鳴らない。テンポシーフの“吸音罠”。音を奪われると、合図も怒号も意味を失う。


 エレーネが指を二本立てた。〈視界安定〉を自身に一度、〈感覚同期〉を俺に一度。彼女の支援は単発なのに芯が太い。俺は頷き、罠の輪郭を探る。


〈不一致強調〉


 自分の心拍と呼吸のズレを微弱に感じさせる、あの小技だ。吸音罠の中心は、梁と梁の交点に“半拍の穴”が穿ってある。誰かが鐘の強拍をそこへ落とし込めば、都市全体のリズムがぎくしゃくする。


「穴を埋めるのではなく、避ける。——ルグ殿、“間合い指定”を」


 殿下の声は吸音に削られても、意味だけが届く。俺は印を切る。


〈間合い指定〉


 “何もしない”を、正しいと身体に教える。単発? 役立たず。重ねないと効かない。でも今日は重ねない。穴の周りに薄い“しおり”を差し込むように、一枚だけ置く。そこは休む場所、叩かない場所。


 シアンが頷いた。合図一つで踊り場の端へ滑り、足音を消す。短剣は抜かない。彼女の仕事は“急所突き”だが、今日は急所を突かないのが急所だ。


 罠の向こう、鐘の影に人影が揺れた。黒衣。顔の半分を布で覆い、手には棒。拍子木だ。王都では祝祭で鳴らす合図の木。こいつらは拍そのものを盗むくせに、道具だけは縁起物を使う。


鼓手ドラマーさん、おはよう。今朝の強拍、こちらで預かる」


 黒衣の男が、遅い声で笑う。音が半拍遅れて耳に届くから、会話が変なを持つ。俺はその間を、利用する。


「預かりものは、市場の規約に従うべきだ」

「じゃ、領収は?」

「ここだ」


 殿下が半歩前へ。拍子木の男が反射的に腕を上げる。叩く。——来ない。俺の〈間合い指定〉が、“ここは叩かない”と身体に書いてある。男の肘が空中で止まり、目が裏返った。自分の身体の“正解”が、一瞬わからなくなる。


 その隙に、エレーネが杖を軽く叩いた。空気が一拍だけ固まる。魔法というより、室内楽の止め記号。


 男は飛び退く。吸音罠の穴へ、自分の拍を落として逃げ道を作るつもりだ。そこも“叩かない場所”。彼は踏み外し、梁に爪を立てて体勢を戻した。落ちない。落ちないが、追い詰められた狐の目になる。


「強拍を——返す」


 男の肩越し、鐘のロープ側に別の影。鐘守補佐の制服。肘には煤。倉庫街の痕だ。内部から“ズレ”を仕込んだ片棒。シアンが気づいた瞬間、もう動いていた。短剣は抜かず、袖を掴む。関節が一本、素直に折れる音。悲鳴は吸われて、誰にも届かない。


「補佐、確保」

「罠、解除に移る」


 エレーネが梁の上に符を散らし、穴の縁を薄く縫い戻す。俺は“何もしない場所”を一枚ずつ剥がし、正しい“叩く場所”に付け替えていく。殿下は鐘のロープを握り、視線だけで合図した。


「王都の朝は、拍一つで正しくなる。——任せて」


 鐘は、叩かないことによって、叩き方を思い出す。殿下の腕がふわりと上がり、ロープが一拍、二拍と息を吸う。三拍目、肩が落ち、四拍目——鐘が鳴った。音ではない、都市の心音が、塔の芯を通って地面へ降りていく。


 鐘楼下の広場がざわめいた。早起きのパン屋が顔を上げ、工房の親方が槌を握り、貧民街の少年が裸足で走る。音は届く。拍は戻る。


 拍子木の男は、鐘の影に溶けながら、最後に軽く木を打った。遅れ打ち。多分、置き土産の合図。どこか別の場所で、誰かがそれを聞く。


 追うべきか。シアンが視線で問う。俺は首を横に振った。罠は解けた。今追えば、鐘の余韻を乱す。


「衛兵に渡す“歩様の写し”、もう取った」

 エレーネが言って、補佐の袖から何かを抜き取る。薄い紙片。小節に切られた譜の断片。朱で“秋分祭/外輪”と書き込み。


「狙いは秋分祭。外輪って、風道の外、巡礼路ね」

「市外の拍を乱して、内へ波を寄せる気か」

「祭りは、拍でできてる。——一番おいしい日を狙ってくる」


 殿下が紙片を握り、胸の前で一度だけ叩いた。拍を、約束の形にする仕草だ。


「よろしい。予告状をいただいたようなもの。こちらも祭りを準備しましょう」



 鐘守補佐は拘束され、衛兵へ。吸音罠の残滓を片付けていると、螺旋階段の途中で足音が止まった。《赤獅子》だ。ヴァルドとジェイ。昨日より、顔が大人になっている。


「……さっきの鐘、良い音だったな」

 ヴァルドの言葉は短い。ジェイは沈黙を選んだ。沈黙は、言葉より多くを運ぶ。


「公開試験の時に言ったよね。『鍋が大きければ、薄いスープでも祝宴になる』って」

 ジェイがやっと口を開いた。

「今日は、鍋がでかかったんだな」

「鍋は王都。かき混ぜる手は多いほうがいい」

「……手伝わせろ」

 ジェイの声は、杖の先で床を軽く突く音と同じ固さだった。殿下が頷く。

「ならば、秋分祭までに“市井の拍”を整える役を。酒場、工房、巡礼路。あなたの魔法は、薄く広く効く」


 ジェイは目を泳がせ、肩を一つ落とした。自尊心の剣を鞘に収める所作。悪くない。



 鐘楼から降りた広場で、殿下が人々に短く告げた。


「鐘は戻りました。皆さまの一打で、都市は強くなる。パンを焼く人はパンを。水を汲む人は水を。今日の拍は、あなたの手に」


 拍手。音の薄い拍手が、重なって厚くなる。俺は胸の前で手を重ねかけて、止めた。重ねない勇気。今日はそれが鍵だった。


 シアンが横で、俺の手の甲を一瞬だけ指先で叩いた。半拍遅れの、合図。


「お世話、される側の番です」


「どちらかといえば、今朝は俺が世話を焼かれ……」


「そういう意味じゃありません。朝食です。食堂に戻ったら、あなたの“食事バフ”を、皆が待ってる」


 ああ、そうだ。飯は戦の続きだ。祭りの前には、台所に立つ。



 王城の厨房は、朝の小さな戦場だ。パンが膨らみ、油が笑い、スープが鍋の中で拍を刻む。俺は包丁の前に立ち、塩をほんの少しだけ高い位置から落とす。支援ではない。手癖だ。


〈消化効率:小〉〈疲労分散〉〈睡眠導入〉——重ねない。今日は薄く一枚ずつ。人に効かせるのではなく、“場”に置いていく。


 殿下がパンを千切って口に運び、目を細めた。シアンは匙を持ったまま背筋を伸ばし、エレーネはスープの湯気に顔をうずめた。


「強い優しさ、今日も有効」

「薄いスープでも、鍋が大き……」

「それ二回目ですよ、ルグ殿」

「気に入ってる比喩は重ねがちで」

「それは……可」

 シアンが珍しく微笑の許可を出した。許可制なのか、と心の中で突っ込みを入れる。


 食後、殿下が地図を広げた。王都の外輪、巡礼路、風道、祭りの会場。朱の線が増えていく。


「秋分祭まで、あと六日。テンポシーフは“外から波を作る”。わたくしたちは“内で波を受け流す”。——市井の拍を、広報と練習で整えましょう」


「練習?」

「合図です。酒場の乾杯、工房の槌、巡礼の歩み。三つを“同じ拍”に寄せる。あなたの〈間合い指定〉を薄く混ぜて」


 都市スケールの合奏。鍋は、さらに大きくなる。薄いスープは、きっと祝宴になる。


 廊下の先から、鐘守の老女が現れた。昨朝の水路の掃除人だ。皺の間に入った粉が、白い星座のように見える。


「鐘、戻ったねぇ」

「おばあさまの三歩のおかげです」

「三歩なんてね、若い人の一拍にゃ敵わんよ」

「いえ。三歩があるから、一拍に意味が宿るのです」


 老女は笑い、掌を打った。閉じた手と開いた手の間に、短い。拍が生まれる場所だ。



 その夜。俺は再び〈偽拍〉を胸裏に置いた。テンポシーフはきっと、今夜も来る。来ないなら、それはそれで進歩だ。


 重ねすぎない。止めどきを知る。空白を教える。——支援士に必要な徳目は、案外“何をしないか”に宿る。


 明日からは市井の練習が始まる。酒場の乾杯を、工房の槌を、巡礼の歩みを、同じ拍に。王都全体で〈偽拍〉を一枚、悪意から守るために。


 鐘は鳴った。都市は息をした。物語はで加速している。

 秋分祭まで、あと六日。こちらの拍で、彼らを踊らせる。

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