第4話「外縁風道、間(ま)で勝つ」
――都市の心拍が整えば、次は呼吸だ。
呼吸は風でできている。風は外縁を走る。
翌朝、王都の外壁をぐるりと取り巻く風道へ向かった。丘陵の背骨を削って作った石の回廊。等間隔に風見塔が立ち、帆のような板が角度を変えて、街へ“吸っては吐く”を送っている。結界の裏方、呼吸器官だ。
「本日より、あなたの安全管理は侍女騎士の私が担当します」
すらりとした黒髪の女が、馬を並べてきた。白のエプロンドレスに軽装の鎧。腰の短剣はよく研がれている。
「侍女騎士、シアン。殿下付き。仕事は“お世話”と“急所突き”の二刀流」
「最後のが怖い」
「味方には優しい類の急所突きです」
微笑むと、視線が鋭いまま柔らいだ。なるほど、侍女と騎士が同居するとこうなるのか。
「学術担当は据え置き、宮廷魔術師エレーネ」
当人は眠たげな目で手を振る。「おはよう。昨夜三時間寝た、天才は寝る」
「寝不足自慢の逆張り、やめてください」
「冗談で緊張をほぐしたいの。ほら、肩が上がってる」
シアンが俺の背から余分な荷気が抜けるように、甲冑のストラップを一段緩めた。触れ方が上手い。支援の“入り”が良くなる触れ方だ。
風は西から東へ。丘陵の陰で一段きつくなる。風見塔の帆が二基、妙な角度で止まっていた。
「固定ピンが意図的に削られてる」
シアンが指先で金具を撫で、すすを見せる。「火で炙って脆くしてから、夜のうちにへし折り」
「外から押す連中、今度は風で内圧を上げる気ね」
エレーネが塔基礎の符を読み取り、眉をひそめる。「拍を“引き延ばす”魔方陣の痕。昨夜の倉庫街の物と同じサイン」
外縁一帯に、見えない指がかかっている。都市の胸郭を、外から変なリズムで締め付ける指だ。
「直す。――ルグ殿、風は速さより“間”です」
殿下がいたら言いそうな台詞を、シアンが代わりに言った。
「了解。“空白を指示するバフ”でいきます」
俺は塔の根元に手を置き、印を切る。
〈視界安定〉〈感覚同期〉〈遅延:微〉
一巡で、帆の揺れの“谷”が強調される。ここに合わせて……
〈間合い指定〉
俺の支援の中でも、地味で使いづらい“空白”系。効果は「この半拍、何もしないが正解」と身体に教えるだけ。単発ならほぼ無意味。だが、風は休符でできている。
〈間合い指定〉×2、×3。
帆の暴れが、半拍遅れて自ら収まる。金具が悲鳴をやめ、石の回廊の振動が喉越しのいい水みたいに滑らかになった。
「いい“待ち”だわ」
エレーネの声が低く落ちる。「動かすより、止めどきを教える。昨日の過制御ラインぎりぎりで止めた癖が、もう手に入ってる」
風見塔は十基。二基目、三基目——同じ処置で整う。だが四基目の根元で、指先が痺れた。昨日と同じ、粗悪な“外からの押し返し”。
〈命中補正〉を細く通し、押し返しの“毛細管”を探る。方角、北北東。丘陵を回り込んだ林の縁から、微弱なズレ鐘の音がした。耳ではなく、足裏で聞く類の音。
「来客だね」
エレーネが杖を回す。シアンはすでに馬を塔に結び、短剣を抜いていた。
「ルグ殿はここで“間”を維持して。風は崩さない。私が行く」
「一人で?」
「二人よ。あなたの“空白”が、私の踏み込みの時間になる」
言いながら、彼女は走った。動きに無駄がない。侍女の静けさで距離を詰め、騎士の速度で刃を繰り出す。
林の縁で金属が触れる小さな音。悲鳴が一拍遅れて風に乗る。ほどなくシアンが戻ってきた。肩口に薄い切り傷。
「ズレ鐘二名、無力化。装置は自壊符で灰。……ごめんなさい、片方逃した」
「逃げの方向は?」
「北門側」
つまり、昨夜の連中と同じ巣に帰る。しつこい拍だ。
「応急手当を」
俺はシアンの肩に手を添え、支援を重ねる。
〈痛覚遅延:微〉〈凝血促進:小〉〈清浄〉
「熱を上げないで、呼吸は四拍」
「はあ……なるほど。これが“お世話される側”の気分」
「悪くないだろ」
「少し好き」
さらりと落とす言葉が、風より冷静で危険だ。心拍のメトロノームが一瞬跳ねる。――危ないのは急所突きだけじゃなかった。
残る六基を終えた頃、丘上の空が白く霞んだ。砂塵の上がる音。遠巻きに黒い点が移動してくる。
「商隊?」
「違う。風の“谷”に合わせて動いてる。素人じゃない」
エレーネが唇を引く。「あの歩み、テンポ泥棒。“他人の拍を盗む”組織の歩様よ」
名乗りが嫌に洒落ているが、やっていることは最悪だ。
「対処は?」
「奪われる前に“余白”を先にこちらが配る。盗む拍がなくなる」
俺は呼吸を整え、風道全体に支援を散らす。
〈間合い指定〉〈間合い指定〉〈間合い指定〉
立っている人間すべてに届くほどの広がりはない。だから、風見塔と塔の“間”に置く。空白の帯。そこを通る足は、必ず半拍引っかかる。
列の先頭がわずかにつんのめった。黒衣の男が顔を上げ、こちらを睨む。目許だけが笑っている。
「王都の新しい鼓手さん。――拍を返してもらいに来た」
声は奇妙に遅れて届く。周波数をずらしている。
「返す拍は持っていない。買うなら市場へどうぞ」
「売り切れてるから盗りに来たんだよ」
軽口を返し合ううちに、風が一段強くなった。彼らは“風の強拍”に合わせて脚力を上げ、空白帯を跳び越えようとする。
「跳ばせない」
俺は新しい支援を試す。昨日、結界柱で得た感覚を人に流用する。
〈不一致強調〉
身体の中の二つのメトロノーム――呼吸と心拍――の、わずかなズレを“感じさせる”だけの小技。単発では気持ち悪いだけ。だが、空白帯と合わせると、跳び越えの踏切が狂う。
黒衣の先頭が、足を取られた。一拍遅れる。シアンがそこへ差し込む。短剣の銀が、彼の手の“合図指”を軽くなぞり、力を抜かせた。刃は血を吸わない。職人の剃刀みたいに仕事だけする。
「合図役、無力化」
「後衛、散開」
エレーネの杖が低く鳴り、地面に薄い紋が走る。足裏の摩擦係数が突然“正直”になった。偽の踏ん張りが利かない。テンポシーフの隊列が崩れる。
男たちは撤退の合図をかわし、風の谷へ逃げ散った。追える距離だ。だが——
「追わない」
口が先に言った。シアンがこちらを見る。
「理由を」
「外縁の拍を崩したくない。ここで追えば、今日整えた呼吸が乱れる。彼らは“乱れ”が好きだ」
「賛成。王都は今日、呼吸を覚えた。初日の肺には静養がいる」
エレーネが頷く。「衛兵に渡す“歩様の写し”は取った。明日、門で合うわ」
風が一段落ち、空が硬質な青に戻る。帆が同じ音を立て、塔が同じ影を落とす。都市の呼吸が、いい。
◇
帰路、丘の上で少しだけ休んだ。草いきれと、麦の匂い。王都は遠く近く、鍋の蓋のように光る。
「……ルグ殿」
シアンが声を落とした。「先ほどの“お世話される側の気分”、本当に少し好きでした」
「業務に支障が出る発言は控えめに」
「支障は出しません。むしろ効率が上がります。人は大事にされると、拍が揃う」
言い切ってから、すっと顔を逸らす。頬に血は登っていない。侍女騎士は照れを筋肉で隠すらしい。
エレーネが肘で俺の脇腹を小突く。
「人気者。王都は“奪い合い”が資源配分の基本だもの」
「あなたも奪いに来る側?」
「私は研究成果を。あなたは実験台を。持ちつ持たれつ」
言いながら、彼女はさらりと袖を捲り、俺の手首に軽く触れた。
「ほら、拍。あなたの個人拍、盗み見されたくないなら、今夜から“偽拍”を一枚重ねて寝なさい」
「偽拍?」
「寝息のリズムを半拍ずらして固定する。テンポシーフは寝息から侵入することがある」
「侵入手段が気持ち悪すぎる」
「現実はたいてい気持ち悪いのよ。だから物語が要る」
◇
王城へ戻ると、殿下が待っていた。廊下の光が金糸に宿る。
「外縁、整った?」
「はい。風は今日、良い息でした」
「よかった。……それと、もう一つ報せが」
殿下の表情が引き締まる。
「北東区の“拍ずらし”の件、捜査の手が内部に伸びた。——城内の鐘守一名が行方不明」
鐘守。都市の心拍の番人だ。血が逆流する感覚。
「内部にテンポシーフの手がある、ということですか」
「確証はない。けれど、拍を知る者が消えた。これは、次の“崩し”の前触れ」
殿下は視線を俺に置いた。
「ルグ。あなたの仕事は、支援を重ねること。けれど今夜だけは、何も重ねない勇気を持って。拍を隠す。眠りを守る。明日、鐘楼へ」
了解、と答える前に、胸の奥が一拍空いた。
重ねないことが、最強の支援になる夜がある。
都市は息を整え、物語は間で加速する。
寝息の偽拍を覚えるのは、悪くない課題だ。
夜が来る。王都は眠るふりをして、耳を澄ます。
鐘の抜けた拍、誰が埋める? 明日の朝が、答えを鳴らす。