第28話「巡帳、中央の紙に丸を教える」
――巡るのは足ばかりじゃない。
帳も巡り、礼も巡り、丸も巡って戻ってくる。戻るけど、帰るのとは違う。
朝。継所の屋根に夜露が残り、渡鈴は低・高で薄く息をしている。
今日は「巡帳」——帳と道の見回り。会所・倉庫・市場・寺院跡・四隅の道標、そして遠橋。丸で閉じるか、欄外に追いやるか、脚注で呼吸しているか。さらに、規格師との交渉が待っている。中央の紙に、こちらの四拍を憶えさせる。
「編成、二筋」
殿下が木さじを帯に挿し、短く示す。
A班:俺・シアン・蔵守・返輪師。会所→市場→北塔→倉庫。
B班:殿下・エレーネ・環名師・パズ。寺院跡→南西→投函箱群→遠橋。
鐘守は連絡役、無音礼で合図。零を厚めに。
シアンは白手袋を締め、半拍遅れて俺を見る。危ない合図は甘い合図に似ている。けれど、今日は交渉。甘さは後でいい。
◇
会所。帳の背は昨日よりさらに立っていた。丸で閉じた見出しはゆっくり呼吸し、脚注の由来は夜露でふくらんだ分だけ意味が増えている。
蔵守が一冊めくり、真正印の濃さを光に透かす。半拍遅れの層がきちんと見える。
そこへ、最初の上書き。名上書師の細帯が掲示に滑り込み、〈“丸”の乱用をやめよう〉と白い字。
「輪郭、先」
俺は名留膠を三で置き、四で返すで見出し「帳の輪郭」の線を太くする。
シアンが白手袋で一の形を示し、蔵守が丸の定義を短く脚注へ落とした。
〈丸=返礼の栓。三を通して四で閉じる“口”。濫造は不可。〉
白い帯は脚注に落ち、見出しは揺れない。
「巡るぞ」
短く言って、次の地点へ移る。
◇
市場。帳場の端で、耳に白糸のアダが客の名を見出しに据え、丸で閉じ、三で置くをすばやく通している。
若い衆が一人、番号先頭の伝票を出した。癖は頑固だ。
返輪師が紐を軽く一撫で、伝票の角を四の直前で抜く。
「欄外」と蔵守が指だけで示し、若い衆は番号を左下へ移す。
真正印が濃く出た。
「早いほうが気持ちいい?」
俺が聞くと、若い衆は照れて笑った。
「遅いけど倒れないほうが楽です。……倒れると、全部やり直しなので」
実務の正しさは、だいたい怠惰に近い。怠惰は礼の友達だ。
その時、屋台の陰でひゅっと薄い風。漂白師の研修生が、丸の上に消し霧をかけかけて止まった。
「灯印と間違えやすい」
シアンが研修生の手首をやさしく支え、丸と灯印の距離を指で示す。
〈丸=返礼の口/灯印=しまう灯〉
研修生は零を置き、頷いて霧を引っ込めた。止まれる人は、戻れる。
◇
北塔通り。名の道標の影矢印は健在だ。角の投函箱で、規格師の貼り紙が新たに見える。
〈“仮成立”の容認(試行)〉
紙は但し書きの形で、三を迂回しようとしている。
「丸で閉じる」
俺は貼り紙の末尾に句点を一つ、三で置き、四で返すで落とす。
蔵守が脚注に条文の引用を短く記す。〈置く前の返却は無効〉
返輪師が貼り紙の角を四の直前で抜き、脚注へ落とす。
そこへ、本人が来た。肩章の規格師。今日は二名。
「中央は急ぐ」
一人が乾いて言う。「二と三を合同し、返すを自動化したい」
自動化。嫌いではない。だが順序を潰す自動は泥だ。
「合同は不可」
蔵守が即答し、板に小さく描く。
〈一=名呼び/二=胸ひらき/三=置く/四=返す〉
「二は声ではない。形。三は席。これを合同すると、席が消える」
規格師が眉を動かす。「中央は例外で回す」
例外。文匠の禁句が、別の制服を着ている。
俺は深く零を通し、一を小さく置いて言う。
「例外は席で受ける。文に入れない。五の席は常在」
規格師は口を閉じ、貼り紙を丸めた。「確認した」。
去る背中に、遅延の癖。律祖庁の匂いが濃くなる。覚えておく。
◇
倉庫。高い棚。数字は整然、名は息を取り戻してきた。
目録師の中堅が迎え、照合の実地を見せる。
名→行き先→置く→返印。番号は欄外。返済番号は脚注の脚注。
そこへ、鼓手長。仮面、太鼓なし、粉なし。今日は見学と約束済み。
「倉庫の注目は難しい」
仮面越しの声は遅れない。「均すと早いが、返らない」
「見せ札を流す」
蔵守が答え、二枚複写の一枚目を掲げる。「真正は後打ちで棚に残る」
仮面の穴が細くなる。「熱は半分、温度は全部、だな」
彼の言い方はいつも音楽寄りだが、今日は実務に寄っている。止まれる者は、戻れる。
その時、棚上でぺた。名上書の横断幕。
〈“欄外”は“無視欄”〉
字面で殴ってくる。
返輪師が紐を四の直前で抜き、幕を脚注へ落とす。
俺は欄外の角に小さく矢印を描く。〈欄外=従の舞台〉
リザ(名塗り師)が刷毛で見出しの輪郭を撫で、文字の毒を落とす。
棚の温度が一度、上がった。
◇
一方、B班。寺院跡からの報せが無音礼で届く。
——遠橋の基礎に中央印の札。〈“中央運用・先頭番号”を優先〉
殿下の返答は短い。〈遠橋=礼順優先〉
屋根返し・形版で高低二度の告示。半拍遅れで真正印。
中央の札は脚注に落ちた。
パズの紐旗は、ひらりと零を描いた。良い筆記だ。
◇
午後。A班とB班は広場で合流。今日は公開巡帳——町全体の前で、良い帳と悪い帳を並べて見せる。
「悪い帳」はわざわざ作った見本。番号先頭、三抜き、丸不在、由来なし。
「良い帳」は昨日までの標準。名見出し(丸)/本文=三で置かれた事実/四で返印/由来=脚注/番号=欄外。
殿下が木さじを水平に置き、二冊を並置する。
群衆の視線が自然に右(良い)へ滑る。視線の道標は、丸と脚注と欄外で作れる。
そこへ、規格師が中央の印璽を携えて現れた。
「中央標準 合意のための“折衷案”」
彼は紙を差し出す。
〈二と三の“準合同”:“置く”を“背面処理”とし、帳面上は“返す”のみ明記〉
背面処理。紙の裏でやるから、三が見えない。
俺は紙の裏を指で示し、零を通してから言う。
「見えない三は無い三だ。席は見える必要がある」
蔵守が補う。「四拍は、理解ではなく合図。見えない合図は集合しない」
規格師は沈黙し、鼓手長が仮面の奥でわずかに笑った。
「紙の裏で拍は鳴らない」
殿下が締める。「三は条文の心臓。準合同は心臓を外に置く。——不採用」
中央印の紙は、脚注に落ちた。合意は見出し側で取る。
◇
巡帳は続く。寺院跡で亡帳の閲覧。灯印は薄青で静か、長由来札がよく息をする。
喪名師が来て、粉の袋を閉じたまま零を置く。
「均しは席の外まで」
彼の言葉は、今日、完全に街の言葉になっていた。
漂白師の研修生が灯だけ落とす所作を復唱し、環名師は検印輪を三にだけ落とす手を見せる。
返輪師は仮綴の抜き方を年寄りに教え、年寄りは零の置き方を返輪師に教えた。交換は礼だ。
◇
夕刻。遠橋で混線試験。王都から中央使が細い橋を渡って来る。肩章は規格師と同じ形だが、顔つきは柔らかい。
「見せてください」
彼はまず零を置いた。礼を知っている。
殿下が四拍を通して、束返礼の流れを示す。
一で名乗り、二で笑い、三で置く、四で返す——半拍遅れ。
使はうなずき、持参の紙の句点を指で叩いた。
「丸は、中央でも句点です。……意味が違った」
「返礼の栓だ」
俺が言う。
「栓を抜くのは見せ札で、閉じるのは真正」
使はしばらく黙り、やがて丸の右に小さく脚注符を描いた。
〈地方礼準拠(四拍)〉
紙がこちら側に一歩、寄った。
◇
広場に戻ると、最後の上書き。
〈“礼”は“形骸化”する〉
ありがちな煽り文句。
シアンが白手袋で二の胸ひらきを形で示し、蔵守が由来札に一行。
〈礼=“返せる形”。形骸は“返せない形”。〉
返輪師が幕の角を四の直前で抜き、環名師が三にだけ輪を落とす。
幕は脚注へ落ち、見出しには短く強い語が残った。
〈礼は返路〉
◇
継所に戻って読み合わせと指標。パズが声を整えて読む。
巡帳 行程:会所→市場→北塔→倉庫→寺院跡→遠橋(全ルート巡回)
丸の健全度:点検 63/消し霧介入 5 → 香輪・指導で回復 5
番号先頭 是正:市場・倉庫 19/欄外化 19
“仮成立”介入:貼り紙 7 → 脚注化 7/条文引用 7
上書き介入:帯・幕 9 → 脚注化 9
遠橋 立会:中央使 1/地方礼準拠 注記 1
参加(見学含む):338/形だけ名乗れた 279(82.5%)/零習得 214(63.3%)
「温度、巡れる」
殿下がパンを二で笑いながら割り、三で置き、四で返す。
「明日は**“記まい(しまい)と始め”——月の区切りの総返礼**。帳を丸で閉じ、新しい見出しを置く。中央がまた紙を持って来る。今度は**律祖**本人が名だけ寄越すだろう」
「名は来る?」
エレーネが眠たげに訊く。
「来させる。——返せる名として」
俺は胸の裏に〈偽拍〉を一枚。重ねない。
「零を厚く、一を小さく。二は形、三は席、四は返礼。丸で閉じ、脚注で息、欄外で整える」
シアンが白手袋の糸を半寸切り、目で笑う。
「今日のあなた、丸で小突くので、やっぱりずるい」
「業務に支障」
「支障は出さない。強くなる寄り方だけ、覚えました」
渡鈴は鳴らずに鳴り、巡った帳の背が揃って立つ。
名は火でも水でもない。帰る温度で、巡路だ。
零で息。一で名乗り。二で笑い。三で置き。四で返す。五で忘れた者に席を置く。
数字は欄外、由来は脚注、輪郭は骨。
盗む拍は、やはりどこにもない。