第26話「名の格納、屋根の下で灯を消す」
――亡くなった名は、呼び戻さない。
けれど、置きっぱなしにもしておかない。
灯を消して、屋根の下で、席にしまう。そういう“格納”が要る。
朝。寺院跡の石は冷えて、空は薄い白。掲示板の丸は息をし、由来脚注は夜露でふくらんでいた。
今日は「名の格納」。死者の名を生きている名と同じ帳に置かないための術を街に通す。王都式の〈屋根返し・追悼版〉と、由来札の長文化も実装する。数字は欄外。丸で閉じる。呼んではいけない名は、呼ばない——けれど置く。
「段取りは三段」
蔵守が巻物を開き、細い印を指で叩く。
一、格納帳の作成(生帳と亡帳を分ける。見出し=名はどちらも丸で閉じるが、亡帳は灯印を付す)。
二、屋根返し・追悼版(高所で受領のみ。返礼は影で行い、声は使わない)。
三、長由来札(二行以上。生前の来歴と、置き場の説明を併記)。
鐘守は鍵束を胸の内へ、殿下は木さじを帯に挿し、エレーネは低い香の袋。パズは紐旗を黒布で包み、ジェイは泡立て器にまたラベルを貼る——「灯消泡」。やめろと言っても、従は働き者だ。
シアンは白手袋を締め、半拍遅れて俺を見る。危ない合図は甘い合図に似ている。だが今日は、甘い前に静けさだ。
◇
最初の格納は、河端の小さな家。昨夜亡くなった老書き手の名を生帳から亡帳へ移す。
家の戸口に布の格納席を二脚。五の席も一脚、近くに。渡鈴は低・高で影だけ濃く据え、灯は置かない。
家族は零で息を厚く置き、一は形だけ。顎半寸、親指ひらく、目尻紙一枚。二は胸の内側で静かにひらく。三で名の影を格納席へ置く。
蔵守が格納帳(亡)を開く。見出し「ホウ。」丸で閉じ、右肩に小さな灯印。
四で返すのは、声ではなく影礼。胸に手を当て、半拍遅れでもう一度。渡鈴が鳴らずに鳴る。真正印は墨色ではなく、淡い灰で出る——追悼版の印だ。
「長由来、二行」
俺は筆を受け取り、三で置き、四で返すの所作で書き入れる。
〈筆写工。葦町の古文を写し、丸で閉じるの作法を広めた。
置き場:寺院跡・屋根下の亡棚。〉
“置き場”は地図ではない。席の説明だ。帰れない名の居場所。
家族の目が湿る。エレーネが低い香で痛みを席に移す。殿下は木さじを水平に置いてわずかに頭を垂れ、言葉を選ぶ。
「呼ばない。——置く。戻らず、帰らず、在る」
言葉は短く、温度は長い。
◇
午後のための試験を兼ねて、屋根返し・追悼版の準備。
市鼓の二人が屋根に“形”で昇り、渡鈴を高に一つ、低に一つ。高は受領のみ、低は影の返礼のみ。
「手順確認」
殿下が短く通す。「零で息、一は形だけ。二は胸を内へ。三で名を亡棚へ置く。四は影で返す。——声は使わない」
そこへ、路地の影から黒衣の男。布の縁に白糸。名乗らない。喪名師だ。死者の名から響きだけを抜いて“共用の形”に均し、個人の温度を消す職。
「均すのが礼だ」
喪名師は乾いた声で言う。「残ると、喪が私物化される」
「均すのは形まで。由来は均さない」
蔵守が長由来札を掲げた。「骨=古名/筋=通称/置き場。——これを残すと、喪は席になる」
喪名師は眉をわずかに動かし、「——試す」とだけ言った。
彼は灯消しの粉を取り出し、亡棚に均し粉を撒こうとする。粉は悪ではない。だが由来も置き場も削る。
ジェイが泡立て器をきゅっと握り、「灯消泡」を亡棚の端に一瞬立てた。泡は刹那、灯の位置だけ縁を作る。粉は縁で弾かれ、由来札にかからない。
「均しは席の外まで」
殿下が静かに告げる。「席の中は、由来の濃淡が在る」
喪名師は粉を収め、亡棚の前で零をひとつ置いた。止まれた。戻れるだろう。たぶん。
◇
昼、会所で格納帳の仕様を詰める。
書記頭と目録師の中堅、名塗り師のリザ、環名師、返輪師(元鎖名師)もいる。
仕様は短く、輪郭は厚く。
— 生帳:見出し=名(丸で閉じる)。本文に三で置かれた事実、末尾に四で返印。由来=脚注。番号=欄外。
— 亡帳:見出し=名(丸+灯印)。本文に置き場と最終返礼日。返印=灰色。由来=長脚注(二行以上)。番号=欄外。
— 混在禁止:同一冊に生亡を混ぜない。複写は見せ札=生/真正=亡のような交差運用を不可。
— 屋根返し・追悼版:高=受領、低=影返礼。声を禁ず。“……”禁句の徹底。
目録師の中堅が手を挙げる。「照合に追悼番号が要る」
「欄外の脚注に小さく」
殿下は迷わない。「一に置かない。三を通してから欄外に返済番号。——順序が濃さを決める」
「灯印の色は?」
リザが刷毛を少し傾ける。
「薄青」
エレーネが答えた。「冷えすぎず、息が見える色」
決まりだ。骨に色を塗るのではなく、灯の位置を忘れないための薄い色。
◇
午後。屋根返し・追悼版の公開。
屋根:市鼓と返輪師。地上:家族代表、通り代表。渡鈴は高に一つ、低に一つ。
殿下が木さじを水平に置く。「零で息、一は形だけ。二は内。三で置く。四は影」
人々は声を飲み込んだまま、形で拍を通す。真正印は灰色で静かに出る。
それだけで、広場の温度が一度上がる。不思議なことに、声を使わない式のほうが、温度はよく残る。
式の途中、名上書師の紙鳶が高く滑り込み、〈“追悼の集い”→“慰霊イベント”〉の文字。字面は悪くない。だが返せない。席に降りない語。
俺は名留膠の刷毛を三で置き、四で返すで、掲示の見出しに「追悼」の輪郭を太く描く。紙鳶は脚注に落ち、イベントは従へ。
ジェイの灯消泡が紙鳶の角を一瞬だけやわらげ、風がいい向きへ運ぶ。
リザが刷毛を収め、「脚注が多い日は、骨が見える」とぽつり。うん、今日の骨ははっきりしている。
◇
格納は続く。
市場の万の店から、祖父の名「栄作」を亡帳へ。由来長札に〈鉤打ちの名手/“黒車”の初代〉。
門番の男は番号名の記憶を亡帳に“置く”。番号は名ではないが、痛みの由来だ。脚注に残し、欄外に追いやらない。
ロウは道筋の古い呼称「狢道」を地名の亡帳へ。道にも生と亡がある。置き場は夜席棚の地図面。
それぞれ、灰の真正印がやさしく出る。
そこへ、漂白師がそっと近寄り、低い声。
「薄める仕事しか知らなかった。……色を抜かずに灯だけ落とす方法、教えて」
殿下が頷く。「由来を触らない。席の輪郭を触る。——灯印の使い方を覚えて」
漂白師は瓶をしまい、零を置いてから学びの席に座った。止まれる者は、戻れる。
◇
夕刻。帳合わせ・追悼版。
寺院跡に長机。生帳と亡帳を分けて並べ、起票→格納→返印の流れを静かに回す。
パズが紐旗を黒布のまま零の合図に使い、俺が一の形の見本、蔵守が三で置くの検収、鐘守が四の影返礼の印を押す。
**文匠が近寄り、「“概ね”**を——」と言いかけて、自分で口を閉じた。丸で、静かに。止まれた。戻れる。たぶん。
最後の起票は——鼓手長だった。仮面、太鼓なし、粉なし。手に小さな鈴。
「注目の格納は、どうする?」
仮面越しの声は、今日だけは遅れない。
「置く。二重領収で」
殿下が返す。「見せ札の注目は流す。真正の温度は、亡棚で守る」
鼓手長は鈴を鳴らさず掲げ、零→一(形)→二(内)→三(置く)→四(影)を不器用に通した。灰の真正印が、はっきりと出た。
「……退く」
仮面は一度だけ下がり、そのまま夜に溶けた。今日の彼は、遅れなかった。礼は不思議に、上手を黙らせる。
◇
夜。読み合わせと指標。パズが静かに読み上げる。
格納帳(亡) 新規作成:18冊(家 12/店 4/地名 2)
屋根返し・追悼版 公開式:実施 3/声使用 0/逆走 0/三抜け 0
長由来札 設置:27枚(平均 2.8行)
喪名師介入:1 → 席内不介入 合意
上書き介入:2 → 脚注化 2
漂白師合流(研修):1
参加 244/形だけ名乗れた 201(82.3%)/零習得 168(68.9%)
「温度、しまえた」
殿下がパンを二で笑いではなく内でひらき、三で静かに置き、四で影の返礼。
「明日は**“名の継所”——生帳と亡帳のあいだに立つ番人(見習い)を育てる。返輪師と環名師**に講義を頼む。鼓手長は……来てもいい。二の遅延は禁止、丸は壊さない約束で」
「亡棚は増やす?」
エレーネが低く訊く。
「増やさない。厚くする。——席は数より輪郭」
俺は胸の裏に〈偽拍〉を一枚。重ねない。
「呼ばないで置く。戻らずに在る。丸で閉じ、由来で息をさせる」
シアンが白手袋の糸を半寸切り、目で笑う。
「今日のあなた、沈黙で殴るので、やっぱりずるい」
「業務に支障」
「支障は出さない。強くなる寄り方だけ、覚えました」
渡鈴は鳴らずに鳴り、屋根の下の亡棚が静かに呼吸する。
名は火でも水でもない。在る温度で、しまいだ。
零で息。一は形だけ。二は胸の内。三で置き。四は影の返礼。五で忘れた者に席を置く。
数字は欄外、由来は脚注、輪郭は骨。
盗む拍は、今日もどこにもない。