第23話「名の往来、帰るという作法」
――“戻る”は地点の話、“帰る”は礼の話。
同じ場所に着いても、温度が違えば、それは別の旅だ。
朝。広場の影はまだ冷たく、渡鈴は低・高で浅く息をしている。
今日は「名の往来」。昨日の引継ぎが“行き”なら、今日は帰りを整える。借り名、仮名、通称——返せるものは全部返し、返さないと決めた通称には返路を付ける。数字は欄外。順序はいつも通り。
「往来の標準式はこう」
蔵守が巻物をめくる。
〈零で息/一で名乗り(受け手→元の主)/二で笑い(借りた側が先)/三で置く(借り名の影を席へ)/四で返す(主が受領→半拍遅れで返礼)〉
「遠橋を跨ぐ場合は屋根返し・形版併用。番号は従で欄外、返済番号は脚注」
「午前は往来市、午後は“遠橋返礼”の公開。鎖名師への“返す仕事”の見本も入れる」
殿下は木さじを帯に差し、短く続けた。「零は厚め。一は小さくていい」
シアンは白手袋を締め、半拍遅れて俺を見る。危ない合図は甘い合図に似ている。が、今日は帰る日。礼が先だ。
◇
往来市の最初の列は、仮名の返却。
戦時に付けた避難名、税年に乗り切るための世帯通称、匿名の仕事明けの名……返したいけど怖い名が並ぶ。
布の席を四脚、五の席を二脚。渡鈴を低・高に一対。鐘守は鍵束を打たずに撫で、蔵守は名預り帳—往来版を開く(欄が借り主→本主の順)。
先頭は、耳に白糸の女。避難年に使った「サビ」を返すという。
「零で息」
俺は胸の前で薄く合図を置き、女は顎を半寸、親指をひらき、一で名乗る。「……アダ」
二で笑い(借りた側=本人が先)、三で皿の上に**“サビ”の影を置く**。渡鈴の影がふくらみ、四で胸に手。俺が半拍遅れてもう一度。
真正印が二枚、濃く出て、仮名は脚注に落ちた。返せる通称の形になった。
「仮名の筋が残るのが怖い?」
エレーネが眠たげに訊く。
「輪郭があれば迷わない」
蔵守が脚注の上に透明の名留膠を薄く引く。「本名=見出し/通称=脚注/番号=欄外。三層が安定」
次は、街道案内のロウ。彼は道で使った路名「スミレ前」を返したい。
零→一の形が上手くなっている。二で笑いはまだぎこちないが、三で置くの手が軽い。
四で“路名の持ち主たち”(角の住人代表)が受領し、半拍遅れで返礼。看板に脚注として「スミレ前(旧通称)」が残り、返路が見える。
戻らずに、帰る。それが往来。
◇
そこへ、名目録師の中堅が帳面を抱えて来た。
〈返済番号の先頭置きで統一したい〉——喉の奥が、効率の言葉で乾いている。
「一に番号は置かない」
殿下は即答。「一=名呼び、二=笑い、三=置く、四=返す。番号は脚注の脚注。返済番号は返礼が成立してから小さく記す」
中堅は渋い顔のまま、往来版の紙を覗いて、真正印の濃さに少し目を丸くした。印は礼に従う。順序が濃さを決める。
「……倉庫の照合が遅くなる」
「遅いけど、倒れない」
俺が笑い、シアンが白手袋で三を描いて帳面を席に置く。四で返す。
中堅はようやく肩を落とした。「……承知」
◇
昼の鐘。寺院跡で「遠橋返礼」の準備。
屋根の渡鈴と地上の渡鈴を上下結びにし、王都へ細い遠橋を立てる。今日はミレイから王都へ“借り名の束”を返す。王都からは礼の受領だけ。戻すのではない。帰らせる。
パズと市鼓が屋根で位置を取り、鐘守が打たずに拍を通す。蔵守は名預り帳—遠橋版を開き、欄を地上→屋根→遠橋の順に切っている。
最初の束は、避難年の家族通称。地上の五人が一で名乗り、二で胸をひらき、三で通称の影を席に置く。
屋根で受領(四の前打ち)、半拍遅れで地上へ返礼。遠橋の向こうで、王都の渡鈴が鳴らずに鳴るのが胸骨で分かる。受け取りの真正印が後打ちで濃く出る。
橋は音ではなく、順序で鳴る。
列の中程で、鎖名師が現れた。昨日の黒環の男だ。今日は環を持っていない。代わりに、綴じ紐。
「仕事を、変える」
彼は静かに言い、紐を三で席に置く。
「鎖ではなく綴じ。返すための仮綴じ。四の前に抜ける」
殿下の目が少し笑った。「ようこそ、返輪師」
鎖名師——いや、元鎖名師は頷き、二で笑いを小さく作った。不器用で良い。零は完璧だ。
◇
午後の前半は順調だったが、広場の南から白い風。紙ではない、粉でもない。名漂白師。
彼らは名を盗まない。色を抜いて“どこにでもある名”にする。通称を一般名詞へ落として、帰る道を薄める。
漂白師の女が小瓶を振り、〈返流〉の札に薄霧をかける。文字は読める。だが温度が落ちる。
「由来札」
蔵守が即座に小さな札束を出す。名の来歴を一行で刻む札だ。
俺は返礼の席の脇に由来札を三で置き、四で返す。“サビ=避難年の皿洗いの名(返済済)”“スミレ前=角の庭の花から(脚注)”……色は字ではなく由来に宿る。
漂白の霧は由来に弱い。物語は薄まらない。女は瓶を下げ、五の席を一瞥して去った。止まれた。戻れるかは、明日だ。
◇
夕方。往来の締めは、王都への束返礼。
地上:ミレイ代表。屋根:市鼓と返輪師。遠橋の向こう:王都の蔵守補と鐘守補。
殿下が木さじを水平に置き、零を一つ長く通す。
「一で名乗り、二で笑い、三で置く、四で返す。——半拍遅れ」
束は置かれ、王都で受領され、返礼が半拍遅れてミレイへ戻る。渡鈴が鳴らずに鳴り、広場の温度が二度、上がる。
戻らずに、帰った。往来は、こうして街の背骨になる。
見物の端に、鼓手長。仮面の穴が長く細く、今日は帳も鈴もない。
「第三拍は結局、通すのだな」
仮面越しの声は遅れて笑う。「置く前に返すのは無効。零がある限り、一の先乗りも滑る。……退屈だが、破りがいが出てきた」
「破らなくていい。演じればいい」
殿下がまっすぐ返す。「遅延で遊ぶなら、“二で笑い”に乗って」
鼓手長は仮面を半寸下げ、「……研究する」とだけ言って消えた。止まれる者は、戻れる——たぶん。
◇
夜。寺院跡で読み合わせと集計。パズが声を張る(張り過ぎない)。
往来 市(仮名返却):受付 137/返却成立 137(真正印 100%)
遠橋返礼(王都⇄ミレイ):束 3/後打ち真正印 3/屋根返し・形版 3/3
鎖介入 0(返輪師 合流 1)
漂白介入 4 → 由来札で再着色 4
番号先頭置き 是正 19/19(返済番号は脚注)
参加 302/形だけ名乗れた 245(81.1%)/零習得 188(62.3%)
「温度、帰った」
殿下がパンを二で笑いながら割り、三で置き、四で返す。
「明日は**“名の縫合”。漂白で薄くなった古名と新名を二重領収で縫い直す**。由来札の拡張、遠橋の片道稼働テストもやる」
「縫合は痛い?」
エレーネが眠たげに訊く。
「零を厚く、五の席を近くに。痛みは席で受け止める」
俺は胸の裏に〈偽拍〉を一枚。重ねない。
「戻らずに、帰る。それを街の癖にする」
シアンが白手袋の糸を半寸切り、目で笑う。
「今日のあなた、帰路で殴るので、やっぱりずるい」
「業務に支障」
「支障は出さない。強くなる寄り方だけ、覚えました」
渡鈴は鳴らずに鳴り、往来の道が温度で太くなる。
名は火でも水でもない。帰る温度で、背骨だ。
零で息、一で名乗り、二で笑い、三で置き、四で返す。五で忘れた者に席を置く。
数字は欄外、由来は脚注、輪郭は骨。
盗む拍は、やはりどこにもない。