第22話「名の引継、鎖をほどく手順」
――渡すのは“物”じゃない。
人から人へ、店から店へ、温度を落とさず運ぶ術。それを“引継”と呼ぶ。
朝。広場の掲示板には昨日の条文が短く太く貼られ、但し書きの影はない。渡鈴は低・高で息を揃え、夜席の布椅子は畳まれて端に置かれている。今日は「名の引継」——店から店、家から家へ名を“渡す”実務の日だ。数字は伝票の隅に従として残すが、主役はあくまで名。
蔵守が巻物を開く。
〈引継の四拍・標準式〉
零で息。一で名乗り(渡し手→受け手)/二で笑い(双方)/三で置く(“名”の影を席に置く)/四で返す(二重領収)。番号は欄外、最後に小さく。
「午前は引継路を一本通す。市場東のパン屋“アダ”から、北塔の茶舗“ゼフィ”、そこから寺院跡の“夜席棚”へ」
殿下は木さじを帯に差し、短く続けた。「午後は妨害を想定した鎖ほどきの稽古。——鎖名師が来る」
「鎖名師?」
ジェイが泡立て器を肩に担ぎながら、首をかしげる。
「名と名を鎖で連結して“引き戻し”を起こす職人。引継ぎの途中で送り手へ戻るよう仕掛ける」
エレーネが眠たげに言った。「悪意の効率化。最悪の趣味」
シアンは白手袋を締め、半拍遅れて俺を見る。危ない合図は甘い合図に似ている。だが、今日の題は“ほどく”。礼が先だ。
◇
引継路の起点は市場東のパン屋“アダ”。店先の皿は、相変わらず三で置くが美しい。
「アダ、今日も一で名乗る」
アダは胸の前に名を置き、二で笑い、三で“注文名簿”の名影を布の席に置く。名簿といっても、名→行き先の順に欄が切られ、番号は欄外だ。
受け手の“ゼフィ”の若主人は一で名乗り、軽く緊張して二で笑い、三で受け皿を置く所作を重ねた。
渡鈴の影がふくらみ、四で双方の胸に手。半拍遅れでもう一度。真正印が二枚、濃い。
「引継成立」
蔵守が筆記し、鐘守は打たずに鍵束を撫でる。路地の温度が一度上がる。名の温度は、物より軽く、物より長持ちする。
そのとき、通りの上でチャリっと金属音。細い黒環が空へ投げられ、引継路の中途に影の輪として落ちた。輪の縁に刻まれた文字——〈戻〉。
「鎖名師」
エレーネが杖先で輪の影を指す。「受け手に行く途中で、名影を送り手へ引き戻す仕掛け」
「環名師の“検印輪”と違って、礼順に従わない輪だ」
蔵守が眉をひとつ上げる。「一に触れて来る」
「なら、零で息を厚く」
殿下が即答。俺は〈間合い指定〉を路地に段々で敷き、零→一の間に薄い影の足場を追加する。輪は一にしか噛めない。零の上を渡せば、噛み損ねる。
実演開始。アダが零→一、ゼフィが零→一。二で笑いが重なった瞬間、黒環がカランと狂い、引継の道から外に落ちた。
シアンが白手袋で三を描く。止まれの合図。輪は止まり、そこでやっと検分できる。輪の縁に薄刻み——〈一先取〉。一の前に乗ることしかできない型だ。
「零で抜ける」
殿下が輪をつまみ、布の席へ三で置く。「四で返す」
輪はただの金具になった。礼の外では、鎖は玩具だ。
◇
中継点の茶舗“ゼフィ”。若主人が緊張の顔で湯を落としながら、一で名乗る。店の名を先に置き、二で笑いを小さく、三で湯の香を席に置く——名の影は香で運べる。
ここで現れたのが名塗り師のリザ。昨日の刷毛女だ。今日は刷毛を下げ、輪郭の上塗りに回ると申し出た。
「通称も悪くない。返せるなら。——“ゼフィ通りの茶舗”の通称は脚注で可」
彼女は本名の輪郭を濃くし、脚注に通称をやさしく落とす。上書きは輪郭に勝てない。
若主人はほっと息を吐いた。零が上手くなっている。
◇
午後、寺院跡の“夜席棚”。ここで引継ぎの終点処理をデモする。屋根返し・形版を併用し、高低二度の到着印を打つ。
パズと市鼓が屋根に“形”で昇り、地上の布椅子にアダとゼフィ。
「一で名乗り、二で笑い、三で置く、四で返す——半拍遅れ」
渡鈴が鳴らずに鳴り、真正印が後打ちで濃くなる。と、その時。鎖名師が正面から歩いてきた。
鎖名師は背が高く、黒い環を両手に下げ、目は眠っているようで眠っていない。声は低い。
「戻すのが仕事だ。散った名は、元へ戻る。戻れば、迷子にならない」
「戻らないから、橋ができる」
殿下は木さじを水平に置き、零で息を落とす。
「返るのは、戻るのとは違う。四で返る。三を飛ばして戻すのは、礼ではない」
鎖名師は答えず、輪を一つ投げた。輪は寺院の影に入ると広がり、夜席棚の縁に沿って鎖になった。引継ぎの列の中ほどが重くなる。悪い力学。
「重みには会釈」
蔵守が小さく言い、渡鈴の下で無音礼を一つ。列全体がごく小さく礼を置くと、鎖の重みが下へ沈む。重みは礼に弱い。
ジェイが泡立て器をきゅっと握り、「泡楔」とつぶやいて、鎖と床の隙間に一瞬の泡を打ち込む。鎖がぷちとほどけ、輪に戻った。
「検印輪に直す」
俺は輪を拾い、三で置くの瞬間にだけ薄い判を落とす環名輪の“礼順”に改造する。輪は従になった。
鎖名師は足を止め、両手の環を見下ろした。
「……礼に従う輪は、仕事にならない」
「なら、別の仕事を覚えて」
殿下の声は冷たくはない。
「零→一→二→三→四を速く、正確に通す“渡し手”は不足している。あなたの手は器用だ。返す側に回れば、街は助かる」
鎖名師は答えず、環を一つだけ置いて去った。止まれた。戻れるかは、明日だ。
◇
引継路は続く。今度は家から家へ。病床の祖母から孫へ“屋号の名”を渡す。声はいらない。形だけでいい。
祖母は骨が覚えている。零で息、一で名を胸に置き、二で目尻、三で孫の手を布へ置く。
渡鈴の影がやさしくふくらむ。四で孫の胸に手。半拍遅れでもう一度。真正印が濃い。
「……ありがとう」
声は誰のものでもなく、家の温度だった。名は血じゃない。習いだ。返しがあれば、繋がる。
通りの角で、名目録師が投函箱を点検していた。箱の口には昨日つけた輪郭矢印。名→番号。
「箱の回転率、上がった」
目録師の中堅が渋々言う。「番号は欄外だが、検索はできる」
「従は働き者がいい」
殿下が笑い、四で返す。中堅は肩の力を抜いた。効率と礼は喧嘩しない。順序を守れば友達だ。
◇
夕刻、広場で引継き市。各店が“名の引継スペース”を設け、二重領収でやりとりを公開する。通称を脚注に下げ、本名を見出しに。番号は欄外。
そこに現れたのは——鼓手長。仮面、太鼓なし、粉なし。手には小さな鈴。
「注目の引継ぎを見に来た」
仮面越しの声は遅れて落ちる。「注目は熱だ。移すのは難しい」
「名は温度。返しがあれば、熱は冷めない」
殿下が応える。
鼓手長は鈴をひとつ、鳴らさずに掲げた。名は呼ばず、礼を置く仕草だけを真似る。零→一→二→三→四。不器用だ。けれど、順序は守った。
「——退く」
短くそう言い、仮面は人混みに沈んだ。止まるのが上手くなっている。止まれる者は、戻れる——たぶん。
◇
締めは“鎖ほどき稽古”。パズが紐旗で零を合図し、俺は輪郭→息→名→検印の順で手本を見せる。エレーネは香で二の胸ひらきを補助、ジェイは泡楔の入れ方を教える。
名上書師のリザが脚注化の刷毛を貸し、環名師が礼順の検印輪を回してくれた。緩い連合。
稽古の最後、鎖名師が置いていった黒環を布の席へ三で置き、四で返す。輪はただの金具。従に落ちた。
◇
夜。寺院跡。今日の指標をパズが読み上げる。
引継路 3/3 成功(市場東→北塔→夜席棚)
家→家 引継 7/7 成功(真正印 100%)
鎖介入 4 → 零・会釈・泡楔で解消 4
環名輪 導入 5(検印=三)
上書き介入 3 → 脚注化 3
投函箱 回転率 +18%(名→番号の順序徹底)
参加 238/形だけ名乗れた 196(82.3%)/零習得 154(64.7%)
「温度、運べる」
殿下がパンを二で笑いながら割り、三で置き、四で返す。
「明日は**“名の往来”。引継の逆**——貸した名を戻す稽古。借り名の清算、遠橋越しの返礼。鎖名師に“返す仕事”を見せる」
「名は戻すか、返すか」
エレーネが眠たげに訊く。
「戻すは位置、返すは礼」
俺は胸の裏に〈偽拍〉を一枚。重ねない。
「三で置かれ、四で返る——戻らずに、帰る」
シアンが白手袋の糸を半寸切り、目で笑う。
「今日のあなた、鎖を礼で解くので、やっぱりずるい」
「業務に支障」
「支障は出さない。強くなる寄り方だけ、覚えました」
渡鈴は鳴らずに鳴り、夜席棚の影がやさしく呼吸する。
名は火でも水でもない。帰路の温度だ。
零で息、一で名乗り、二で笑い、三で置き、四で返す。五で忘れた者に席を置く。
数字は欄外、輪郭は骨。
盗む拍は、やはりどこにもない。