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第19話「四条本可決、言葉は礼に従う」

――法は音がしない。叩く木槌より先に、礼で鳴る。


 朝、会所の窓から薄い光。昨日の紙束は積み直され、掲示板の草案に但し書きは増えていない——はずだった。近づくと、紙の肌理きめがわずかに違う。夜のあいだに誰かが一枚、薄紙の上書きを貼った。印刷ではない、刷毛で影だけ塗ったタイプ。遠目には見えず、指で撫でるとひやりとする。


「名上書師の仕事ね」

 エレーネが眠たげな目で言い、杖の石突で掲示の下辺を打たずに撫でる。薄紙が端からはがれる。

 裏に、細い字。〈五の席は“余剰時のみ設置”〉——余剰? 席は余剰で置くものじゃない。常在でこそ効く。


「輪郭、厚めに」

 蔵守くらもり名留なとどめ膠を刷毛に取り、定義の形をもう一段。『五の席=忘れた者に常在の置き場』。文は後、形が先。膠が乾く前に、鐘守が無音礼で掲示の枠を固定する。


「——開会」

 書記頭しょきがしらが現れ、木槌を打たない宣言。昨日と同じ乾いた声だが、眼の下の影が浅い。止まれる人は、寝られる。


「議題、四条の本可決。提出草案は掲示の通り」

 別拍団の上席は定位置。名塗り師のリザは傍聴席の端に立ち、刷毛を懐にしまっている。但し書きを足しに来たのではなく、今日は輪郭を見る側だ。いい流れだ。


 殿下は零で息を一つ置き、一で名乗る。

「旅人、エリス。——四条をこの街の礼に落とす。文は短く、輪郭は厚く。二重領収と屋根返しを明記」


 俺は渡鈴わたりすずと名預り帳を卓に置き、ページの真正印を開く。パズが紐旗を膝の上で折り、読み上げの準備。ジェイは泡立て器に「議事泡」とまた無意味なラベルを貼っている。やめろ。



 審議は淡々、のはずが——議場の梁で、ぺたという軽い音。名上書師のもう一団が高所から紙の帯を投げ、〈五の席〉の文に**“臨時”**の紙片を被せた。臨時? 臨時で置く席は、置かないと同じだ。


「屋根返し・形版」

 蔵守が即応。屋根に登らず、泡梯子の形で梁へ“昇段”。ジェイが泡立て器をくるりと回し、目に見えないきざはしが一瞬浮く。パズが小走りで梁下に立ち、一で名乗りの形、二で笑い、三で紙片を布の席に置く所作。紙片は席の形に引かれて下へ落ち、地上の布椅子にふわりと収まった。

「四で返す」

 殿下が胸に手。半拍遅れでもう一度。紙片は返却済の印をもらい、ただの紙に戻る。臨時の刺は抜けた。


 書記頭が目を細めた。「——高所返し・形版、有効だな。条文の注に明記する」


 別拍団上席が、静かに札を切る。「五の席は**“忘れた者”に限る。“思い出したくない者”は対象外だ」

 嫌な線引き。忘れたと忘れたいのあいだ**に、長い夜がある。


「夜の席も置く」

 殿下が言う。「昼だけでなく、夜だけ来られる人のために。——灯なしの席。無音礼で印し、渡鈴の影で囲う」


 書記頭が机に視線を落とし、短く頷く。

「四条 乙:五の席は常在とし、昼席・夜席を設ける。夜席は灯なし、影の印で表示」

 筆が走る。但し書きの入り込む余地が、また一つ消える。



 そのとき、会所の外から遅れた拍子木がひとつ。続いて早取りのぺた。二つの別々の乱れが、同時に議場を撫でた。鼓手長と、名上書師の親玉か。嫌な共演だ。


 扉が開き、仮面の男が一歩。鼓手長だが、今日は太鼓も粉もない。背後に白い紙束を抱えた痩せた男——名目録師なもくろくし。名を番号化して棚へ入れる者。名を生き物ではなく目録にしてしまう。

「招かれてはいないが」

 鼓手長の声は遅れ、軽く笑う。「注目は火だ。あなた方は水を置いた。……目録はどうする?」


 名目録師が番号の札を掲げる。〈#M-204:ロウ〉——名に番号が貼られ、名が目的化される。呼びかけが検索に変わる。生きた橋が、目録の列になってしまう。


「番号は使っていい」

 殿下は即答した。「ただし、返せる番号。——名呼び=主、番号=従。条文に順序を書く」

 書記頭がペン先を止める。「順序……」

 蔵守が短く補う。「『一で名乗り(名呼び)、二以降で目録(番号)』。一に番号を置かない。これが輪郭」


 名目録師は眉をひそめ、札を二度、打たずに揺らした。番号は一に置かれてこそ効率がいい。だが効率は礼に勝てない。一は名だ。


「条文 丙:名呼びを第一とし、番号は補助に限る。文書の先頭行に番号を置かない」

 書記頭の声が、初めて少し湿った。乾きは礼に弱い。礼は条文を湿らせ、折れにくくする。


 鼓手長の仮面の穴が細くなった。「礼で殴る癖は、相変わらずだ。……では第三拍をどうする?」

 仮面の奥で、遅延の笑い。彼は第三拍を空けさせたい。返却の直前を切らせたい。

 俺は胸の裏に〈偽拍〉を一枚。重ねない。

「三で置くを、条文の心臓にする」

 殿下が木さじを水平に。

「置く前に返す文言を禁じる。三を飛ばす手続きを無効とする」


 書記頭がペン先を立て直し、宣言した。

「第三条 甲:置く前の返却手続きを無効とする。置くを確認後、四に移行」

 鐘守の鍵束が打たずに鳴り、渡鈴が鳴らずに鳴る。議場の床石に薄い橋脚が立った気配。法が礼に追いついた瞬間は、いつも音がしない。



 議論は大枠が固まった。最後の抵抗が、文末から来た。名塗り師でも名上書師でもない、文匠ぶんしょうだ。

 彼は句点の後ろに「……」を置き、意味を曖昧にしようとする。丸で終わらない文は、抜け道になる。

 エレーネが眠たげに笑った。「句点は、返す。三で置いて、四で丸」

 書記頭は頷き、「条文は句点で閉じる。“……”を禁句に」とさらり。文匠の肩が落ち、筆が静かになった。


「——採決」

 書記頭が木槌を打たないで合図し、両手を二でひらき、三で机上の紙に置き、四で胸に手。半拍遅れでもう一度。審議の所作が二重領収で揃う。

「四条、本可決」


 木槌は鳴らない。だが、街が鳴る。会所の外、四隅に据えた渡鈴が鳴らずに鳴り、広場の空気に温度が戻る。名は火でも水でもなく、温度なのだと、少し思う。



 可決の余韻を味わう暇もなく、外で白い幕が揺れた。名上書師の巨大な布広告だ。でかでかと〈ミレイ新称:無名市むめいし〉。本名の〈ミレイ〉は隅に脚注。乗っ取りだ。


「——名は先に置け」

 俺は息を零で厚く置き、蔵守と視線を繋ぐ。

「名留膠、布へ」

 膠は紙だけじゃない。布にも薄く輪郭をつけられる。蔵守が刷毛を走らせ、“ミレイ”の輪郭を大書。脚注の本名が輪郭で見出しに昇格する。

 ジェイが「泡刃」とつぶやいて泡立て器を振る。泡は刃ではない。一瞬の縁だ。名上書の布の角がぷつとほどけ、風が脚注を見出しに裏返す。

 貼り換えは、返しへ変わった。通行人の口から小さな名が漏れる。「……ミレイ」

 名は橋。橋は帰路。街の温度が一度、上がる。


 鼓手長が仮面越しにひとつ笑い、名目録師は札を胸の内へしまった。

「なるほど、礼は面倒だが強い。今日は退く。……法が礼に従う街、覚えたよ」


「いつでも見学席へ」

 殿下が示す。五の席は、妨げた者にも開いている。止まれる人は、戻れる——たぶん。



 午後は条文の読み上げ式。寺院跡と広場で、屋根返し・形版を使って高低二度の公布。

 殿下が一で名乗り、書記頭が二で笑い、蔵守が三で式次第を置き、鐘守が四で返す。半拍遅れ、もう一度。

 告示板には〈没収→預かり/収集→返流/二重領収/五の席 常在(昼・夜)/名呼び第一・番号従/屋根返し・形版〉の短い語。但し書きはない。輪郭がある。


 耳の白糸の女は、皿の置き方で条文を覚えた。門番は止まる所作で覚えた。少年は紐旗の角度で覚え、ロウは名の影で覚えた。覚えるのにも職能がある。職能は礼の友達だ。



 夕刻、会所で小さな打合せ。施行指標を確認する。パズが読み上げる。

「五の席 常在 7/7稼働(昼4/夜3)、名預り→返却 62/62(100%)、屋根返し・形版 公布2/2、但し書き介入 0、上書き布 1→返しで逆転、番号の先頭置き違反 0(口述で是正)、参加者“零の習得” 101/148(68.2%)」


「上出来」

 殿下はパンを二で笑いながら割り、三で置き、四で返す。

「明日は名の夜席の見回り。夜にしか来られない名は、深い。——零を厚く、灯は薄く。渡鈴は影で鳴らす」


「外からの揺さぶりは?」

 エレーネが眠たげに訊く。

「鼓手長は今日、遅延を使わなかった。目録と組む手を探ってる」

 俺は胸の裏に〈偽拍〉を一枚。重ねない。

「目録は便利だ。便利は礼に勝ちやすい。——一に名を置く輪郭を、街の癖にする」


 シアンが白手袋の縁を半寸直し、目で笑う。

「今日のあなた、三を条文の心臓にしたので、やっぱりずるい」

「業務に支障」

「支障は出さない。強くなる寄り方だけ、覚えました」

 危ない合図は甘い合図に似ている。けれど、その手前に零がある。息を先に置けば、甘いものは焦げない。


 窓の外、夜席の布椅子が静かに並ぶ。灯はない。影だけが印。渡鈴は鳴らずに鳴り、遠橋は法条で補強された。

 名は火か? 水か? ——温度だ。

 零で息、一で名乗り、二で笑い、三で置き、四で返す。五で忘れた者に席を置く。

 法は礼に従い、礼は人に従う。

 盗む拍は、今日もどこにもない。

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