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第18話「自治の席、語の入れ替え戦」

――言葉は道具だ。刃にも橋にもなる。

“没収”は刃で、“預かり”は橋だ。今日は刃を鞘に戻す交渉日。


 朝、ミレイ自治組合の会所は、紙の匂いで満ちていた。文字の少ない町のくせに、この部屋だけは文字がやたら濃い。壁一面の告示、机の上には帳面、床の隅に印箱。窓は高く、光は薄い。声がよく響くように設計されているのに——誰も名で呼ばれないから、響きはどこか虚しい。


 殿下は旅人の上衣のまま木さじを帯に挿し、蔵守くらもり渡鈴わたりすず二つと名預り帳を抱え、鐘守は鍵束を胸の内側へ。市鼓いちこのパズは隅の席に座り、紐旗を膝に置く。エレーネは眠たげだが目は笑っておらず、ジェイは泡立て器を杖みたいに立てて「議会用」とか意味のないラベルを自分で貼っている。シアンは白手袋を締め、半拍遅れて俺を見る。危ない合図は甘い合図に似ているが、今日は舌の上で踊る言葉が刃だ。礼を先に置く。


 議場の中央、自治組合の卓。昨日の別拍団の上席が右端に座り、左端には灰色の外套の壮年——書記頭しょきがしら。真ん中に“議長席”の札。札には名が書かれていない。ここでは椅子が名だ。雑な伝統だ。


「開会」

 書記頭が短く言い、木槌を打たない。打たないほうが偉いらしい。王都基準では変な符号だが、礼は土地で変わる。覚えておく。


「本日の議題一。告示〈名の収集禁止〉の文言修正の可否」

 書記頭の声は乾いている。乾きは礼に弱い。殿下は零で息を一つ置き、一で名乗った。


「旅人、エリス。——一で名乗る。

 提案:『没収』を『預かり』に、『収集』を『返流』に。五の席(忘れた者の席)の明文化。返却は二重領収で担保」


 「返流」という語が議場に落ちる音は、悪くない。刃の擦過音ではなく、水音だ。書記頭は片眉だけ動かし、別拍団上席は顎を半寸上げて笑わない。時刻師の女は参加しておらず、代わりに——扉の陰に匂いが潜む。草を砕いた渋い匂い、にかわ、朱。名を塗り替える匠の匂いだ。


「議題に入る」

 書記頭は紙をめくり、読み上げる。「当会は、名を呼ばない秩序を暫定と位置づけ、利便性のために維持している。名は火種。火を扱う者が少ない現状では、薪の持ち込みを禁じる」


「薪は禁じても水は置ける」

 殿下が言う。「火を扱う術が育つまで、五で水。——“忘れた者の席”です」


 別拍団上席が肘をつき、静かに反論した。「昨日、寺院で講をした。名の形を入れて回る。名は火だ。火を配る行為だ」


「配ったのは鞘です」

 俺は名預り帳と渡鈴を卓上へ。一枚目の薄印、半拍遅れの真正印を示す。「“没収”の金具は一枚目で満足する。こちらは二枚目で返す。——刃の手前で止める仕組み」


 書記頭の指が止まった。止まれる人は、戻れる。彼は紙面ではなく、渡鈴の影を見た。影は音ではない。礼だ。

「……“預かり”に言い換えたところで、実体が変わらぬなら、語のすりかえに過ぎん」


「語を変えると扱いが変わる」

 蔵守が淡々と言葉を置く。「“没収”は返さなくていい。だから、手続きも“返すための型”を持たない。“預かり”は返す前提。だから、領収が要る。——二重で」


 帳面のページが薄く鳴り、真正印が濃く出る。議場の空気が半枚、湿る。乾きは礼に弱い。



 そこで、扉が音もなく開き、灰色の前掛けの女が一歩進んだ。肩に刷毛、腰に小瓶。鼻先に朱の点。名塗りなぬりしだ。名を消すのではなく、塗り替える連中。告示の文字を塗り足して字義を変え、店の看板の名を別のものに変える。匿名にしない。他名にする。悪質だ。


「審議中、失礼」

 女は刷毛を持ち上げ、机の上の告示案に朱を置いた。

 〈預かり〉の「預」を朱で縁取りし、隣に小さく但し書きを描き足す。


〈預かり(長期保存可)〉


 書記頭の瞼がぴくりと動いた。語の外に刺を立てる手だ。良くない。

 女はさらに刷毛を滑らせ、〈返流〉の「返」に細い裂け目を描き入れる。


〈返流(返さない流れも含む)〉


 言葉の幹を動かさず、枝で毒を回す。議場が無言で頷く前に、俺は渡鈴を高に掲げ、零で息を濃く置いた。蔵守が名留なとどめ膠の小壺を出す——古庫から持ってきた、“名の下書き”を固定する膠だ。


「語の下書きを先に置く」

 蔵守は膠を刷毛で薄く伸ばし、朱の外に透明な輪郭を描く。「“預かり=返すまでの一時保管”」「“返流=返すための循環”」——定義を書かず、形を置く。

 名塗り師の朱が膠の外で弾かれ、にじみが止まる。刷毛の先が空中で迷い、女の呼吸が半拍乱れた。

「……定義も書け」

 女がしぶしぶ言う。「形だけでは伝わらない」


「形が先で文が後」

 殿下が木さじを水平に置き、一で名乗る。「旅人、エリス。——定義を文に落とすのは今から。下書きを守るのが先」


 書記頭は卓を指で二度、打たずに叩いた。「——よかろう。草案起草に入る」



 草案は、四条。

 一条:本自治は、名に関わる行為を没収と呼ばず預かりと呼称する。

 二条:預かりは返流の一環であり、返却を前提とする。

 三条:返却は二重領収で担保され、半拍遅れの真正印をもって成立する。

 四条:五の席(忘れた者の席)を公共設置し、名の置き場を常に確保する。


 短い。いい草案だ。ここに但し書きが入り込む余地を潰す必要がある。名塗り師が筆を構え、“長期保存可”をふたたび潜り込ませようとした瞬間、鐘守の鍵束が打たずに鳴った。議場の床石が半寸沈み、無音礼が卓全体にかかる。礼の上では、余計な枝が滑る。


「第三条に**“屋根返し”を追加」

 蔵守が言う。「返却の高低二度**。昨日の河原と屋根の返礼と同じ。高さは時刻師と名塗り師の“水平いじり”から逃げる」


 書記頭が首肯し、筆を取らずに口述する。文は書記補が写すが、手より声のほうが反響に強い。

「第三条乙:返却は地上における実施をもって第一打、屋根等の高所における実施をもって第二打とする。二度のうち後を真正と見なす」


 別拍団上席が低く鼻で笑い、「屋根になど登れぬ者はどうする」と言う。

「五の席を屋根に写す」

 ジェイが即座に割り込み、泡立て器をくるりと回した。「泡梯子で“形だけ昇段”。実際に登らず、形で“高所返し”の所作を通す。泡はすぐ消える。痕跡を残さない」


 書記頭は唇の端だけ上げた。彼は合理の匂いに弱い。弱いのは悪いことではない。合理は礼の友人だ。

「第三条丙:形による高所返しを認める。所作の詳細は名の講で授ける」


 名塗り師が悔しそうに朱を蓋で叩いた。朱は形に弱い。塗り替えは輪郭に勝てない。



 審議が折り返しに入ったところで、別拍団上席が最後の札を切る。

「では、“王都の名”の流入をどう扱う。王都式が広がれば、自治は吸収される。言葉で侵攻してくる」


「“王都の名”は王都のものではない」

 殿下が即答し、木さじを水平に。「名は誰かのもの。名乗りが所有の証ではない。返しが所有の証」


「証明せよ」

 上席の声が刺になる。刺は乾いている。礼で包めば、折れる。

 俺は名預り帳の既ページを開き、昨日の案内の男の名——ロウ——の返却印を示す。

「王都は預かった。ミレイで返した。——どちらの名でもない。本人の名だ」


 議場が静かになり、窓の高い光が薄く動いた。書記頭は木槌を打たずにワンテンポ置き、「……三条まで可決。四条は練り」と告げる。

 四条は五の席の常設。費用、管理、場所。偏りなくやるには、数字が要る。


「指標で示します」

 パズが立ち上がり、見習いとは思えぬ声で読み上げる。

「渡鈴設置 4/4、名乗り形習得 86/112(76.7%)、零習得 64/112(57.1%)、名預り→返却 53/53(100%)、五の席利用 18→予測ピーク 24、没収未遂 7→転換率 100%。

 常設五の席は角4+寺院2+会所1=7で開始、市鼓見習い12がローテで見守り。泡梯子は日没前のみ運用」


 数字は礼の体感を可視化する。書記頭は頷いて、「四条、施行試験を条件に可決」と宣言した。

 木槌はやはり打たれない。だが、街が鳴る。渡鈴の影が議場の足元に薄く揺れ、空気が半枚、湿る。乾きは礼に弱い。



 会所を出ると、広場の掲示板に新しい草案が張り出された。名塗り師が横に立ち、朱の刷毛を下ろしたまま無言でこちらを見る。殿下は彼女に歩み寄り、零で息、一で名乗った。


「旅人、エリス」

「……看板師、リザ」

 女は薄声で答え、刷毛の先を下げた。名を出せる人は、戻れる。


「あなたの朱は仕事だ。私たちの膠は礼だ。——仕事と礼は喧嘩させない」


 リザは短く頷き、刷毛を懐へ押し込んだ。「……但し書きは書く。けど、定義の輪郭には触れない」

「ありがとう」

 殿下は木さじを胸に当て、二で笑い、三で置き、四で返した。



 午後は施行試験。四条の「五の席・常設」を角4+寺院2+会所1に作り、名の置き方と返し方の手順票を配る。ジェイは泡梯子の手入れ。蔵守は名留膠の配布。鐘守は無音礼の刻印を床に打たずに置く。

 別拍団の上席は姿を消したが、無地の面が路地で二、三。刺は減った。塗り替えが増えるだろう。だから、輪郭を増やす。


 夕刻、寺院跡で小さな式。「屋根返し・形版」の初実施。屋根に登らず、泡梯子の形だけで高所返しを通す。年寄りも子も参加できる。

 耳の白糸の女は、皿を三で置くのが本当に上手い。返すのも上手い。形から入った人は、声に頼らない。声は後から来る。

 案内の男——ロウ——は一で名乗るのに慣れ、二で笑うのがまだ下手だ。下手は良い。下手だと真面目になる。真面目は礼の友達だ。



 式の最中、寺院の外縁で違和感。遅れた拍子木ではない。早取りのぺたという軽い音。名を奪わない、上から被せる音。

 名上書なうわ師だ。名塗り師の親戚。誰かの名を良さそうな別名で覆い、注目だけ持っていく。盗みではない。乗っ取りだ。

 彼らは看板に大きな仮名を貼り、本名を小さく脚注に落とす。見栄えは良い。礼は死ぬ。


「——名は先に置け。心はその後に来る」

 俺はあの紙筒の一行を思い出し、蔵守と目を合わせる。

「名留膠、もう一段」

 蔵守が頷き、看板の下地に薄く輪郭を足す。脚注を本名、大見出しを通称。通称は返せる。本名は置いたまま。

 名上書師の紙が剥がれやすくなる。上書きは輪郭に弱い。輪郭が増えれば、本名が迷子にならない。


「通称は悪くない」

 殿下が小さく言う。「返せるなら。——返せない通称は、没収だ」

 名上書師は無言で紙束を抱え、去った。止まれなかった。止まれない人は、明日も来る。準備しておく。



 夜。宿の大部屋。鍋は昨日と同じ小ささ。スープは相変わらず薄いが、礼は濃い。

 パズが指標を読み上げる。

「四条施行試験:五の席 7/7設置、屋根返し・形版 1/1実施、名預り→返却 41/41、但し書き介入 0(輪郭で弾き)、名上書干渉 1→輪郭で解消。

 “名の講”参加 本日 129(初日比 +17)、形だけ名乗れた 101(78.3%)、零習得 77(59.7%)」


「可決に足る裏付け」

 殿下はパンを二で笑いながら割り、三で置き、四で返す。「明朝、再開会。四条の本可決を取りにいく。定義の輪郭は厚め、文言は短め。但し書きは礼で滑らせる」


 シアンが隣で白手袋を外し、糸のほつれを半寸切る。目が合う。

「今日のあなた、語の輪郭を先に置くので、やっぱりずるい」

「業務に支障」

「支障は出さない。強くなる寄り方だけ、覚えました」


 危ない合図は甘い合図に似ている。だが、甘いのは合図ではなく礼だ。胸裏に〈偽拍〉を一枚。重ねない。

 窓の外で、遠くの路地に二つの音。遅れた拍子木が一つ、早取りのぺたが一つ。鼓手長と名上書師の呼吸が、どこかで重なっている気配。

 王都から持ってきた橋は、ミレイで輪郭を得た。

 明朝、条文は礼になる。

 零で息、一で名乗り、二で笑い、三で置き、四で返す。五で忘れた者に席を置く。

 言葉は刃にも橋にもなる。今日は橋、明日も橋。

 盗む拍は、やはりどこにもない。

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