第17話「寺院跡の講、形だけ名乗る」
――名を言うのが怖い日には、名を置くだけでいい。
声は後から来る。橋脚は先に立つ。
朝、ミレイの寺院跡に薄い霧。柱は胴を失くし、天井は空に換わり、祭壇だけが石の舟みたいに残っている。ここで今日は「名の講」——形だけ名乗る日をやる。渡鈴を二つ、低・高で据え、布の椅子を五の席としていくつも並べた。蔵守は古い式の巻物を抱え、鐘守は鍵束を胸の内側にしまう。殿下は木さじを帯に挿し、シアンは白手袋を締め、半拍遅れて俺を見る。危ない合図は、相変わらず甘い合図に似ている。礼を先に置けば、合図は全部甘くなる。困った長所だが、今日は講師である。
「本日の講義、要点三つ」
殿下が指を三本。
「一、声は出さなくていい。二、名は“形”で置く。三、返す所作は二度」
短い。覚えやすい。王都式の授業スライドはいつもこの密度だ(スライドはないが)。
参加者は老若混じり。昨日、広場で形の早かった顔がちらほら。耳に白糸の女も来ている。露店の少年も、門番も、ふさぎがちな書記も、皆それぞれ“名の喉”を指で押さえている感じだ。
「まず、形」
俺は胸の前に指を置き、やって見せる。顎は半寸上げ、親指をひらき、目尻を紙一枚ぶん緩める。
「これが“一で名乗る”の形。声は要らない。身体で名を置く。次、二で笑う。笑いも“形”でいい。胸をひらく」
エレーネが眠たげに頷き、香袋を軽く振る。柑橘と焼皮の“借り笑い”が寺院の石に薄く染みる。
「三で置く。手にあるものを、布に置く。パンでも、棒でも、空の手でもいい。置くという意志が要る」
ジェイが泡立て器を祭壇にコトンと置く。場違いだが、音がやさしい。
「四で返す。胸に手を当て、半拍遅れてもう一度。二重領収。最後に“五の席”。名を忘れた者、名を出せない者の置き場。ここに座れば、誰も急かさない」
寺院の空気が、少しだけ呼吸を思い出す。ミレイの人は、形が本当に早い。声はまだ来ない。来なくていい。
◇
第一課題は「名の影を置く」。声を出す代わりに、渡鈴の影の上へ「形」を滑らせる練習だ。〈間合い指定〉を祭壇の縁と床に梯子状で置き、二で胸がひらく合図を場に薄く散らす。鐘守が鍵束を打たずに撫でる。音は出ない。でも、街が鳴る準備だけが起きる。
「はい、いち」
まずパズが見本。顎半寸、親指、目尻。石に名の影が立つ。次に耳の白糸の女。形が整うと、昨日より皿の置き方が静かになった。置くのが上手い人は、名も上手く置ける。
門番の男は、肘が硬い。無理に声を出そうとしている。
「声はあと。形が先」
俺は二で笑いを返し、三で彼の肩甲骨の上に空気の手を置く。触れない。〈間合い指定〉を肩の上に薄く。ここで置く。男の肩が一枚落ち、形が整う。四で返すのも綺麗だ。門を通す仕草を毎日しているからだろう。礼は職能に宿る。
順調。……だったのはここまで。寺院奥の反響堂——半壊の回廊——で、薄い名の反射が起き始めた。模倣名を撒くやり方だ。反響が「名の形」をなぞって返してくる。形の初心者は自分の形が「一拍遅れで勝手に戻る」と怖がる。怖さは名消しの友達。嫌な組み合わせだ。
「別拍団、反響仕掛け」
エレーネが眉をひとつ上げ、杖先で回廊の柱を軽く叩く。音は出ない。でも、柱の縁に白い粉線——反響の“返し”が見える。
「仕掛けは“一の形”に寄生するタイプ。形を剥がして“自分で名乗った感じ”を奪う」
「なら、一を二重に」
殿下が即答する。
「“一で名乗る”の前に、“零で息”を置く。——半拍、先に息を置く」
面白い。講義に新項目だ。
「零で息。肩を一枚落とし、腰の骨を半寸立て、目を閉じない。ここで置く。——それから“一”」
やってみる。パズの形が一段安定し、耳の白糸の女の皿がさらに静かになる。門番の男の肘は、今度は最初から柔らかい。零があると、反響が乗れない。反射は「一」に貼るしかないからだ。
反響堂の奥から、無地の面が一枚だけ覗いた。面の内側で息が荒い。一に寄生する仕事は、零に弱い。反響は行き場を失い、回廊の上で薄く消えた。
◇
第二課題は「名の借り返しの実技」。借りる側が、相手の名の形を支える練習だ。
「ペアになって。片方が一で形、もう片方は二で笑い、三で相手の**手から名を布の席へ“置く”**のを手伝う。四で返す——半拍遅れてもう一度」
蔵守が名預り帳を開き、真正印の出方を皆に見せる。一枚目は薄い、二枚目で濃い。
ここで、寺院の裏口から別拍団の上席が入ってきた。昨日、欠けた百合を黒糸で縫い付けていた男だ。今日は面はない。目に寝不足の影。伴っているのは二人。うち一人は、**時刻師**の薄袋を持つ女。
「通告だ。自治組合告示は寺院にも及ぶ。名の講は“名の収集行為”である。中止を命じる」
殿下は木さじを水平に置き、零で息を一つ落としてから、一で名乗る。
「旅人、エリス。——一で名乗る」
名は重心。上席の足元が、半寸だけ揺れた。
「講は収集ではない。**返流**だ。——預かり、返す」
「言葉遊びは要らない。名は危険物だ。爆薬のように扱え」
上席の口は相変わらず乾いている。乾きは、礼に弱い。
「危険物なら、所定の箱が要る」
俺は布の席を指し示す。「五の席。ここが“危険物保管庫”だ。置けば爆発しない」
上席は笑わない。代わりに、時刻師の女が袋の口を開く。寺院の空気が半拍、ぬるくなる。時間の角がやや曖昧に。名流しと反響の合わせ技か。
「零で息、厚めに」
殿下の短い指示。俺は〈間合い指定〉を祭壇前に段々で敷き、零の置き場を増やす。ジェイは泡立て器で柱の目地を撫で、細泡で反響の返し線を可視化。エレーネは香を低い位置に滑らせ、胸の形を増幅する。香は匂いで戦わない。形で手伝う。
「講を続けます。借り返し、開始」
ペアが次々に一で形、二で笑い、三で置く、四で返す。半拍遅れでもう一度。名預り帳の真正印がページに増えていく。上席の逆名帳は一枚目しか噛めない。飢える帳面ほど、無力だ。
時刻師の女が回廊の陰で微細な針を立てた。無名針の極小版。足裏ではなく、視線に刺す針。見るだけで「誰でもない」に傾ける狡猾なやり口。
「視線の針は、会釈で折れる」
蔵守がささやき、渡鈴の下で無音礼を一つ。講堂の全員がごく小さな会釈をそろえると、視線が礼で重みを持って落ちる。軽い針ほど、重さに弱い。
上席は反撃の札を切り替えた。
「ならば、名の借金を問う。ここで“昔の名を借りて返していない者”は、没収に同意したものとみなす」
嫌な言い方だ。確かに借礼は存在する。王城にもあった。だが、やり方が逆だ。
「借金は、返す場所を示してから言え」
殿下が木さじを軽く掲げる。「場所を示せない請求は無礼。礼がない請求に、名は渡らない」
上席は唇を結び、寺院の壁に視線を走らせた。壁の石に古い朱書があるのを、彼は知らないのだろう。蔵守がゆっくり歩み寄り、指で示す。
〈返す場所を先に出せ〉
百年前の書き付け。楽寮の手だ。上席の喉が一度ごくりと動く。彼にも読める文字だ。礼は古文で殴れる。
「講を妨げるなら、見学席へ」
殿下が柔らかく言う。五の席のひとつを示す。「忘れた者の席は、妨げた者にも開いている」
上席は座らなかった。だが、止まった。止まれる者は、戻れる——たぶん。
◇
第三課題は「遠橋の名乗り」。屋根の鈴と地上の鈴を上下結びして、広場と寺院を一本の見えない橋でつなぐ。
「屋根側は一で名乗り、地上側は四で返す。間に二で笑い、三で置く。——零は各自の胸に」
屋根にパズと市鼓の二人。地上に耳の白糸の女と少年。鐘守が鍵束を打たずに鳴らし、蔵守が式を短く唱える。
屋根で小さな形。「……ロウ」
地上で小さな返し。「ロウ、返しました」
昨日、街道で名を貸してくれた案内の男だ。いつの間にか混じっている。彼の名は、一度置かれて、返されて、橋になった。目が少し、楽になっている。
そこへ、反響堂の奥から別の反響。今度は遅れて戻るのではなく、早取りで名を先回りするタイプ。名を言う前に「言い終わった感」を身体に与える悪質な先達し。
「零で息の精度を上げる」
殿下が即答。俺は〈間合い指定〉を零→一の間にもう一段。息の置き場をひと目で分かるように、床石に影の付箋を増やす。ジェイの泡立て器がゼロ泡を作り、目地でぷつぷつが教えてくれる。先達しはゼロに触れない。息は先に置く。
先達しは逃げ、反響は消えた。講の空気は落ち着く。パズが屋根で胸を張る。「名は橋!」と小声で宣言して、照れ笑い。宣言は大きく、声は小さく。良い講だ。
◇
午後の終わり、別拍団の上席が再び前へ出た。顔に疲れ、声に棘。
「……今日のところは、見逃す。だが自治の告示は撤回しない」
「告示の修正を提案します」
殿下は木さじを水平に置き、零で息をひとつ落としてから、一で名乗る。
「旅人、エリス。——提案:『没収』の語を『預かり』に、『収集』を『返流』に。五の席を条文に明記。二重領収で真正を担保」
上席は黙り、時刻師の女が耳打ちし、もう一人が帳面を持ち直す。言葉は似ていて、意味は遠い。遠いが、礼の上では橋が架かる。
「検討する」
上席は短く言って、回廊の陰へ消えた。止まり方が、少しだけ礼に近い。止まれる者は、戻れる——たぶん。
◇
宿への道すがら、ミレイの街角に小さな名が転がっていた。紙切れに走り書き。「ミナ」。昨日、屋根で返した名だ。誰かが置き場所を見つけられず、落としたらしい。
「拾い名の儀」
蔵守がそっと紙を拾い、渡鈴の影の下で零→一→二→三→四と所作を通す。
「拾いました。返します。半拍遅れて、もう一度」
紙は鳴らずに鳴り、五の席の上で静かに止まった。名は落ちても、礼で戻る。
◇
夜。宿の大部屋。鍋は小さいが、拍は大きい。スープは薄いが、礼は濃い。
パズが今日の指標を読み上げる。
「参加 112、形だけ名乗れた 86、零の習得 64、名預り→返却 53/53、五の席利用 18、没収未遂 7→全部転換、反響干渉 2→解消、告示修正 提案受理(検討中)」
「上出来」
殿下がパンを二で笑いながら割り、三で置き、四で返す。
「明日は自治の席に出る。条文の言い回しを礼に合わせる交渉。“没収”を“預かり”に、“収集”を“返流”に。五の席の明文化」
「反対は?」
エレーネが眠たげに訊く。
「ある。だから零を厚く。息を先に置けば、言葉は倒れない」
シアンが横で小さく頷き、俺の袖を半寸直す。
「……ルグ殿。今日のあなた、零で息を先に置くので、やっぱりずるい」
「業務に支障」
「支障は出さない。強くなる寄り方だけ、覚えました」
危ない合図は、甘い合図に似ている。だが、合図より先に礼を置く癖が、ようやく身についた。胸裏に〈偽拍〉を一枚。重ねない。
窓の外、遠くで遅れた拍子木が一つ。鼓手長のものでも、別拍団の雑なやつでもない。——新しい手の遅れだ。名を嫌うでも、名を盗むでもない、たぶん名を塗り替える系統。
ミレイの寺院は、今日声なしで鳴った。
明日は条文、あさっては告示の撤回。
零で息、 一で名乗り、二で笑い、三で置き、四で返す。五で忘れた者に席を置く。
礼は深く、拍は平熱で、橋はさらに長い。
盗む拍は、やはりどこにもない。