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第16話「四隅に名を、没収令に領収を」

――名は刃じゃない。けれど、持ち方を誤れば血が出る。

だからこそ、礼という鞘に収めて持ち歩く。


 朝。隣郷ミレイの空は薄い灰。文字の少ない街は、音も角が丸い。俺たちは地図の四隅に印を入れ、**渡鈴わたりすず**を「低・高・低・高」の順で据える段取りを始めた。蔵守くらもりが鈴を包から出し、鐘守は鍵束を胸のうちへ、殿下は木さじを帯に挿す。市鼓いちこ見習いの現地採用は五名、昨日形の早かった子たちだ。パズが先頭で紐旗を肩に、エレーネは眠たげに香袋を点検、ジェイは泡立て器を杖みたいに担いでいる。シアンは白手袋を締め、半拍遅れて俺を一瞥。危ない合図は甘い合図に似ている——が、仕事中は礼が先だ。


「設置順は北西・南東・北東・南西。高さを交互で」

 蔵守の指が地図の角を跳ね、殿下が頷く。

「合図はいつも通り。一で名乗り、二で笑い、三で置き、四で返す。五で忘れた者に席」



 最初は北西の角、低く据える。〈間合い指定〉をひさしの影に薄く置き、鐘守が鍵束を打たずに撫でる。蔵守が一で名乗った。


「宮内楽寮 蔵守・タウロ。——一で名乗る」


「王都外部支援士 ルグ・ハート。——一で名乗る」


 名は声より先に姿勢で立ち上がる。親指が半寸、目尻が紙一枚ぶん緩む。鈴は鳴らないが、影の温度が柔らぎ、角に細い橋脚が生えた感触。道行く女将が目を丸くし、二で笑い、三で持っていた盆を台に置いた。四で「またあとで」と返して去る。形から入れば、声は遅れて付いてくる。


 二箇所目は市場の屋根、高。梯子を登って棟木の上に鈴を置くと、下でアダが大皿を肩に笑った。


「市場亭 アダ。——一で名乗る。二で笑う」


 ミレイの空気が、名前で縫われ始める。噂は点ではなく細い糸になって、角と角を結ぶ。いい兆候だ。



 その矢先、広場の東側で通告札が打ち付けられた。繊維の太い紙、黒い字。


〈ミレイ自治組合告示:本日より“名の収集”を禁ず。違反者の名は没収する〉


 嫌な字面だ。別拍団の文体。行間が乾いていて、礼の湿りがない。札の前に折りたたみ台が並び、無地の面をつけた連中が帳面を広げる。「没収係」と染め抜いた布。帳面の背には銀の金具——逆名帳。名を記し入れた者の“名乗りの反射”を剥がす、悪趣味な術具だ。


「名は持ち物じゃない」

 殿下が低く言う。

「でも、帳面の上では数字になる。——なら、数字の扱いで勝とう」


 蔵守が鞄から細い冊子を取り出した。薄紙、赤い罫、表紙に「名預り帳」。


「王都式“二重領収”の帳。一枚目は見せ札、半拍遅れでもう一枚、真正の返却印が出る」


 俺は「名の借り返し」のセットを場に敷く。〈間合い指定〉を台の上空に梯子状、二で肩をひらく合図、三で名を布の席に置く道筋を引く。鐘守は鍵束を打たずに撫で、渡鈴を低・高に一対、帳面台の左右へ。


「受付はこちらです」

 殿下がさらりと告げる。没収係の目がわずかに泳いだ。

「われわれは没収ではありません。預かりです。——返します」


 言葉は似ていて意味が遠い。礼のほうが長く、後で効く。



 最初の「没収対象」は、昨日パンを置いてくれた耳に白糸の女だった。面の男が棒で道を塞ぎ、帳面を差し出す。


「名は不要。捺印だけ」


 女の視線が布の席へ逃げ、戻る。俺は一で女の姿勢に名乗りの形を返し、二で軽く笑う。三で彼女の名前——まだ声にできないそれを——皿の上に置く所作を教える。皿が布の席に触れた瞬間、渡鈴の影がやさしくふくらみ、名預り帳の一枚目に薄墨の印が出た。


「預かりました」

 殿下が一礼。四で女は皿を受け取り、半拍遅れでもう一度胸に手を当てる。二重領収。真正の返却印が、帳の二枚目に浮かぶ。逆名帳は一枚目にしか噛みつけない。没収係の金具が空を噛んだ音がした。


「不正だ」

 面の男が棒の先の無名針で布の席を突く。針は布で鈍って滑る。シアンの白手袋が三を描き、止まれの合図が周囲に薄く広がった。止まれる者は、戻れる。面の男は一瞬だけ止まり——その止まりを、俺たちは領収として記す。


「次」


 少年が来た。昨日、目だけが忙しかった子。胸に名乗り札。一で顎が半寸、二で目尻が紙一枚、三で紐旗を置く所作。声はまだ出ない。四で胸に手、半拍遅れでもう一度。渡鈴が鳴らずに鳴る。名預り帳の真正印がくっきり出た。


 面の男がしびれを切らす。


「警告。私的な名の流通は禁止——」


「流通じゃない。返流だ」

 ジェイが泡立て器をくるりと回し、帳面台の周りに細泡を落とす。「無名針の穴、可視化完了。刺さらない道だけ残る」

 エレーネが香の袋を台の下に滑らせ、二で胸がひらく借り笑いの形を会場全体に薄く仕込む。面の言葉の角が滑る。人が怒りで固まる前に、笑いの形で解凍される。



 そこで、別拍団の上席が出た。面ではなく、襟に黒糸で縫いつけた欠け百合。声は乾いて、礼の反対語を選ぶのがうまい。


「告示を無視し、“王都の名”を植え込む行為——自治権への侵害だ」


 殿下は木さじを水平に置き、一で名乗る。


「王女親衛——ではなく、一人の旅人として。エリス。——一で名乗る」


 王女の名を、旅人の声量で。彼女はそういうところが強い。上席の瞳が一瞬だけ揺れた。名は重心だ。相手の匿名に対して、こちらは名前で立つ。倒れにくい。


「侵害ではありません。預かりと返し。——五の席も用意しています」


 俺は四隅に布の椅子を増やした。名を置く場所は、多いほうがいい。忘れた者のための余白は、街の温度を下げる。

 上席は黙り、逆名帳を開いた。金具が二で光り、三でこちらの名をかすめようとする。狙いは、俺の個人拍。昨日の鼓手長と同じ手筋だ。——いいだろう。


 胸の裏に〈偽拍〉を一枚。重ねない。自分に〈不一致強調〉を薄く掛け、心拍と呼吸の噛み合わせをわざと“意識の階”に引き上げる。奪い手は、無意識に乗る。意識へ晒せば、掴む場所が減る。


「名は、橋で渡す。帳で盗むものではない」


 言いながら、俺は名預り帳を上席の逆名帳の真上にかざした。半拍遅れの真正印が浮かぶタイミングで、渡鈴の影を通した。影は音ではない、礼の軌跡だ。逆名帳の金具が一枚目で満足し、二枚目を見逃す。帳面は飽和し、金具は空転した。


 上席は一歩退き、言葉を変える。


「群衆心理を煽るな。注目は火だ」


「だから、水を置いている」

 殿下が掌で五本の指を開き、第五の椅子を示す。「五で水。怒りの名も、ここに置いて座ってから返す」


 面白くない顔が、礼の前で止まる。止まれる人は、戻れる——たぶん。



 午後、設置は完了。渡鈴 4/4、名乗れた人数 31→68、五の席使用 0→12、没収未遂 9件→全部預かり返しに転換。**

 数字は礼の体感を可視化する。王都で決めた指標(KPI)は、遠征でも役に立つ。泡の管理担当(勝手に就任したジェイ)が「名泡指数は安定」と意味のあるんだかないんだかの報告をして、皆がなぜか安心する。


 夕刻、広場で名の遠橋を試す。屋根の鈴と地上の鈴を上下結びにし、蔵守が古い式を唱える。


「一で名乗り、二で笑い、三で置き、四で返す。五で忘れた者に席」


 屋根の上で誰かが小さく名乗る。「……レマ」

 地上で誰かが小さく返す。「レマ、返しました」

 名は橋。橋は帰路。ミレイの空気が、名前で縫い直されていく。



 その最中、路地の奥で名流なながしの白霧がまた立った。今度は霧の中から子どもが押し出される。胸に吊られた札に「没収済」。声が出ないように、喉に薄粉。

 面の若い係が帳面を掲げる。「規定により、名は共同管理へ移管」

 共同管理——名を誰のものでもないにしてしまう詭弁だ。


「返させて」

 俺は子どもに膝をつき、胸の前で一の形を作る。顎半寸、親指ひらく、目尻紙一枚。二で肩を緩め、三で首から提げた札を布の席へ置く。渡鈴の影が子の胸に落ち、四で胸に手。半拍遅れでもう一度。

 名預り帳の真正印が、子のページでやさしく濃く出た。

 面の係の金具は回らない。一枚目でしか働かないからだ。

 子どもの喉が、霧の外で空気を思い出す。声はまだいらない。形が先だ。


 シアンが白手袋で三を描く。周囲の騒ぎが止まり、殿下が木さじを水平へ。上席の男はしばらく無言で、やがて帳面を閉じた。


「……今日のところは退く。だが告示は残る」

「告示は読む。礼は続く」

 殿下の返しは短く、柔らかい。柔らかいものほど、時に強い。



 夜。宿の大部屋。小さな鍋に薄いスープ、固いパン。二で笑い、三で置き、四で返すのリズムで、遠征の胃にも拍が入る。

 蔵守が帳面を整え、鐘守が鍵束を撫でる。パズが報告を読み上げる。

「渡鈴設置 4/4、市鼓見習い +12(うち“形だけ名乗れた”が9)、名預り→返却 37/37、五の席利用 12。没収未遂 0(転換)」


「上出来」

 殿下がパンを割り、笑う。「明日は寺院跡に“名の講”を開く。一で名乗りの練習だけをやる日。声はまだいらない。形で十分」


 シアンが静かに頷き、俺の袖を半寸直す。目が合う。危ない合図は甘い合図に似ている。だが、名乗りは急所。礼が先だ。


「侍女騎士、シアン。——一で名乗る」

「王都外部支援士、ルグ・ハート。——一で名乗る」


 名を先に置くと、心はあとから来る。今日の遠征は、それを街で証明した。

 窓の外、遠くで遅れた拍子木が一つ——鼓手長ではない、別拍団の雑な遅れ。雑は、礼の上で滑る。

 胸裏に〈偽拍〉を一枚。重ねない。

 ミレイの四隅は鳴らずに鳴り、名の遠橋は常設になり始めた。

 次は寺院跡の講、そして告示の撤回へ。

 一で名乗り、二で笑い、三で置き、四で返す。五で忘れた者に席を置く。

 礼は深く、拍は平熱で、橋はさらに長い。

 盗む拍は、今日もどこにもない。

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