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第15話「隣郷(りんごう)への名借り、無名街道で」

――橋は長くなるほど、名前が要る。

知らない土地へ渡すときほど、名は先に行って道をつくる。


 朝、王都北門の前で遠征隊の並びを整えた。殿下は木さじを帯に挿し、蔵守くらもり渡鈴わたりすずの包みを背に、鐘守は鍵束を胸の内側にしまう。市鼓いちこから選ばれた十名、最前列にパズ。ジェイは泡立て器を杖みたいに担ぎ、エレーネは眠たげな目で香袋を点検していた。侍女騎士シアンは白手袋を締め、半拍遅れて俺を見る。危ない合図は甘い合図に似ている。だが今日は遠征日、礼が先だ。


「隣郷ミレイ。名消し(なけし)が流行っている」と蔵守。

「こちらの“名の借り返し”を伝える。――一で名乗り、二で笑い、三で置き、四で返す。五で忘れた者に席を置く」と殿下。

「更新間隔は?」とジェイが真顔で聞く。

「移動は四拍、休憩は一拍。五で水」と俺。

 笑いが一つ、軽く跳ねて列がほぐれる。良い出発。



 王都を出て半日、無名街道むめいかいどうに入る。石標は倒れ、道端のほこらには名が削られた札。風は名前を運ばない。呼ばれない土地は、音が長持ちしない。草むらの影で名消し粉が一度、二度と舞って、すぐ地面に沈んだ。濁りは薄い。だが、路傍の目が、名を呼ぶ準備をしていない。


「渡鈴、一つだけ先に据えよう」

 殿下の指示で、街道の曲がり角に鈴を低く置く。〈間合い指定〉を土の影に薄く敷き、鐘守が鍵束を打たずに撫でる。

「宮内楽寮 蔵守・タウロ。――一で名乗る」

「王都外部支援士 ルグ・ハート。――一で名乗る」

 名乗りが地面に沈まず、細く立つ。土の匂いが一拍ぶんだけ甘くなった。名は廊下を作る。そこを歩けば、余計な音に触れずに済む。


 丘陰から、無地の外套の男が二人、こちらを見ていた。胸元に札はない。目も、名乗る気配を持たない。足音は早すぎも遅すぎもしない――匿名に最適化された歩様。

「道案内を?」と殿下が声をかけると、二人は遅れて笑った。

「案内はしない。ただ、金で口を借りるだけ」

 名ではなく、金。悪くない取引だが、今日はこちらに名の橋がある。


「では取引を。名を貸してくれ」

 殿下が一歩前へ出る。男たちの笑いが止まり、顔色がわずかに浮いた。名を貸す文化が、この街道では失われている。


 俺は一人に名乗り札を差し出し、姿勢だけを教える。

「一で顎を半寸上げ、親指をひらき、二で目尻を紙一枚ぶん緩める。声は不要。形でいい」

 男は一度、無言でやってみせ、二度目にほとんど正確に真似た。骨が覚えるのが早い。

「名は――」

 しばらくの沈黙の後、男は三で置くみたいに言った。「……ロウ」

「ロウ、案内を頼む。礼を払う。四で返す」

「……ああ」

 彼は自分の名前が空気に立つのを怖がっている。怖いのはいい。名は刃にも盾にもなる。刃にしないための礼を俺たちは持っている。



 隣郷ミレイの外門。看板の名が削れている。掲示は絵だけ、酒場の旗にも文字がない。人々は互いを「おい」「そっち」と呼び、目が合っても名が渡らない。声が輪にならないから、噂が点で消える。

 門番に渡鈴の由来と訪問の意図を説明すると、無感情な目で一度だけ頷かれた。

「名は流行らない。トラブルの種になる。――必要なだけ、呼ばない」

 それは分かる。呼べば、責任が生まれる。呼ばなければ、責任が割れて消える。だが、割れた責任は、名消しが拾う。


「町の広場を借りたい。名の借り返しの稽古をする」

 殿下の申し出に、門番は肩で息をして「好きにしろ」と言った。言い方は素っ気ないが、通す。礼に対する反射は完全には死んでいない。



 ミレイ中央広場。市場の喧騒は、王都と違って角のない音だ。名で尖らせないから、音が丸く擦れる。渡鈴を低く据え、布の椅子を一脚、五の席として置く。蔵守が静かに宣言した。


「名乗りは強制しません。一で名乗りたい人だけ、形だけ真似してほしい。二で笑い、三で手にあるものを置き、四で返す。五の席は、忘れた者のために空けます」


 最初に来たのは、片耳に白い糸を巻いたパン売りの女。声はない。皿にパンを二つ、三で置く。俺は皿の向こうで一度だけ名乗りの形を作り、女は二で目尻を緩め、顎を半寸だけ上げた。

「名は、あとでいい」

 エレーネが囁く。女は頷き、四でパンの代金を受け取り、五の席を一瞬だけ見つめてから去った。

 次に、少年。目だけが忙しい。名乗り札を胸に当ててやると、形だけで名乗れた。

「……ぼ……」

 声は出ない。良い。形が先、声は後。

「市鼓見習い、やらない?」とパズが差し出した紐旗を、少年は三で置き、四で返した。まだ早い。けれど、届いた。


 そこで、広場の端から白煙が立った。名消し粉――より粘る、名流なながしの霧。呼ばれた名を薄めて流すやり口。霧の向こう、仮面ではないが無地の面をかぶった男たちが三人、木の棒を持って歩いてくる。棒の先には無名針が束ねてある。やっかいな掃除道具だ。


「名は、汚れじゃない」

 殿下が一歩前へ出る。

「でも、掃きたがる人がいるのも分かる。――だから、置き場を先に作る」


 俺は〈間合い指定〉を霧の上空へ一枚、二で肩をひらく合図を広げ、三で名を布の上へ置く道筋を示す。蔵守が渡鈴を高く掲げ、鐘守は鍵束を打たずに鳴らす。音は出ない。だが、名の形がひとところに集まる。

 無地面の男たちは、霧で薄まらない名に戸惑い、棒の先の針で布を突いた。針は布の席で鈍り、すべる。名の“置き場”は、刺さらない。


「やめなさい。五の席を増やします」

 殿下は広場の四隅に布椅子を置き、パズと市鼓が合図で人を流す。名を置く席が可視化されると、霧はむしろ役に立った。人は霧に向かって名を置きたくなる。

 無地面のひとりが棒を捨て、面を外した。顔は若い。目の縁に疲れ。

「……名は、怖い」

「怖いから、礼で包む」と俺。

 彼は三で面を置き、四で会釈を返した。止まれる人は、戻れる。


 残り二人は退いた。追わない。広場は今、名の余韻で満ちている。追撃は礼に反する。



 遠征の本来の目的――「名の借り返し」の作法は、午後のワークで伝えた。借りる側は一で名乗り、二で笑い、三で相手の名を置く手伝いをして、四で「返しました」を二度。半拍遅れの二重領収だ。

 ミレイの人々は、最初声を出さない。だが形は早い。形が揃うと、声は遅れて付いてくる。借り笑いと同じだ。


 夕刻。蔵守が渡鈴を高低に二つ据え、広場と屋根で名の遠橋を試す。

「一で名乗り、二で笑い、三で置き、四で返す」

 屋根の上で、誰かが小さく名乗った。「……ミナ」

 地上の誰かが、同じく小さく返す。「ミナ、返しました」

 名は橋、橋は帰路。ミレイの空気が、名前で縫われ始めた。



 宿に戻る道すがら、路地の角でシアンがふっと足を止めた。白手袋が空気に三を描く。止まれの合図。

 薄闇に、遅れた拍子木。鼓手長――ではない。別拍団。仮面ではなく、襟元に欠けた百合。宮内楽寮の古紋の欠片を黒糸で縫い付けてある。

「礼を簡略した連中の、子孫」

 エレーネが呟く。「本丸は、やっぱり名を嫌う」


 別拍団の男は、一で名乗らなかった。代わりに、無感情に告げた。

「通告。本日をもって“名の収集”を禁止する。違反者は、名を没収する」

 名を没収? 言葉が悪い。

「名は、持ち物ではない」と殿下。

「では器官か。切除は可能だ」

 男の言い草は最悪だった。礼の反対語が喉に引っかかった。


 俺は一歩、前へ出る。胸の裏に〈偽拍〉を一枚。重ねない。

「こちらの通告。王都式“名の借り返し”の伝習は続ける。五の席は増やす。没収に値する名は、ここにはない」

「根拠は?」

「礼」

 殿下が木さじを水平に置いた。男の瞼がわずかに震えた。礼が怖いのだ。礼は奪えない。返すしかできない。


 男は退いた。言葉が残る。「“王都の名”が増えるほど、注目が集まる。注目は、火だ」

 注目は火。だから水が要る。俺たちは五で水のルールを持っている。礼は、消火器でもある。



 宿の大部屋。簡素なスープに固いパン。鍋は小さい。王都の大鍋に慣れると、遠征の器は心細いが、薄いスープでも祝宴はできる。

 殿下がパンを二で笑いながら割り、三で置き、四で返す。

「明日、ミレイの四隅に渡鈴を。低・高・低・高。門番の許可は出た」

「市鼓、現地採用は?」

「今日、形の早かった子を五人。一で名乗れた人数も増えている」

 パズが胸を張り、ジェイが泡立て器で空を撫でて「名泡は順調」とか言う。うるさいが、指標の報告は大事だ。


 シアンが隣で静かに座る。白手袋の指が、テーブルの縁で半拍遅れに合図を刻む。

「……ルグ殿。一で名乗るの、慣れてきましたね」

「名は先に置く。心はその後に来る、らしい」

「心が遅れても、礼が支える」

 言い切って、彼女は視線を外した。危ない合図は甘い合図に似ている。礼を先に置けば、合図は全部甘くなる。困った長所だ。


 床に横になって目を閉じる前、胸裏に〈偽拍〉を一枚。重ねない。窓の外、遠くで遅れた拍子木が一つ。鼓手長のものではない。別拍団の、雑な遅れだ。

 王都の橋は長くなり、名前で縫われ始めた。

 明日はこの町に、四隅の名を立てる。

 一で名乗り、二で笑い、三で置き、四で返す。五で忘れた者に席を置く。

 礼は深く、拍は平熱で、橋はさらに長く。

 盗む拍は、やはりどこにもない。

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