表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

14/36

第14話「渡鈴、名乗りで結ぶ遠橋」

――礼の背骨に、名前が通った瞬間、都市は少し背が伸びる。


 翌朝。王城の作業台に、蔵守くらもりと鐘守が拵えた「渡鈴わたりすず」が並んだ。小ぶりの真鍮。玉鳴りは入っているのに、振っても鳴らない。代わりに、手に乗せると名乗りの形が掌にひらく。親指が半寸、薬指が紙一枚ぶん緩む――「私は○○です」と言い出す前の姿勢になるのだ。


「鳴らさず鳴る鈴」

 エレーネが眠たげな目で覗き込み、うっすら笑う。「音じゃなく名で橋脚を生やす。古いが賢い」


「四隅の据え方はこう」

 蔵守が図を示す。王都の四隅――北塔の陰、市場南角、風道西の丘、河原東の渡し場。鈴は低・高・低・高で置く。高さ違いが、時刻師じこくしの“水平濁し”を逃がす設計だ。


「名乗りのじゅんは、“一で名乗り、二で笑い、三で置き、四で返す”」

 殿下が木さじで机の角をトン、トン、止、トン。「名は先に渡す。敵は匿名で来るから」


 ジェイは泡立て器を肩に担ぎ、渡鈴を一つ手に取って親指をひらく。「名泡を立ててから置くの、好き」

「名泡って言うな」



 最初の設置は北塔の陰から。石のひさしに渡鈴を据え、〈間合い指定〉を薄く一枚、庇の影へ。重ねない。鐘守が鍵束を打たずに撫で、蔵守が短く名乗った。


「宮内楽寮 蔵守・タウロ。——一で名乗る」


 真鍮が鳴らずに背筋を鳴らす。俺は続けた。「王都外部支援士 ルグ・ハート。——一で名乗る」

 殿下、シアン、エレーネ、ジェイ……順に名乗りが通るたび、塔の影に細い橋脚が立った感触がある。影の温度がやわらぐ。名は、影に火を入れる。


 そのとき、階段下の隅で空気が微かに濁った。時刻師の薄粉――ではない。もっと粘る、名消し(なけし)粉。紙の角を舐めるように、名を曖昧にする嫌な香。


「来たね」

 エレーネが杖を軽く振る。「名消しは匂いで戦う。なら、こちらは形で返す」


「名乗り札」

 蔵守が取り出したのは、親指大の薄札。胸骨の前に当てると、身体が名乗りの姿勢を覚え直す。俺は札を市鼓いちこのパズに渡した。


「一で名乗って。大声はいらない。形でいい」


「……パズ、です。市鼓、一号です」


 彼の名乗りが、名消し粉の縁を食うほど真っ直ぐだった。粉は形に弱い。声より先に姿勢が通れば、曖昧は滑る。


「名消し、もう一袋」

 シアンの声。白手袋がふわりと跳ね、通路の影から投じられた粉袋に鞘の背を当てる。袋は三で置かれ、四で衛兵の網へ返る。刃は使わない。名乗りの場だ。



 二箇所目は市場南角。肉と香草の匂い、掛け声。ここがいちばん名が混ざる。渡鈴を屋根の梁に据え、名乗りの輪を小さく回す。女将が大皿を置いて言う。


「市場亭 アダ。今日も元気に二で笑う」


 市井の名乗りは、礼儀と商いの間にある。強すぎると売り込む臭い、弱すぎると逃げる気配。アダはうまい。渡鈴が鳴らずに鳴り、市場の喧噪の中で一本の“静かな道”が通った。


「名乗りは負債にもなるよ」

 エレーネが囁く。「名乗った分、返す約束が増える。——でも、返せる人にしか名は似合わない」


 そのとき、露台の陰の芝に、細い針が立った。無名針むめいばり。踏むと、足元の“名を呼ぶ反射”が切れる。時刻師の仲間、匿名師の仕事だ。名前を曖昧にする連中は、礼の敵。


「踏ませない」

 俺は〈間合い指定〉を芝に梯子で置き、三で置くの合図を散らす。パズが紐旗で合図を補助。「」。市鼓の二人が滑り込んで針を抜き、ジェイが泡立て器で芝を撫でた。細泡が針穴を可視化し、残りを拾い切る。


「匿名は盗みの友達。名前は橋の友達」

 殿下がそう言って笑い、渡鈴にそっと手を添えた。名は橋脚。言い切らずとも、形で立つ。



 三箇所目、風道西の丘。風見塔が鳴らない音で回り、丘の背骨に渡鈴を低く据える。ここは“遠橋”の要。外の風と内の拍が出会う。


「王女親衛隊・侍女騎士、シアン」

 彼女はいつも通り、背筋で名乗る。声は小さい。けれど風が礼を覚える。俺は続けようとして、一瞬だけ迷った。名乗りは急所だ。鞘が要る。


「王都外部支援士、ルグ・ハート」


 言ってしまえば、案外なんでもない。言わなければ、ずっと危ない。名は出すと守りやすくなる。出さない名は、狙われる。


 風の陰で、時刻師の影が二、三。彼らはもう、粉を撒かない。代わりに、**模倣名もほうめい**を小旗に刷って振っている。偽の名乗り。流し読みの目を奪う手だ。


「名は返しが要る」

 蔵守が低く言い、渡鈴の下で会釈をひとつ置く。名乗りと礼を二重に。偽名は礼の返しで崩れる。礼はただの型じゃない。領収だ。名を名として受け取り、返す記録。


「名は、領収書つきってことね」

 ジェイが泡立て器で空を撫でた。うるさいが、正しい。



 四箇所目、河原東の渡し場。昨日返礼を終えた場所だ。石の上で渡鈴を高く掲げ、蔵守が古い式次第で唱える。


「一で名乗り、二で笑い、三で置き、四で返す。五があるなら忘れた者に礼を置け」


「五?」

 俺が訊くと、蔵守は目尻を下げた。「古い式では、忘れた者のための“置き場”が必ず一処あった。礼の余白だ。名乗れない人のための席」


 殿下が頷き、渡鈴の下に布の椅子を置く。「王都の礼に“5の布”を戻しましょう。——忘れた者に、置く場所を」


 そのとき、葦の影から鼓手長が一人で現れた。仮面は昨日と同じ。足運びは遅れる。だが今日は、粉も太鼓もない。手ぶらで、丁寧に一で名乗った。


遠拍団えんぱくだん 鼓手長。……名乗りは、嫌いじゃない」


 シアンの指が、柄に触れて止まる。殿下は木さじを下げ、二でほんの少し笑った。

「ようこそ。**礼客れいきゃく**ですね」


 鼓手長は肩をすくめる。仮面の穴が、わずかに笑った。

「礼で殴られて、礼で返されて、礼で招かれた。奇妙な街だ。……昔の借りを返したらしいな」


「返しました。だから、あなた方の借りも、いつか返してほしい」


「借り?」

「注目です」

 エレーネが横からさらりと言った。「あなたが遅れて叩くのは、注目が欲しいから。——いつか注目を“渡す”日が来るなら、その時は、名で名乗って」


 小さな沈黙。風が渡鈴の縁を撫でる。鳴らない音が、胸の裏でいちどだけ跳ねた。


「考えておく」

 鼓手長はそう言い、仮面をわずかに下げて、三で会釈を置き、四で背を返した。礼を覚えた盗人は、敵でい続けるのが難しい。いい傾向だ。



 四隅の渡鈴が据わると、王都の空気が見えない糸で縫われた感じがした。角と角の間に、名の橋。遠橋は常設化し、笑いと置きと返しに名前が通う。


 鐘守が鍵束を撫で、蔵守が古い紙筒をひとつ俺に渡す。表題は「間合い礼・実用注」。頁の余白に一行。


〈名は先に置け。心はその後に来る。〉


 読んで、笑ってしまう。心の前に名。理屈っぽいが、橋脚としては堅牢だ。


「……ルグ殿」

 シアンが半歩寄り、白手袋の指で俺の袖を半寸直す。目が合う。一で、喉が名を呼びかける。危ない合図は、甘い合図に似ている。だが、名乗りは急所。礼が先だ。


「侍女騎士、シアン。——一で名乗る」

「王都外部支援士、ルグ・ハート。——一で名乗る」


 名を先に置くと、冗談はその後で自然に生える。

「今夜のあなた、先に名を置くので、やっぱりずるい」

「業務に支障」

「支障は出ない。強くなる寄り方だけ覚えたから」


 エレーネが咳払い。「甘やかしは一拍まで。次の稽古は“名の借り返し”。他所よその町に渡鈴を貸して、返礼の作法を伝える」


「外へ橋を伸ばすのか」

 ジェイが泡立て器で空を撫でる。「泡、世界仕様にする?」


「泡は現地調達で」

 殿下が笑い、地図の外へ木さじをすっと滑らせた。「次は隣郷りんごう。名消しが流行っている」


 王都の四隅が静かに鳴らずに鳴る。

 一で名乗り、二で笑い、三で置き、四で返す。五で忘れた者に席を置く。

 礼は深く、拍は平熱で、橋は長くなる。


 俺は胸裏に〈偽拍〉を一枚。重ねない。

 名を先に置いたら、心はあとからちゃんと来る。

 長い橋の向こうにも、きっと同じ手がある。

 盗む拍は、今日もどこにもない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ