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第13話「河原の渡、返礼は高低二度」

――礼は音より静かで、命より軽くはない。

返すだけの儀式なのに、街が全身で息を吸う。


 黄昏、王都の北を流れる大河の河原に立った。水面は薄い金、石は冷たい灰。ここが「わたし」——大火の夜、人々が肩と肩を並べ、橋の代わりになった場所だ。


 鐘守が鍵束を二音だけ鳴らして懐へしまい、殿下は木さじを水平に置く。市鼓いちこたちは紐旗を揃え、パズが最前列で胸を張る。布の橋が点々と敷かれ、救護席には水と布と笑顔が積まれている。工房の親方たちはハンマーを静かに抱え、酒場の女将はからの杯を持ち、巡礼の老人は鈴を布の上で転がした。


「返す二度打ち——街版。一度目は河原、二度目は屋根」


 殿下の声は風より低い。エレーネが香の袋を河原の石陰に置き、柑橘と焼皮の“借り笑い”が胸の形だけを整える。ジェイは泡立て器で目地を撫で、足裏にぷつぷつの合図を作る。俺は〈間合い指定〉を河原の石へ一枚、屋根の棟木へ一枚。重ねない。橋脚は少ないほうが、しなって折れない。


「返礼は礼から」

 殿下が最初に頭を下げる。無音礼。市鼓が続き、群衆が波ではなく会釈で揃う。礼が一面に立つと、風の骨格が見える。良い風だ。



 鼓手長は、来ないわけがなかった。河岸の葦の間で遅れた拍子木が一つ、二つ、三つ。黒衣が三人、そして仮面の男。足取りは遅れ気味、しかし崩れない。礼を知らない者の、よく訓練された無礼。


「王都の借りを返す夜に、よく来る」

 俺が言うと、鼓手長は仮面を傾けた。

「返し方を見物しにね。——そして、横取りできるならそれも」


 時刻師じこくしの粉袋を持った手下が、水面へ向けて袋口を振る。時間を濁す粉は水に強い。河は、時を運ぶからだ。嫌な相手に、嫌な道具。


「河へは撒かせない」

 殿下の目が細い。

「橋は高低で守る」


 鐘守が河原の石へ〈無音礼〉をそっと置く。俺は〈間合い指定〉を**粉袋の“少し上”**へ一枚。二で腕が上がり、三で“今は上げない”が身体に染みて止まる。シアンが白手袋で二歩詰め、鞘で手首を軽く叩いた。刃は使わない。礼の場だ。


 粉は風へ逃げ、香の橋の角に吸われて弱る。エレーネが眉をひとつ上げた。「香は匂いで戦わない。形で勝つ。——よし」



「第一返礼、河原の渡。返します」


 殿下の合図で、鐘守が鍵束を打たずに鳴らす。音は出ないが、街が鳴る。市鼓は胸を小さく叩き、三で杯を置き、鈴は布へ帰り、槌は抜きで肩を伸ばす。返した。河原の石の下を、水が一瞬だけ速くなった気がした。


「遅延、四で切る」

 鼓手長の仮面が、こちらの返却の直前を狙う。返礼は二度。一度目を切られても二度目がある。けれど——二度目は屋根だ。高みに手が届かない連中は、そこで焦る。


「第二返礼、屋根の列。ほんとうに返します」


 パズが紐旗を高く掲げ、子どもたちと若い者が梯子で屋根へ上がる。市鼓が棟木の上で会釈をそろえ、屋根瓦が一瞬だけ鳴らない音を出す。俺は〈間合い指定〉を棟の一点に置き、橋を細く通す。殿下が木さじを水平に滑らせ、鐘守は鍵束を胸で二音——遅れて鳴らした。二重領収の屋根版。やさしい遅れは、盗みにとっては罠だ。


 鼓手長は、そこを打てない。高さを濁らせる術は持たない。かわりに、河原の水平をもう一度濁す。時刻師の粉をもう一袋。水面がザワつく。群衆の足が半拍だけ迷う。


「——遠橋、上下結び」


 殿下の声が落ちる。俺は河原と屋根の〈間合い指定〉を一本、細く結ぶ。鐘守が鍵束を重ねずに鳴らす。音は出ない。だが、会釈が二段に重なる。下と上で同じ礼が起きると、粉は行き場を失う。時間は礼の上では滑らない。


 鼓手長の仮面穴が、針のように細くなった。

「礼で殴る、またそれか。……なら、礼そのものを盗——」


 言葉より速く、シアンの白手袋が三を示す。彼女の指が空気に印を切ると、止まれが辺りへ広がる。テンポシーフの副鼓手二人が、反射で止まった。止まれる者は、礼の端を知っている。だから、引かせることができる。


「やめなさい。礼は借りて返すもの。奪うものではない」

 殿下の声に、仮面の中の息が一つだけ乱れた。

「……詭弁だ。奪うほうが簡単だ」

「簡単は短い。返礼は長い。橋は長いほうが美しい」


 仮面が、かすかに俯いた。夜風が頬を撫でる位置。彼は知っているのだ。美と簡単が並ばない場所が、この世にはあることを。


「退く」

 鼓手長は短く言い、黒衣は風の谷へ散った。追える? 追える。しかし、返礼の余韻を乱すのは礼に反する。俺たちは追わない。河原の水が、静かに平熱に戻る。



 返礼の二度打ちは、河と屋根で完了した。市鼓は胸を二度軽く叩き、パズの顔が誇りでまるくなる。工房の親方は槌を置き、酒場の女将は空杯を伏せ、巡礼の老人は鈴の紐を結び直した。鐘守が鍵束をひと撫でし、蔵守くらもりが古い譜の断片を胸で抱く。


「——返却、受領」

 蔵守の声は河原に染みた。「百年前の借礼、王城より市井へ返還。これをもって、律祖の井戸は返却口を開ける」


 風が井戸のほうから変わるのが分かった。冷たさが薄れ、古い拍がひと呼吸ぶん、上へ動く。


「戻るのは、何?」

 殿下の問いに、蔵守は片膝をついて石を撫でる。

「多層礼の設計骨。——『間合い礼』の正式譜。礼を三で置き、四で返す、二で笑い、一で名乗る」


「名乗る?」

 ジェイが泡立て器を肩で跳ねさせる。

「礼の一に名乗りを置くのが古い式。対して“簡略派”は名乗りを省いた。誰の手から誰の手へが曖昧になって、拍が物になった」


 殿下が木さじを胸に当て、目を細く笑う。

「なら、王都は一で名乗るを取り戻す。——名乗り、笑い、置いて、返す」


 順番が、背骨に入った。俺は胸裏に〈偽拍〉を一枚だけ。重ねない。一で名乗る形を、肺のどこかに覚えさせる。



 帰路、河原に残った人の影が薄くなるころ、鐘守がそっと寄ってきた。

「もうひとつ、井戸から音のない鈴が上がるだろう。名は**“渡鈴わたりすず”**。遠橋に、名乗りを渡す鈴だ」


「名乗りを渡す?」

「橋の両岸で、同じ名を名乗り合うだけで橋脚が一本増える。古いやり方。あなたの若い礼に、名前の余白を」


 名前。余白。なるほど。拍は数で揃え、礼は名前で繋ぐ。いい。


 シアンが横で小さく咳払い。

「……今夜のあなた、先に名乗りたそうで、やっぱりずるい」

「業務に支障」

「支障は出ません。強くなる寄り方だけ覚えたので」

 半拍遅れて目が合う。危ない合図は、甘い合図に似ている。けれど、今はまだ「一で名乗る」を練習中だ。名乗りは急所だ。鞘に入れておく。



 王城に戻ると、蔵守が古庫から携えた筒を広げた。そこに記されていたのは、端正な筆で書かれた多層礼の設計。譜の余白に、たった一行。


〈返せぬ礼は、置いて謝れ。返せた礼は、名乗って笑え。〉


 殿下はその一行に木さじを軽く当て、王都の地図の四隅に小さな丸を描いた。

「ここに渡鈴を置く。四隅で名乗り合い、遠橋を常設。拍は若く、礼は深く」


 エレーネが眠たげな目で頷く。「敵は“名乗り”が嫌い。匿名は盗みの友だち。名前は盗みにくい」


「鼓手長は、次は都じゃないと言った」

 ジェイが泡立て器で空を撫でる。「外か、昔か、あるいは隣か」

「どれでも来いだ」

 俺は笑いの形を少しだけ借り、胸で一をそっと作った。名乗りの準備。返礼の余韻の中で、背骨はまっすぐになる。


 薄いスープ、鍋はさらに大きい。

 これからは——一で名乗り、二で笑い、三で置き、四で返す。

 王都はそれを、生活にする。

 拍は平熱に戻り、礼は深呼吸を覚えた。

 次の橋は、もっと長い。

 礼で渡る。名で結ぶ。

 盗む拍は、やっぱりどこにもない。

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