第12話「古い橋、律祖(りっそ)の井戸へ」
――祭りの余韻は、音より長い。礼で終えた夜は、朝になっても静かに鳴っている。
外輪夜行の明け、王城の執務室に押収品が並んだ。遅延太鼓の皮、時刻師の粉袋、そして何より問題なのは——古い真鍮の小札。手のひらに収まる大きさ、片面に欠けた百合、裏には小さな刻文。
「〈宮内楽寮・副紋〉」
鐘守が指先でなぞり、低く読んだ。
「百年前に廃止された部署の紋です。楽と礼を司る、いわば“王都の拍の母屋”」
「裏の刻みは?」
エレーネが拡大鏡をかざす。眠そうな瞼が一段だけ上がった。
「〈律祖の井戸/欠拍保管〉」
「井戸?」
ジェイが泡立て器を肩に担ぎ、首を傾げる。「泡は立たない場所だな」
殿下は札を掌に乗せ、指先で木さじを一度叩いた。小さな音が真鍮に吸い込まれ、室内の拍が半拍だけ澄む。
「律祖の井戸は、王都の北。古楽院廃墟の中庭にある……と伝わります。拍や礼の借り物を一時的に保管する“古い橋の倉”」
殿下の横顔に灯の白が宿る。「鼓手長は“次は都じゃない”と言いました。ならば——昔です」
「過去に渡る橋、ですね」
俺は札の縁を見つめた。真鍮の欠け目が、第三拍の穴の形に見える。置けば埋まる。置かなければ、風が鳴る。
「行こう。律祖の井戸へ」
殿下の決断はいつも短い。
◇
北門を出て、丘陵を抜ける。外縁の風は昨日より静かだ。市鼓たちが布の橋の点検をしながら「二で笑い、三で置く」を口ずさむ。拍は生活に溶けた。良い気配だ。
古楽院は王都から半日の地。瓦礫のアーチ、崩れた柱、蔦に覆われた回廊。中庭の中央に、円形の井筒がある。石の縁に古い譜面が刻まれていた。穴の底は暗く、冷たい風が上へ上へと逃げてくる。
「拍を“下げる”井戸」
エレーネが杖先で縁の符を撫でる。「波が落ち着く。取り出すには、橋が要る」
鐘守が鍵束を二つ鳴らした。井戸の縁に無音礼を一枚、俺は〈間合い指定〉を薄く置く。重ねない。殿下は木さじを軽く一撫で。空気は静かに沈み、井戸の底から遅れた拍が一つ、ふわりと浮かび上がった。
「記鈴」
鐘守が言った。「昔の礼を、音以外の形で留めた鈴です」
掌に載せると、鈴は鳴らない代わりに——姿勢を鳴らした。背筋が半寸のび、顎が紙一枚ぶん上がる。借り笑いの形に似ているが、もっと古い。礼の祖先の骨組みだ。
「これを盗んだ“誰か”が、今も城に影を落としている」
殿下の声は低い。「古い紋も、古い井戸も、王家の内と外の境だった。境の礼は、忘れられやすい」
「……待って」
シアンが白手袋の指で空気を割った。蔦の影、崩れた柱の向こう。遅い足音。遅れた拍子木が、草の先でかすかに鳴る。
黒衣が二。仮面なし。若い。井戸の縁へ灰の小袋を投げ込もうと腕が上がる。俺は呼吸を合わせ、二で目を細め、三で指を立てた。
〈間合い指定〉
袋は、投げられなかった。彼の肘が**“今は上げない”の正解に絡まれて止まる。シアンが二歩で間を詰め、短剣の鞘**で手首を軽く叩く。刃は使わない。礼の場だ。
「下っ端ね」
エレーネが袋を受け取り、粉を嗅ぐ。「時刻師の薄粉。“時間の角”を曖昧にする。井戸に投げれば、昔の礼が濁る」
「誰に命じられた」
殿下の問いに、黒衣のひとりは歯を噛んだ。だが、もうひとりは目を伏せ、「宮内楽寮の古庫で拾った札に従っただけ」と呟いた。自分の言葉の無礼に気づき、四拍目で肩を落とす。止まれるやつは、まだ戻れる。
「連れていって。古庫に」
殿下の声は穏やかだが、命令だった。
◇
古庫は楽院の地下。崩れかけた石段を下りると、湿った空気の中に古い木箱が眠っていた。蓋には百合の欠けた紋。返し金具に、王城の古い型——押収品の“紋の欠片”と一致する。
箱を開けると、紙片、記鈴、木札、そして——裂けた儀礼書。表紙に「一拍制」の三文字。鐘守の顔が歪む。
「悪い流行があったのです。百年前、礼を簡略して統一しようとした。『一拍で済ませよ』。複雑さを嫌う改革は美しく見えて、拍を殺す。宮廷の礼官がこれを推し、楽寮が割れて……」
「反対派が、拍を隠して井戸に預けた」
エレーネが記鈴を二つ並べる。「そして、賛成派がテンポシーフの祖になった。礼を削ることで注目を集める。遅れは目立つから」
儀礼書の隙間に、紙片がもう一つ挟まっていた。胸がひやりとした。王家の古い呼称が、そこに記されていたからだ。
〈王女エリイナ——拍の削除に異議。礼は橋。削れば落ちる〉
殿下は黙って紙片を受け取り、細く息を吐いた。目の奥で何かがほどけ、結び直された気配がある。
「わたくしの曾祖母の名です。エリイナ。——王家の中にも二つの拍があった。礼を簡単にしたい拍と、礼を橋にしたい拍」
「鼓手長の背後は、こっちの古い簡略派か」
ジェイが額を掻く。「悪い意味で効率が好きなやつら」
「確証はない。でも、橋は過去へ渡っている」
殿下は紙片をしまい、箱の底に手を滑らせた。小さな空洞があり、そこからさらに古い真鍮札が出てきた。刻文は短い。
〈返礼二度打ち、忘るるな〉
笑った。声は出さない。橋の祖先が、今の王都に同じことを教えている。礼は二度、拍は四つ、余白は命。
「……誰か来る」
シアンが囁く。井戸の上から、乾いた足音。数は少ない。二、三。遅れていない足運び。礼を知っている歩様。敵とは限らない。
階段の上に現れたのは、古い衣の男だった。年の頃は五十。目元には長い夜の皺、掌には礼の硬さ。衣の胸に、欠けた百合の紋。最近付け直した糸の色が新しい。
「宮内楽寮の残り火、**蔵守**だ」
鐘守が深く頭を下げる。蔵守も礼を返し、俺たちにゆっくり目を向けた。
「王女殿下。拍を守った夜、拝見しました。見事。——けれど、あなた方の礼は若い。昔の橋は、長い」
「教えてください」
殿下は頭を下げた。王女が先に礼を置く。蔵守の眉が柔らかくなる。
「律祖の井戸は、欠けた拍を預ける場所。返すのは、橋を渡り切ったとき。……百年前、礼官の一派が『一拍制』を推し、拍の多層を“過剰”と呼んで削りました。あのとき、わたしたちは多層の礼を井戸に退避した。いつか返す日が来ると信じて」
「返す日は、今でしょうか」
殿下の問いに、蔵守は小さく笑う。
「返したい。けれど、返す前に——借りが残っている。王家が未返却の借礼。それを返さない限り、橋は半分で折れる」
「借礼?」
俺は身を乗り出した。蔵守は箱からもう一枚、古い紙片を出す。そこには、短い文と紋章。そして、俺たちが昨夜交わしたのと酷似した言葉。
〈王城、鐘の返礼を一度省略。市井に借り——返却待ち〉
鐘守が目を閉じ、ゆっくり開いた。「……確かに記録はある。王都の大火の年、混乱の中で二度打ちができなかった。王城は市井から、拍の手を借りたままだ」
「返しましょう」
殿下が即答した。蔵守が頷く。「返す場所は、ここではない。河原の渡。大火のとき、人が橋の代わりに列を作って渡した場所」
「返礼の遠橋ですね」
鐘守の声が若い。「鐘を鳴らさず、街で鳴らす」
「今夜、準備します」
殿下が立ち上がる。「王都は祭りを終えた。だからこそ、礼を返す」
◇
帰路、丘陵の陰で、薄い霧が膝元を撫でた。時刻師の粉が遠くで撒かれている。鼓手長は引いたが、背後は動いている。エレーネが杖先で空気を掬い、「濁りは薄い。告知だね」と言った。
「告知?」
「『今度は昔を揺らす』ってこと。古い礼を汚して、新しい礼を嘲るつもり」
「嘲りは、笑いの形で滑らせる」
俺は言い、胸の裏に〈偽拍〉を一枚撫でた。「返礼は二度。無音礼で橋を渡す」
シアンが横で、目だけ笑う。
「今夜のあなた、先に謝るので、やっぱりずるい」
「業務に支障」
「支障は出ません。強くなる寄り方しか教えませんから」
危ない合図は、甘い合図に似ている。けれど、礼の準備は甘くない。細かい段取りと、余白の配分。ジェイが泡立て器で空を撫で、「泡は抜き気味で」と真顔で言った。そういうところだぞ、お前の有能さは。
◇
夕刻、王城の地図の上に赤い線が引かれた。河原の渡へ向かう道、風見塔の角に香の橋、布の橋、布マット、救護席。市鼓は五十名、旗を整え、合図を合わせる。鐘守は鍵束に二音を忍ばせ、殿下は木さじを水平に置く。
「返す二度打ち——街版。一度目は河原で、二度目は市井の屋根で」
殿下が指で屋根の並びを叩く。「返す位置を高低にずらす。時刻師は水平を濁らせるのが得意。高さは苦手」
「王家の借礼を返せば、井戸から何が戻る?」
俺の問いに、蔵守は静かに答えた。
「多層礼の設計図。王都の礼を、再び“橋”にする古い骨。あなた方の若い礼に、背骨が通る」
殿下の目が鐘のように明るくなった。拍は未来へ渡る準備を整え、過去へ伸びる。橋は二本、いや、幾本にもなる。
「——今夜、返す」
殿下は木さじを上げた。その所作は、夜風より静かで、鍛鉄より強い。
祭りは終わった。だが物語は、礼で続く。
借りて、渡して、返す。忘れていた借りは、昔のほうにある。
河原の渡で、王都はもう一度——無音で鳴る。