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第11話「外輪夜行、第三拍は置いて笑う」

――祭りの夜は、都市の体温が半度だけ上がる。

人は集まり、灯は増え、拍は跳ねる。跳ねすぎれば転ぶ。跳ね足りなければ眠る。ちょうどよく跳ねさせるのが、今夜の仕事だ。


 秋分祭。日没の鐘は鳴らさない——遠橋で鳴らす。鐘守が鍵束を一音、二音。俺は鐘楼の床へ〈間合い指定〉を一枚差し、殿下は木さじで空を二重に描く。工房街の香袋がそっと開き、柑橘とパンの焼皮が胸へゆっくり流れ込む。借り笑いの形が街じゅうに薄く仕込まれた。


 外輪の巡礼路、赤い布の帯が灯に照らされ、細長い川のように揺れる。要所の角には布の橋、風見塔の陰には香の橋。市鼓いちこたちは紐旗を肩に、二拍目で微笑、三拍目に置く、四で返すの所作を繰り返す。最前列のパズが、緊張と誇りの間で頬を上げた。


「いち、に、——おく、よん!」


 笑いは小さく、だが確実にやわらかい。杯が机にそっと帰り、鈴は布へ落ち、槌は抜きで肩を伸ばす。九割には届かない。八割七分あたり。ちょうどいい。余白は安全弁だ。


 そのとき、夜風が一段冷えた。音のない音色が、外輪のさらに外から滑り込む。遅れた拍子木が三つ、間隔をずらして近づいてくる。鼓手長だ。


「王都の新しい鼓手さん。——第三拍を、いただきに来た」


 仮面でも仮面でなくてもいい声。遅れて届くから、言葉が皮肉じみる。黒衣の一団が路の端に広がり、遅延太鼓を肩に抱えた男たちが拍を半拍ずらして刻み始めた。足裏に感じる地鳴りが、三で抜ける。波だ。群衆は波に弱い。端から崩せば、真ん中が勝手に沈む。


「予定通り」

 殿下が木さじを胸の前に立て、短く合図する。

「二拍目を守れないなら、一拍目に笑いを仕込む。三で置く。四で返す。——二重遠橋、起動」


 鐘守が合図、工房街の槌が抜きで応え、香袋が角に息を置く。俺は遠橋の床印を一枚、二枚と離れた地点へ置き渡し、外輪と中心を結ぶ細い音路を三本編む。橋は音ではなく、無音礼むおんれい——叩かない所作で立ち上がる。夜が一拍、ふくらんだ。


「——第三拍を、空ける」


 鼓手長の太鼓が抜きを強める。第三拍が道のあちこちで凹む。そこへ俺たちは物を置く。杯、鈴、槌、祈りの手、笑顔の形。置いた物が重石になって、凹みは庭石になる。転ばない石。


 黒衣の副鼓手が、別の策に移る。二拍目笑いの無効化符を燻らせ、香を濁らせる。香袋が負ける? 負けない。調香師ギルドは、香を場に置いている。風に乗せず、角へ溜める。香は匂いで戦わない。形で戦う。胸が自然にひらく借り笑いの手順は、声が要らない。


 遅延太鼓が四拍目へ牙を向けた。返す前に切る気だ。返却儀式を濁せば、橋は半分で折れる。


「返す二度打ち、全員——」


 殿下の声が灯の上でほどけた瞬間、市鼓が一斉に小さく胸を叩く。半拍遅れで、もう一度。返しました。——ほんとうに返しました。

 遅延太鼓の刃は、一度目で満足して滑り、二度目には空を切る。彼らの“遅れ嗅覚”は、そこで獲物を見失う。群衆の波頭が自重で落ち着いた。


「食い足りない顔だな、鼓手長」

 エレーネの声が夜気を裂いた。眠たげな目は今日は起きている。

「そっちは盗むだけ。こっちは渡して返す。礼が違う」


 鼓手長は遅延太鼓を黙らせ、こちらに歩み寄る。仮面は無造作な木。目の穴が笑っている。時刻師の粉を足裏にまぶし、地面の時間を濁しているのが見える。


「礼に礼。君たちの橋は美しい。だからこそ、一枚目を剥がしたい」


 彼は片手を上げ、仮面越しに俺を指した。遅れた指差し。

「ルグ・ハート。君の個人拍を、今夜だけ借りよう」


 空気が半拍、薄くなった。彼らは群衆の拍だけでなく、鼓手の拍も狙う。俺一人の拍を乱せば、遠橋の“根”に波が立つ。狙いは理に適っている。卑劣だが、頭がいい。


「借りるなら、橋を渡れ」

 俺は胸に〈偽拍〉を一枚。重ねない。

「川の真ん中で手を振るな」


 返歌の形で、こちらも一手を置く。〈間合い指定〉を自分の足元へ、半拍ずつ梯子にする。身体の中の二つのメトロノーム——心拍と呼吸——の噛み合わせを、逆に見せる。〈不一致強調〉を、一枚、自分に。気持ち悪い。だが、俺はもう慣れている。この気持ち悪さは、危ない合図に似ている。甘くはない。


 鼓手長の遅れた指が、半拍外れる。彼の“奪い手”は、相手の無意識に乗る。こちらが意識に引き上げてしまえば、掴む場所が減る。胸骨の裏で「置く」を一つ、深く。第三拍。俺は何も重ねない。空白を、礼にする。


 黒衣の隊列が、戦術を変えた。第四拍切断。返却の直前に群衆の足裏を抜く。段差は、小さくて鋭い。あれで転ぶのは老人と子どもだ。最悪の手。


「——遠橋、無音礼むおんれいで一度」


 殿下の声が刃の上を滑り、鐘守が鍵束を打たないで鳴らす。俺は床へ〈間合い指定〉を一枚、返す直前の位置に置いて、何もせず頭を下げた。王都じゅうで、一瞬の会釈が起きる。

 会釈は“叩かない”拍だ。重心は前へ、落ちない。四拍目に返す手は、下げた頭の途中で品よく止まり、礼が拍へ変わる。転ばない。むしろ、揃う。


 黒衣の列が、はじめてよろめいた。彼らに礼はない。礼の上では、拍は滑らない。


「礼の上じゃ、盗みは難しい」

 シアンが白手袋で半拍遅れに拍を刻み、短剣に触れないまま、一団の急所だけを目で突く。視線の礼。怖いが、美しい。


 押し切れないと見るや、鼓手長は仮面を一度だけ傾けた。

「王都は、いい楽団だ。……では、本丸へ」


 彼は踵を返し、遅延太鼓を遠ざけ拍に切り替えた。狙いは外輪の終点——夜行の終着、中央広場。そこには俺たちの二度打ちの鐘が待っている。奪うなら、最後の返却を奪う。…一本に絞ってきた。


「追う」

 殿下は木さじを握り直し、俺は遠橋の印を二枚だけ増やす。増やしすぎない。橋は多ければ強いが、重すぎれば折れる。エレーネが調香師に短く手を振り、香の橋を隊列方向に寄せる。ジェイが泡立て器で煤の目地を撫で、足裏のぷつぷつを増やした。パズが紐旗を高く掲げ、市鼓が道を開く。


 中央広場。高張り提灯が輪を作り、真ん中に返す台が据えられていた。板の上に刻んだ文言は、鐘守の手。〈返すは二度、礼は一つ〉。いい言葉だ。


 鼓手長は台の外側に立ち、仮面の穴からこちらを覗く。遅延太鼓が周囲で三を削る。観客の肩に小さな揺れ。だが、置くが先にある。揺れは庭石に変わる。


「返す二度打ち、鐘版——」


 鐘守が頷き、ロープを握る。俺は〈間合い指定〉を鐘の影に置き、殿下が木さじを水平に構えた。

 第一打。返しました。

 鼓手長の遅延太鼓が、遅れて噛みつく。満足した顔。

 第二打。ほんとうに返しました。

 遅延太鼓の刃は、もう働かない。

 鐘の音は夜空を割らず、地面から上がってくる。遠橋は、街が鳴る仕掛けだ。


 仮面の穴が、すこし細くなった。鼓手長は最後の札を切る。無礼打ち。礼の手順を逆相にして叩く。礼を汚す技。許せない。


「——無音礼、二重」


 殿下の声は静かだった。

 会釈を、二度。

 四拍目に返しながら、半拍遅れてもう一度、胸の前でごく小さく頭を下げる。

 礼が二枚、重なる。

 拍は盗めない。


 黒衣の列が崩れ、遅延太鼓が空回りする。鼓手長は退路へ体を向けた。シアンが踏み出す——短剣は抜かない。白手袋で三を示す。止まれ、の合図。彼は、一拍だけ止まった。止まれる男は、負けを知っている。


「お見事」

 仮面の内側で、遅れ気味の声が笑った。

「礼で殴られたのは初めてだ。今夜は引く。……次は都じゃない」


 仮面が月明かりに白く反射し、黒衣は風の谷へ散った。追える。追えるが——追わない。返す鐘の余韻が広場に残っている。今、それを乱すのは礼に反する。


 拍手が遅れて、厚くなった。市鼓の子らが胸を叩き、工房の親方が肩で笑い、酒場の女将が杯を置いた。巡礼の老人が鈴を布へ返し、ジェイが泡立て器で空を撫で、エレーネは杖の石突を打たずに床へ触れた。


「——終わり。王都の外輪夜行、完奏」


 殿下の木さじが下り、鐘守が鍵束をやさしく鳴らす。都市の体温が、半度だけまた下がった。拍は平熱へ息を返し、灯は一つ、また一つと小さくなる。


 シアンが俺の袖を半寸直し、目で笑う。

「今夜のあなた、先に礼を置くので、やっぱりずるい」

「業務に支障」

「支障は出ない。強くなる寄り方だけ、覚えたから」

 危ない合図は、甘い合図に似ている。だが今は、礼が先だ。


 広場の端で、鐘守が小声で告げた。

「押収品から——王城の古い紋が出た。鼓手長の後ろに、“昔の誰か”がいる。礼を忘れた古い手だ」

 殿下の目が細くなる。

「次の橋は、過去へ渡す」

 拍は貸し借りだけじゃない。遡ることもある。借りたままの礼を、昔の手に返しに行く。


 祭りの夜は、礼で終わる。

 薄いスープに大きな鍋。二で笑い、三で置き、四で返す。

 俺は胸裏に〈偽拍〉を一枚。重ねない。

 次の物語は、古い橋の向こうから始まる。

 第三拍は——置いて、渡した。

 盗む拍は、今夜もどこにもない。

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