第10話「遠橋二重、笑いは先に仕込む」
――祭り前の街は、張りつめた弦楽器だ。
強く弾けば切れる。弱すぎれば鳴らない。弦の張りは拍で調律する。
夜明け、鐘楼の上で薄い霧がほどけた。鐘守が鍵束を鳴らし、俺は床に〈間合い指定〉を一枚。昨日覚えた遠橋で、外輪と中心をつなぐ稽古の二日目だ。
「今日は二重遠橋をかける」
殿下が木さじで空をなぞる。
「第一橋は鐘の影。第二橋は香。——笑いを殺そうとするなら、先に“笑いの形”を仕込む」
香を使うのは工房街の調香師ギルド。きつい匂いではない。柑橘とパンの焼皮を混ぜた“空腹の手前”の香。二拍目で胸が自然にひらく。声が出なくても借り笑いになる。
鐘守が鐘の縁を指で撫で、俺は床へ薄い“しおり”を差す。〈間合い指定〉一枚。重ねない。殿下の木さじが一拍、二拍——鐘は鳴らないのに、街が返事した。酒場から乾いた笑い、工房の三連打の抜き、巡礼路の鈴の置く。一度に二本の橋がかかった。
「よし、午前はこのまま維持。午後は“二重領収”の手順合わせ」
地上に降りる途中、鐘楼の踊り場に細い白粉が落ちていた。香の原料ではない。もっと乾いた、石英粉。エレーネが指先で舐め、眉をひそめる。
「時間を“濁す”粉。**時刻師**が使うやつ」
「時鐘局の内勤に、まだ一人“穴”がいる」
殿下の声が硬くなる。
「鐘の拍を遅らせ、笑いの香の立ち上がりを“半拍だけ”鈍らせる……道具として最悪」
「見張りは?」
「二重で。鐘守に“鍵の鍵”を渡した。——ルグ、街へ」
◇
午前は市鼓と町々の借り拍の復習。酒場《青い水車》では、二で笑い、三で杯を置く。工房は三連打の置くが体に馴染み、親方たちの肩の角が丸くなっていた。巡礼路の角では、子どもと老人の間に布の橋。昨日より布を薄くしても崩れない。よし。
広場の隅で、ジェイが泡立て器を腕にぶらさげ首をかしげた。「香の橋、風向きが変わったら?」
「変わる。だから“場”に置く」
俺は香袋を柱や看板の影に結ぶ位置を指で示す。「人に掛けず、場に置く。風が乱れても、角に香が溜まる。二拍目に胸がひらく形だけ借りればいい」
「形を借りる、ね」
ジェイの目がやわらぐ。「詩みたいだ」
詩は武器にも橋にもなる。今日は橋で頼む。
◇
昼前、王城の廊下で侍女騎士シアンに呼び止められた。きっちり結んだエプロンの上、鎧の留め金に小さな絆創膏。昨日の塔脚の名残だ。
「時鐘局に“違和感”。紙束の角が全部、半拍遅れで揃っている」
「角?」
「はい。帳簿の折り目が、ほんのわずかにずれてる。癖でやるタイプの仕事」
シアンは静かに歩幅を合わせ、俺の袖口を半寸だけ直す。その触れ方の上手さが支援の入りを良くする。一緒に時鐘局へ。奥で机を叩く音が一つ、妙に湿っていた。
“局付き書記”の若い男がいた。指は綺麗で、インクの汚れも少ない。だが、紙束の角は言っていた。半拍遅れが好きだ、と。
「書記殿。午后の二重領収、局の掲示に混ぜた“返却済み印”の印影、見せてもらえる?」
殿下の口調はやわらかい。男は笑った。遅れて笑った。
「もちろん。王都の新しい鼓手様には、見せる義務がある」
出てきた印影は二種類。どちらも“返却済”。ただ、一方には極細の返し線があった。人目には見えない。遅れの線。二重のうち、一枚目を盗む罠。
俺は返却の所作を実演して見せ、半拍遅れてもう一度、胸を軽く叩いた。
「これが本当の二重領収。——あなたの印は、一枚目にしか反応しない」
男の指が机に触れ、三で止まった。止まれるやつは、頭がいい。だが、彼は四で笑わなかった。
「……やれやれ。詰めが甘かったか」
シアンの指が彼の手首へ。抜きの合図だけで力が抜ける。エレーネが机の下の粉袋を抜き取り、殿下が静かに言う。
「“遅れ”は美徳ではない。礼に反する」
局内がふっと冷えた。彼は抵抗をやめ、肩を落とす。
「拍を盗むのは、金ではないんだ。注目だ。俺は、誰かに振り向いてほしかった」
その正直さは、嫌いじゃない。ただし、やり方が悪すぎる。衛兵に引かれていく背へ、鐘守がぽつりと言った。
「橋を渡ってから言え。川の真ん中で手を振るな」
◇
午後、本題の二重領収の全市演習。市鼓パズが中央に立ち、赤い紐旗を振る。
「返すときは二度。半拍遅れてもう一度。——“返しました”、“ほんとうに返しました”」
酒場は杯を二度、音を立てずに置く。工房は三連打の抜きを二度。巡礼は鈴をいちど宙に止め、四で胸に戻す所作を二度。所作は小さい。小さいが、盗み手には大きい。彼らの“遅れ嗅覚”は一回目で満足して、こちらの本当の返却はすり抜ける。
ジェイが泡立て器で空を撫で、「二度泡を落とす」とか勝手に名付ける。なんでも名前をつけるな。だが浸透は早い。
そのとき、広場の片隅に旅芸人が一座で入ってきた。仮面、鈴、背負い箱。演目は「笑いを忘れた王都」。悪趣味だ。二拍目に皮肉、三拍目に嘲笑、四で逃げ笑い。笑いを殺す流儀。
「二拍目の笑いが無効になる仕掛け、持ってきたね」
エレーネの声が低い。
「いい。借り笑いで迎え撃つ」
俺は市鼓に合図。片手を胸、顎は半寸上げ、目尻を紙一枚ほど緩める。一拍目に笑いの形。二で声が出なくても、形は体に残る。三で置く。四で返す。
旅芸人の皮肉は、空回りした。観客は笑わない——笑っている形で、皮肉の刃が滑る。仮面の向こうの眉が跳ね、座の足が揃わなくなる。シアンが横から半拍遅れで拍を刻み、座はすべって退いた。礼だけは残して。
「皮肉も礼がなければ、ただの悪臭」
殿下が木さじを一度だけ打つ。広場の空気がふっと甘くなった。焼きたてのパンの匂い。香の橋だ。
◇
夕刻。最後の仕上げは一帯同時遠橋。鐘守が鍵束で合図、俺は床に一枚。殿下は木さじ、調香師は香袋、工房は槌、酒場は乾杯、巡礼は鈴——全部が半拍ずれて、一箇所に合流する。
鐘は鳴らない。だが、街が鳴る。
「八割七分」
殿下が小さく息を吐く。
「上げすぎない」
俺も笑う。「九割で止めよう。余白は安全弁」
「了解。——十分な余白」
殿下は空を仰ぎ、初秋の月に片手を上げた。月も、二拍目に笑っているように見えた。
◇
夜、城の回廊。灯が低く、床石が冷たい。訓練で汗の引いた身体に、静けさが染みる。シアンが並び、横目で俺を見る。
「今日のあなた、先に笑うので、少しずるい」
「業務に支障」
「支障は出さない。強くなる寄り方だけ、覚えたから」
言ってから、彼女はふっと目を伏せた。半拍遅れで、こちらを見る。危険な合図は、甘い合図に似ている。
俺は胸裏に〈偽拍〉を一枚だけ置いて、笑いの形をほんの少し借りた。盗まれないためではない。橋脚にするために。
エレーネが背後で小さく咳払い。「イチャつきは一拍まで。明日は“外輪の夜行”の最終設営。布の橋と香の橋の数を倍に。王都は大きな鍋、焦がすな」
「泡の管理はまかせろ」
ジェイが泡立て器を肩に担いで現れ、俺たちは同時に笑ってしまった。二拍目に笑う、正しい癖だ。
◇
就寝前、鐘守が廊下で待っていた。鍵束が二音鳴る。
「遠橋は、返すまでが橋だ。——明日、夜行の終点で“返す二度打ち”を頼む」
「二重領収、鐘の版」
「そう。拍は橋、橋は礼。礼がなければ、橋はただの板」
礼。今日いちばん重い言葉だ。俺は頷き、胸裏に偽拍を一枚。重ねない。眠りに入る前、窓の外で遅れた拍子木が遠くに一つ。鼓手長の返歌だ。
〈君らの橋は美しい。だが、第三拍は落ちる〉
落ちるなら、置く。置けるなら、笑う形を先に仕込む。返すなら、二度返す。
拍は、貸して、渡して、返す。礼を添えて。
秋分祭まで、あと一日。
王都の弦は、張りつめ、鳴る寸前だ。
切らせない。
切らないで、鳴らす。
そのために——先に笑う。