第1話「荷物しか持てない俺が、世界を持ち上げた日」
――冒険者ギルドの朝は、いつもパンの匂いとため息で始まる。
掲示板の依頼書は湿気で波打ち、俺の胃袋はきっちり折り目をつけられていた。理由は単純、隊長ヴァルドの口が今日も重いからだ。
「ルグ。悪いが……ここまでだ」
来たな、と思った。彼の視線は羊皮紙の角みたいに固い。俺は笑ってみせる。癖で、笑う筋肉だけはよく動く。
「荷返すよ。鍵も」
木の卓へコトンと二つ。倉庫鍵と、いちども使われなかった俺の期待値。
「火力が足りない。お前は悪くないが、荷運びだけじゃな」
「うん、知ってる。五年聞いた台詞だ」
それだけ言って、俺はギルドから出た。肩が軽い。いや、背中から“居場所”が落ちていった軽さだ。石畳がやけにまっすぐ見える。
俺のステータス欄には、誰も興味を示さないちいさな注釈がある。
〈支援効果、重複可〉
……冗談だろ、って最初は笑った。だって支援って“ひとり一発”が普通だ。上書きすれば前の効果は消える。俺のは、消えない。消えないけど、単発だと弱い。水で薄めたスープみたいな効き目だ。だから、黙っていた。
今日は違う。クビになった日に、人は実験的になる。
城門を抜けて、林へ。スライムでも叩いて気晴らししよう……と思った矢先、地面がドスンと鳴った。影、三つ。オークだ。筋肉の塊が牙を剥く。
「タイミングぅ……!」
逃げ道はある。けれど、ここで逃げたら“荷物しか持てない男”のラベルが骨まで染みる。俺は右手を掲げた。
〈速度:微〉
うすい光の膜が足首に絡む。足指が羽みたいに軽くなる。
〈速度:微〉×2。
世界の端がわずかに伸びる。葉擦れの音が遅れて聞こえた。
〈防御:薄膜〉
皮膚の表面で氷砂糖みたいな結晶感が走る。
オークの棍棒が唸る。初撃は避けた。肩に掠める重圧が、膜の上で丸く流れていく。
〈回復効率:小〉
胸の底にあった焦りが吐息に変わった。
「重ねれば、届かない」
自分に言い聞かせるみたいに呟き、俺はもう一層、速度を重ねる。三重、四重。視界のフレームレートが上がる感覚。二体目が突進、足元の根で半拍躓く。
そこへ――
〈遅延:微〉×3。
単発なら意味がない小細工が、三回重なるとリズムそのものを狂わせる。やつの踏み込みが、「今じゃない」になる。俺は横を抜け、三体目の脇腹に肩を入れた。
〈筋力共有:微〉
荷運びの裏技だ。相手の重量を“荷”と見なして受け、地面に返す。巨体がずしんと沈む。最初の一体が重なって、森に一瞬の静寂が落ちた。
ぱち、ぱち、と拍手が二つ。
「見事ですわ。——通りすがりの王女親衛隊より」
振り向いた先にいたのは、白銀の鎧に青のマント。胸章は王家の紋。先頭の少女が、金の髪を日差しにきらめかせながら一歩出た。目だけは落ち着いていて、年齢の数字と釣り合わない。肩書のほうが似合う眼差し。
「怪我は?」
「掠りです。すぐ引きます」
彼女は俺の指の動きを見ていたのだろう。薄く笑い、言葉を落とす。
「いまの支援、重ねましたね?」
心臓が、ほんの少しだけ裏拍で跳ねた。
「……見えてましたか」
「ええ。わたくし、感応持ちですの。数値が波で視える。あなたの効果、重ねるほど指数関数的。王国規格外」
親衛隊の騎士たちがざわつく。少女――殿下は手袋を外し、丁寧に名を求めた。
「ルグ・ハート。さっきギルドでクビになった、元荷運び」
「ルグ殿。王女親衛隊外部支援士として、正式にお迎えしたい」
差し伸べられた手に飛びつくのは簡単だ。だが、俺には片づけたい“後始末”がひとつ。
「その前に。今日俺を切った連中が、森の奥で大型依頼に行ってる。バフなしでぶつかれば、骨が折れるだけじゃ済まない」
殿下は一拍だけ考え、頷く。決断が速い。
「助けましょう。ただし条件をひとつ。現場で、あなたの“重ね方”を見せて」
「了解」
言い終える前に、足が走り出していた。王都の風が、さっきより軽い。
◇
森の陰影は濃くなる。親衛隊の足並みは音楽だ。俺は自分に〈速度〉を重ねながら、殿下と並走する。
「重ねる順番に定石は?」
「初手は速度。次に防御。三番目に回復効率。四つ目以降は敵次第」
「では、今回は五番目に〈視界安定〉を。――見えますか?」
殿下の言葉と同時に、視界の暗みが一段薄れ、獣道の跡が白い線で浮かんだ気がした。数息ののち、悲鳴。
開けた場所に出る。《赤獅子》が、大木より太い腕を持つ森鬼に追い詰められていた。盾が食い込み、歯が砕ける音が風に混じる。
「間に合う?」殿下。
返事はしない。代わりに、重ねる。
〈速度〉×5。〈防御〉×3。〈回復効率〉×2。〈視界安定〉×2。
世界の歯車が、俺の足に合わせて回りだす。ヴァルドの前に滑り込み、棍棒の軌道に“薄膜”を二枚、重ねて置いた。鈍い衝突音が柔らかく変わり、衝撃が地面へ逃げる。
「ル、ルグ……?」
名前を呼ぶ声は弱い。見下ろす目は羞恥で濁っている。俺は短く告げた。
「下がれ。無バフは、ここじゃ死ぬ」
ヴァルドは反射的に反論しかけ、王女の紋章を見て黙る。その沈黙が、俺にとっての最高のざまぁだ。
殿下が前へ。
「以後は王女隊が引き受けます。――ルグ殿、“重ね”を」
親衛隊十名に向け、印を切る。速度、防御、回復効率、視界安定、筋力共有。ひと巡。息を整え、二巡、三巡。空気が震えて、鎧の継ぎ目が“軽い音”を立てた。
森鬼が吼える。吼え終わる前に、殿下の号令。
「合わせて、三歩!」
十人が三歩で間合いに入り、刃が十の角度で同時に走る。重ねたバフは彼らを一つの“兵器”にした。森鬼の棍棒が遅れ、膝が先に折れる。巨体が土に沈み、振動が遅れて胸骨に届く。
終わりは、始まりより静かだった。
◇
帰路、ヴァルドは二度三度と振り返っては、結局何も言わなかった。言葉がないのは正しい。語られない敗北ほど、よく伝わる。
城門で足を止めると、殿下が手を差し出した。握手は短くて、強い。
「改めて、ようこそ。王女親衛隊へ」
「外部、ですよね」
「ええ。けれど、外にいても柱は柱」
どこか含みのある笑みだ。俺の背中が、今日いちばん重くなる。荷を降ろしたはずなのに、世界を肩に載せられた感覚。嫌いじゃない。
「明朝、王都の結界調整に同行を。あなたの重ね方がいる」
「結界にも、効くんですか」
「世界は多層ですのよ。重ねれば、軽くなることもある」
殿下の言葉は、俺の注釈みたいだった。〈支援効果、重複可〉。たった一行が、職を失い、そして職をくれた。
荷物しか持てなかった男が、支援を重ねて、国を持ち上げる。そんな大げさな物語、笑っていた。いまは、笑っていられる。
なぜなら今日、俺は見たからだ。弱い一杯を、十重にも二十重にも重ねた味を。薄いスープでも、鍋が大きければ祝宴になる。
さあ、逆転冒険ライフの初日だ。俺は明日の朝が待ち遠しい。