第06話 名前を呼ばないで
朝の光が差し込む部屋の中。
それは穏やかな光だったはずなのに、真奈はベッドの上で強く身を縮めていた。
――ぽた、ぽた、ぽた
水の音。
あれからずっと、消えない音。
耳の奥で、心臓と同じテンポで滴るように鳴っていた。
夢に現れた青年の影。
あの瞳。
あの聲。
彼は『思い出してくれて嬉しい』と言っていた。
けれど、その声音には喜びと同じくらい――いや、それ以上に強い執着が含まれていた。
――もう、わすれさせない
彼はそう言ったのだ。
居間へ降りると、祖母が味噌汁の湯気の向こうにいた。
その横顔にどこか緊張が宿っている気がした。
「……おばあちゃん、私、小学校のころ……一緒にいた男の子のこと、覚えてる?」
「男の子?」
祖母の手が止まった。
それはまるで、“思い出したくない何か”を探るような反応だった。
「……三上、翼くんって……」
名前を口に出したとたん、胸がひどく締めつけられた。
喉の奥に冷たいものが流れ込み、肺がうまく動かなくなった。
そして部屋の空気が、ふっと変わった。
祖母が真奈を見る。
その眼差しはどこか恐れているようでもあり、覚悟を決めたようでもあった。
「……あの子は、川で死んだんじゃよ。十一のときじゃ。真奈、覚えとる?」
「……覚えてない……でも、いたの。夢に出てきたの。今も、家の中にいるの……!」
仏間の障子が、ゆっくりと音を立てて開いた。
――きぃ……っ
風もないのに、何かがそっと滑り込んでくるような気配。
濡れた足跡。
畳にぽつりぽつりとついた跡が、仏壇の前で止まっている。
「翼くんは……私のこと、ずっと待ってたの……?」
祖母は目を閉じた。
やがて、ぽつりと呟く。
「……あの子は、真奈に恋しとったんよ。あの頃は、ただの友達だと思っとったんじゃろうが――」
「……恋?」
「そうじゃ。あの子は、雨の日も川で待っとった。真奈が来るのを……けどその日……あんたは来んかった。大雨で、川が増水してな……」
真奈の脳裏に、濁流の音がよみがえる。
泥水の底、ひとり立ち尽くす少年の姿。
――なんで こなかったの?
その聲。
昨夜、夢の中で聞いた言葉と同じ。
胸の奥が冷たい水に満たされる。
その水は、記憶の奥底に封じ込めていた“真実”を溶かし始めていた。
――あの日、自分は、彼を裏切ったのかもしれない。
その夜。
真奈は風呂場に立っていた。
鏡の曇りに、文字が浮かんでいた。
――やっと おもいだしてくれたね。
真奈の指が、その文字に触れる。
その瞬間、鏡の奥に『誰か』が立っていた。
青年の姿――三上 翼。
黒髪。白い肌。濡れた瞳。
真奈が最後に見た少年の面影を保ったまま、しかし、どこか幻想的で、異質だった。
そして、彼は声を出さずに唇を動かした。
「もう、わすれないよね」
真奈の背筋が凍る。
鏡の表面越しに、彼の指がそっと触れようとしている気がした。
狂気ではない。
けれど、それは確かに常軌を逸した愛だった。
ずっと待っていた。
死んでも、思い出されなくても、忘れられても――彼は、真奈を愛し続けていた。
その愛は、水のように。
どこまでもしみこみ、腐り、絡みつく。
真奈は震える手で鏡から指を離した。
が、その指先に――ぬるりとした“誰かの手”が、確かに絡まった気がした。
風呂場の電気が点いた。
鏡には、真奈の後ろに立つ『彼』の影が映っている。
そして――耳元に、柔らかく、濡れた聲が落ちた。
「まなちゃん……ずっと好きだった」
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