表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/7

第05話 濡れる音



 ――その夜、真奈は夢を見なかった。


 代わりに、『音』が耳の奥にへばりついていた。眠っているはずなのに、現実のように鮮明に、規則的に。


 ――ぽた、ぽた、ぽた


 水の音。

 それが天井からなのか、蛇口からなのか、あるいはどこか見えないところからなのか――わからなかった。

 けれど確かに、水が垂れるような音が、呼吸と同じリズムで鼓膜に染みてくる。

 夜中、目を覚ますと、時計の針は午前3時半を差していた。

 部屋の中は静かで、布団の中はどこか湿っていた。汗ではない。空気そのものが湿気を帯びていて、真奈の肌に水膜のようにまとわりついていた。

 起き上がり、洗面所へ向かう。

 誰もいない廊下が、やけに長く感じられた。

 壁にかけたカレンダーの紙が、風もないのにぴたりと揺れた。

 洗面台の蛇口を閉めたのは間違いない。だが、近づくほどに音が大きくなる。


 ――ぽた……ぽた……


 水の音が、耳元で囁くように鳴り続けている。

 そしてその時、背中に――視線を感じた。


 振り向けば、薄暗い風呂場の引き戸が、わずかに開いていた。


 電気は消えていて、内部は湯気もない。だが、その奥の空間に、確かに“人の気配”があった。


 立っていた。


 誰かが。


 小柄な影。細い輪郭。動かず、ただこちらをじっと見ていた。


 顔は見えなかった。

 だが、見られている。

 その気配だけが、濃厚に真奈の身体に絡みつく。

 唇が、かすかに動く。

 声にならない音――けれど、確かに聞こえた。


「……まな」


 瞬きをした瞬間、影は消えており、それでも、床のタイルに、ぽつぽつと濡れた足跡だけが残っていた。

 震える手で風呂場の戸を閉めたとき、真奈は気づく。自分の身体が、水に濡れたように冷えていた事に――呼吸が浅く、指先がかすかに震えていた。


 眠りについたあとも、音は止まらなかった。

 遠くから――まるで家の中を移動してくるように、水音は近づいてきていた。


 ――翌朝。


 空気はさらに重く湿っていた。

 夏の朝特有の熱気ではない、何かが水面から這い上がってくるような、陰湿な空気だった。

 風呂場へ向かったのは、無意識で、あの夜の『気配』を確かめずにはいられなかった。

 戸を開けた瞬間、真奈の足が止まってしまう。湯船に、水が張られていた。

 表面は微かに揺れ、湯気が漂っていた。

 まるで、ついさっきまで誰かが浸かっていたかのような温もりが、空間に残っていた。

 祖母が早朝から湯をためた形跡はなく、洗面器も椅子も整えられたままで、誰も風呂を使った様子はなかった。

 それでも、湯船には水が張られていた。


 真奈は、近づいた。


 床に水滴。

 濡れた足跡。

 そして、鏡。


 その鏡に――文字が浮かんでいた。


 曇りガラスの表面に、指でなぞったような線がゆらりと残っていた。


 ――まだ、わすれてるの?


 真奈は、はっと息をのむ。

 その筆跡に見覚えがあった。


 小学校のころ、交換ノートに記されていた文字。

 幼くて、几帳面で、でもどこか不器用な線。


 ――三上 翼(みかみつばさ)


 その名前が、脳裏をかすかにかすめた。


 だが、口にできなかった。

 呼ぶことが怖かった。


 なぜなら、思い出してしまったら。

 彼はきっと、来てしまうから。


 ずっとここにいた。

 水の音の中に、気配の中に、記憶の淵に――


 ――まな、まな、まな


 聲は、すぐそこまで来ていた。


 そしてきっともう、玄関の戸の外ではない。

 この家のなかに、彼はいるのだから。

読んでいただきまして、本当にありがとうございます。

「面白い!」「続き読みたい!」など思った方は、ぜひブックマーク、下の評価を5つ星よろしくお願いします!

していただいたら作者のモチベーションも上がりますので、更新が早くなるかもしれません!

ぜひよろしくお願いします!

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ