第05話 濡れる音
――その夜、真奈は夢を見なかった。
代わりに、『音』が耳の奥にへばりついていた。眠っているはずなのに、現実のように鮮明に、規則的に。
――ぽた、ぽた、ぽた
水の音。
それが天井からなのか、蛇口からなのか、あるいはどこか見えないところからなのか――わからなかった。
けれど確かに、水が垂れるような音が、呼吸と同じリズムで鼓膜に染みてくる。
夜中、目を覚ますと、時計の針は午前3時半を差していた。
部屋の中は静かで、布団の中はどこか湿っていた。汗ではない。空気そのものが湿気を帯びていて、真奈の肌に水膜のようにまとわりついていた。
起き上がり、洗面所へ向かう。
誰もいない廊下が、やけに長く感じられた。
壁にかけたカレンダーの紙が、風もないのにぴたりと揺れた。
洗面台の蛇口を閉めたのは間違いない。だが、近づくほどに音が大きくなる。
――ぽた……ぽた……
水の音が、耳元で囁くように鳴り続けている。
そしてその時、背中に――視線を感じた。
振り向けば、薄暗い風呂場の引き戸が、わずかに開いていた。
電気は消えていて、内部は湯気もない。だが、その奥の空間に、確かに“人の気配”があった。
立っていた。
誰かが。
小柄な影。細い輪郭。動かず、ただこちらをじっと見ていた。
顔は見えなかった。
だが、見られている。
その気配だけが、濃厚に真奈の身体に絡みつく。
唇が、かすかに動く。
声にならない音――けれど、確かに聞こえた。
「……まな」
瞬きをした瞬間、影は消えており、それでも、床のタイルに、ぽつぽつと濡れた足跡だけが残っていた。
震える手で風呂場の戸を閉めたとき、真奈は気づく。自分の身体が、水に濡れたように冷えていた事に――呼吸が浅く、指先がかすかに震えていた。
眠りについたあとも、音は止まらなかった。
遠くから――まるで家の中を移動してくるように、水音は近づいてきていた。
――翌朝。
空気はさらに重く湿っていた。
夏の朝特有の熱気ではない、何かが水面から這い上がってくるような、陰湿な空気だった。
風呂場へ向かったのは、無意識で、あの夜の『気配』を確かめずにはいられなかった。
戸を開けた瞬間、真奈の足が止まってしまう。湯船に、水が張られていた。
表面は微かに揺れ、湯気が漂っていた。
まるで、ついさっきまで誰かが浸かっていたかのような温もりが、空間に残っていた。
祖母が早朝から湯をためた形跡はなく、洗面器も椅子も整えられたままで、誰も風呂を使った様子はなかった。
それでも、湯船には水が張られていた。
真奈は、近づいた。
床に水滴。
濡れた足跡。
そして、鏡。
その鏡に――文字が浮かんでいた。
曇りガラスの表面に、指でなぞったような線がゆらりと残っていた。
――まだ、わすれてるの?
真奈は、はっと息をのむ。
その筆跡に見覚えがあった。
小学校のころ、交換ノートに記されていた文字。
幼くて、几帳面で、でもどこか不器用な線。
――三上 翼。
その名前が、脳裏をかすかにかすめた。
だが、口にできなかった。
呼ぶことが怖かった。
なぜなら、思い出してしまったら。
彼はきっと、来てしまうから。
ずっとここにいた。
水の音の中に、気配の中に、記憶の淵に――
――まな、まな、まな
聲は、すぐそこまで来ていた。
そしてきっともう、玄関の戸の外ではない。
この家のなかに、彼はいるのだから。
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