第04話 名前を思い出せない
夢を見た。
川の底――濁った水は濃く、重く、暗かった。その奥に、何かが沈んでいた。
少年の姿。白くて、細い身体。動かないのに、沈まず、ただそこに『いた』。
水中の闇が彼の肌を透かし、髪だけが幽霊のように揺れていた。
そして、眼があり――真奈は凍りついた。
その眼は、ただの瞳ではない、穴だった。
深く、深く、どこまでも落ちていく――感情も理性も溶かしてしまう、底のない愛情の穴。
見つめ返すことができなかった。
だが、視線は外せなかった。
眼が言っていた。
――ずっと見てたよ」
――まなちゃんしか見てなかった」
音はないのに、そう聞こえ――そして、その唇がゆっくりと動いた。
――……まな
その音だけが、水のなかでもはっきりと耳に届いた。
まるで水越しに鼓膜を愛撫されるように。
耳の奥で溶け、心臓の裏に染み込むように。
真奈は、吸い込まれそうになった。
水に、ではない、彼のその『想い』の深さに。
――それは怒りでも恨みでもなかった。
ただひたすらに、『一緒にいたい』という、純粋すぎて壊れた感情だった。
その瞬間、夢の中の水が動いた。
静かだった水底が揺れ、誰の手とも知れない白い指が、水の中から伸びてきた。
――おいで
――いまなら、まだ間に合うよ
真奈は叫び声とともに、目を覚ました。
その声は夢の中のものなのか、現実の耳元で囁かれたものなのか――もう、わからなかった。
――夢から覚めた瞬間、喉が焼けつくように渇いていた。
息が詰まる。肺の奥が苦しい。
室内の空気は、まるで水底のようだった。
動けば水圧に押しつぶされそうな重さと、湿った皮膜のような気配に包まれている。
真奈はゆっくりと布団を抜け出し、足元は冷えていない。むしろ、ぬるかった。
ひどく嫌な予感を胸に抱えながら、台所に向かう。
コップに水を汲んで口に含んだ瞬間、真奈は息を止めた。
水が――ぬるい。
常温ではない。まるで、誰かの手のひらを口にしたような温度だった。
すぐに吐き出し、コップを置いた。水滴が静かに、陶器を伝って落ちた。
手の平が震えていることに気づき、真奈は自分の胸を抱いた。
彼が――夢に現れた『あの少年』が誰なのか、どうしても思い出せない。
声も、仕草も、記憶には残っているのに――名前だけが、抜け落ちていた。
まるで、その部分だけを誰かに塗り潰されたように。
あるいは、思い出せないように、『意図して』隠されているように。
名前を呼んではいけない――そんな感覚が、喉の奥に引っかかっていた。
その違和感をどうしても拭えず、真奈はスマートフォンを手に取った。
連絡先をたどり、学生時代から付き合いのある知人――地元に残っている、数少ない旧友に電話をかける。
コール音が数回鳴ったあと、すぐに通話が繋がった。
「もしもし?」
「……あ、理沙? 真奈だけど……いま大丈夫?」
「あー、うん、平気だよ!どうしたの、久しぶりだね」
一瞬の間をおいて、真奈は少し迷いながら口を開いた。
「ねえ……小学校のころさ、私とよく一緒にいた男の子、覚えてる?」
「男の子? えーっと……誰かいたっけ……?」
言いながら、相手の声に少し困惑した色が混じる。
真奈は焦るように言葉を続けた。
「ほら、静かで……川が好きだった。髪がちょっと長くて……たしか……」
そこで言葉が止まる。
顔は思い出せる。声も記憶にある。でも、その『名前』だけが、どうしても口に出てこない。
「……でもさ」
電話口の声が、ふっと微笑むような調子で続いた。
「真奈って、昔から空想っぽいとこあったじゃん?『水の中に友だちがいる』とか、言ってたの覚えてるよ。あれ、たぶん……」
その言葉が、胸に冷たいものを落とした。
責めているわけじゃない。
けれど現実じゃなかったんだと静かに断じられるような声。
記憶が、すうっと現実から切り離されていく感覚。
「……違う。いたの。絶対にいたのに……」
真奈の声は、気づけば震えていた。
でも、相手はそれ以上何も言わず、少しだけ申し訳なさそうに言った。
「……そっかぁ……でも……名前は思い出せないね。ほんとにいたなら……なんでだろうね?私も……ごめん、わかんないや」
通話はそれで終わった。
だけど、それはひとつの『扉』を開ける合図――会話を終えたあと、真奈は気づいた。
部屋の空気が変わっている。ひと息ごとに湿度が高くなっていくような感覚、誰かが、戻ってきた気配。
ふと、窓の外に目をやった。
風もないのに、庭の草がゆっくりと揺れ、その奥に、小さな影が立っていた。
それは、確かに『見ていた』。
白い顔。黒い眼。感情のない表情。
ただ、じっと真奈を見つめる視線――その中には、怒りも恨みもなかった。
あるのは、ただ、忘れられたことへの深い哀しみと、壊れた愛しさ。
声は聞こえないのに、頭の中に音が落ちてくる。
――まなちゃん。まだ おぼえてないの?
それから、音が激しくなった。
蛇口は閉まっている。雨も降っていない。
それでも、耳の奥に響き続ける。
――ぽた、ぽた、ぽた
それは、濡れた足跡の音だった。
そしてその音に混じって、はっきりと聞こえるようになった。
――まな
――まな……
――まな、ずっと呼んでるのに
彼は、そこにいる。
記憶の底、名を呼ばれることを待ち続ける場所で。
そして、もし――思い出してしまったら。
もう、二度と、この場所から、逃げることはできない。
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