第03話 交換ノート
夜、眠れなかった。
襖の外で風が鳴く。柱の軋む音、水の流れる幻聴――けれど一番耳から離れなかったのは、水滴が落ちる音だった。
――ぽた、ぽた、ぽた……
まるで、廊下を濡れた足で歩く“誰か”が、すぐそばにいるような気配。
真奈はゆっくり布団を抜け出し、押し入れを開けた。
目的はなかった。ただ、何かを探さずにはいられなかった。
ざらついた埃、かびた毛布、使い古した文具箱――その奥から、湿った感触のする布張りのノートが一冊、手に取られた。
それは『交換ノート』だった。
「……こうかん、ノート?」
幼いころ、誰かと毎日のように回していた記憶がかすかに残っている。だが『誰と』だったか――その顔も声も、なぜか思い出せなかった。
ページをめくるたび、記憶の底に波紋が広がっていく。
――「ドッジボールで勝った」「給食にプリンが出た」
そんな幼い言葉の羅列。
やがて、文字が止まり、一度、そこでノートは終わっているはずだった。
だが――その先に、新たに一枚だけ、濡れたページが挟まれていた。
そこには、青インクでこう綴られていた。
――またあそぼうね ずっとまってるよ まなちゃん
文字は子どもの筆跡だった。震え、曲がり、線が滲んでいた。
インクが紙に染み込んだ痕。それは乾いた跡ではなく、今もまだ濡れている”ような手触りだった。
真奈はぞっとして手を引く。そのページの裏が、ほんのりと湿っていた――部屋に濡れたものなどないはずなのに、紙の隙間から『水分』が滲んでいる。
そのインクのにじみは、まるで文字そのものが泣いているように見えた。
胸の奥に、冷たい記憶の水が流れ込んでくる。
彼女は思い出しかけていた。
このノートの相手が、誰だったかを。
――男の子だった。
おとなしくて、あまり喋らない。けれど自分の隣を、いつも歩いていた。
川が好きだった。水を怖がらなかった。
ある日、彼は自分にこのように言った。
「水の中は静かで、誰も怒らない」
その『最後の言葉』を、真奈はどこかで忘れたふりをしていた。
ページの隅に、もうひとつ文字があった。最初は気づかなかった。
それは、小さく、赤いペンで書かれていた。
――どうして たすけてくれなかったの?
文字が視界に焼きつくと同時に、ノートがぬるりと湿った。
指先が、濡れた何かに絡め取られ、ただの水じゃない。温度があった。ぬるくて、粘りがあって、まるで、『誰かの掌』のような感触。
びくん、と真奈は指を振り払い、ノートを手放した。
畳の上に落ちたそれは、ぺしゃんという生々しい水音を立てて跳ね、まるで中身が水で膨れた生き物のように、柔らかく、重たく、沈んだ。
裏表紙から、じわじわと水が滲み出している。
畳にできた濃い水染みは、じわじわと広がっていき、まるで足元を囲むように伸びていく。
呼吸が、うまくできなかった。
肺の中に、水を吸い込んでしまったような錯覚、心臓が、誰かに握られたまま“ぐっと”潰されているような痛み、身体が軋み、鼓動がにぶい鈍器のように鳴る。
ノートを見下ろす。
赤い文字。滲むインク。湿り気。だがそれよりも、その言葉に込められた何かが、真奈の心の奥底を激しく叩いていた。
――あの子は、怒っていない。
怒ってなどいない。
責めてすら、いない。
ただ、私を忘れたことが、悲しかっただけなのだ。
忘れられたこと。
置いていかれたこと。
思い出してもらえなかったこと。
ずっと、待っていたのに。
ぽた、と水滴が落ちる音がした。
天井ではない。窓でもない。
真奈の足元――ノートの裏から、涙のように水が流れ出していた。
それはもう『水』ではなかった。
『彼』の、愛しさそのものの形をしていた。
歪んで、ねじれて、腐って、それでも『真奈ちゃん』と呼び続けてくれる愛。
――ずっと まってたんだよ
その聲は、もう紙の中ではない。
この部屋の隅々に広がり、畳の下、壁の裏、水道管の奥から滲み出していた。
――やっとまた会えたんだから、今度こそ一緒にいようね
それは囁きではなく、
約束の言葉のように、真奈の鼓膜を濡らした。
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