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第02話 濡れた足跡


 その夜、真奈は風呂場の脱衣所で、しばらくのあいだ動けずにいた。

 ガラス戸の向こう、湯気がもやのように立ちこめる浴室の中。照明にぼんやりと照らされたタイルの床に、何かがそこにいた証が残っていた。


 ――濡れた足跡。


 小さな素足の跡。左右ぴたりと揃い、鏡の前で止まっている。その姿勢は、まるで鏡の中を覗き込むように、そこに『立っていた』としか思えなかった。


 胸の奥に、冷たいものがすうっと落ちていく。

 誰かがいた? 

 ――いや、それともまだ『いる』?

 真奈は無意識に息を潜め、そっと手を伸ばして、ガラス戸を開けた。


 しゅわ、と湯気が外へ押し出される。それが彼女の頬に触れた瞬間、わずかにぬるい『何か』が肌を撫でたような気がした。

 浴室の中には、誰もいない。

 シャワーは止まり、水の音もせず、鏡の曇りだけが虚しく照明をぼかしていた。

 

 だが――床は濡れている。

 

 明らかに『誰か』が歩いた跡だった。乾いた場所と濡れた形の差が、くっきりと残っている。

 真奈は自分の足元を見た。まだ、脱衣所から一歩も動いていない。

 つまりこの足跡は――自分のものではない。

 ふと、視線が自然と鏡へ向かう。

 映っているのは、自分だけだ。だが、その鏡の奥――真奈は感じた。誰かがさっきまでそこにいた残り香のようなものを。

 空間の温度が、わずかに一箇所だけ『冷たい』。

 曇りの端に、なぜか“顔の跡”のような丸い輪郭が、かすかに残っている。


「……なんなの、これ……」


 ぽつりと落とした声は、湯気に溶けて消え、返事はない。だが、返ってこなかったことが、不自然だった。

 誰もいないはずなのに、今この空間が完全な一人きりではない気がした。

 足跡は、少しずつ薄れていった。

 けれど、真奈の背中にはまだ、何かが見つめているような感覚だけが残っていた。



   ▽



 翌朝、祖母のうたにそのことを話してみた。

 真奈が湯呑を手にしながら「昨日、誰か入ってた?」と切り出すと、祖母は茶箪笥に茶葉を戻す手を止めた。


「なんのこと?」


 とぼけているのか、それとも本当に知らないのか。

 真奈が浴室の足跡について話すと、うたは短く息をつき、静かに笑った。


「夢でも見たんじゃろう。疲れてる証拠じゃ」


「でも、濡れてたの。鏡の前に、子どもの足跡みたいな……」


「子どもなんて、ここにはもう誰もおらんよ」


 そう言って、うたはそれ以上何も言わなかった。

 ただ、背を向けたまま湯を沸かす手に、わずかな震えがあったように見えた。


 その日の午後。

 真奈は、家の中に染みついた古びた木と湿気の匂いに胸を詰まらせ、ふと外の空気が恋しくなった。祖母の家から裏道を抜けると、緩やかな坂道が川沿いへと続いている。

 歩き始めてすぐ、耳に馴染みのある音が聞こえてくる。 川の流れ。だが、それは真奈の記憶にあるものとは違っていた。

 音はたしかに静かだった。けれど、どこか詰まったような響き。

 水が何かに塞がれながら無理やり流れているような、鈍く重たい音。

 岸辺に近づくと、川は不自然なまでに濁っていた。

 泥、落ち葉、湿った枝――それらがまとわりつき、流れの底がまるで見えない。水面だけがゆるやかに揺れ、陽光をきらきらと跳ね返している。

 その時、川から少し離れた道端で、近所の子どもたちが三人、肩を寄せて遊んでいるのを見かけた。

 まだ小学校低学年くらいの男の子と女の子たち。縄跳びを手にしているが、それを使うでもなく、ただなにかを避けるように小さな声で話していた。


「川、行かないの?」


 真奈は気軽に声をかけたみると、子どもたちはピタリと動きを止めた。

 そして、一番年上らしい男の子が、首をゆっくり横に振った。


「行かないよ……あそこ、『水の神様』いるから」


 彼の声には、冗談めいた調子もなければ、いたずらっぽさもなかった。あまりに当たり前のことを言うように、真顔でそう言った。


「水の神様……?」


 真奈が聞き返すと、少年は無言で指をさした。

 その指先に、真奈は目を向ける。


 草むらの奥――そこに、小さな石の祠があった。


 あまりに自然に埋もれていて、気をつけなければ見逃してしまいそうなほどで、石は苔に覆われ、何が彫られていたのかも判然としない。ただ、そこだけ風の流れが止まり、湿気が溜まっているような気がした。


 ――川辺に風が吹いた。


 木々の葉がざわめき、空気がひやりと変わる。そして、水面が陽光を弾き返した瞬間――真奈は、確かに見た気がした。


 川の中。

 濁流の底、そこに人のような何かの影が立っていた。

 水の抵抗を受けることもなく、ただまっすぐにこちらを見ているように思えた。

 瞬きをしたときには、その影はもうなかった。

 真奈は一瞬、心の中で『気のせい』と呟くが、その言葉は、何の説得力も持たなかった。


 その日以来――真奈の耳から、『水の音』が離れなくなったのは。

 洗面所の蛇口が閉まっていても、台所の水音が止まっていても――どこかで、いつも聞こえている。


 ぽた、ぽた、ぽた……


 それは、水滴が落ちる音なのか、それとも、濡れた足で廊下を歩く音なのか、真奈には、まだ判断がつかなかった。

 ただ、その音は、誰かが少しずつ自分に近づいているように感じられたのだった。


読んでいただきまして、本当にありがとうございます。

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