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ゲオルギウスの怪物  作者: 異伝C
2/13

第二章 『過去も未来もなく』




あの後僕たちは津田家に警察を呼んだ。 事情聴取の後、取材を一旦中止し解散した。翌日、再び図書館へと足を運び、ナナミさんにも昨日あった出来事を話す。


「まさか……とても信じられないっス……」

「私も自分で見た光景だけど未だに信じられないでいる……」

「ニュースや新聞ではまだ取り上げられていないみたいです。 不可解すぎる事件だから、報道規制とかされてるんでしょうか?」

僕は昨日の一件からテレビのニュースやネットなどをチェックしていたが、今のところ関連のある情報は得られないでいた。


最初は半信半疑だったナナミさんも、ゼロ先輩が警察が来るまでにこっそりカメラで撮影した現場写真を見ると信じざるを得なという様子だった。 そしてその写真から、二階で固まっていた女の子は津田絵里本人という特定もできた。


「一体何があったんでしょう?」

ナナミさんがゼロ先輩に聞く。

「私だって知りたいヨ。 でも、想像もできない何らかの事象があったのは確か。 事件の被害者って言っていいのかはわからないけど、まるで石にされているかのように動かなくて、その実体も曖昧な存在になっていた」

「石ですか……まるでメデューサに睨まれた人間っスね」

ナナミさんは腕を組みながらそう呟く。

「メデューサって何ですか?」

「あらリュウジ君知らないの? 有名なギリシャ神話の化け物だヨ。 髪の毛が蛇で、そいつに睨まれた奴は石になってしまうっていうネ」

「ゴルゴーン三姉妹っスね。 化け物っていってもけっこう悲惨な過去があるんスけど」

「へえ」

生返事になってしまったのは仕方ない。 ナナミさんだってそんな者がこの現実世界に居るなんて本気で信じているわけではないだろう。

僕たちはそれから一通りナナミさんに状況を伝えると、図書館を後にした。


帰路に着くため、ゼロ先輩と帰り道の河原を歩く。 

昨日と同じ夕陽の色が、ショッキングな出来事を思い起こさせる。 そのせいか、道中は二人の間で会話らしい会話はほとんど無かった。


遠くに先日僕たちが登ったゲオルタワーがそびえ立っているのが見える。 夕陽の逆光に照らされ、ほぼシルエットになったゲオルタワーは塔にもロケットにも見えた。


地上高三千メートルの怪物タワー。 一番上の受電部周辺は赤い霧で包まれていた。

ゲオルタワー……。 

正式名称は『ゲオルギウス2120』。 通称ゲオルタワー、もしくはゲオルの塔と呼ばれている。 ちなみに下の数字は建造年を表している。

ゲオルタワーは、史上最大の『宇宙太陽光発電』施設だ。 

発電衛星からの太陽光のエネルギーを増幅しマイクロ波に変換した後、タワー受電部へ直接マイクロ波を照射してその太陽光エネルギーを電気に変換してこの都市へ膨大な電力を供給している。

システムが確立される前は、周りへのマイクロ波の人体の影響等の観点からこのような都市部で運用されることはそれまで無かったが、そこは技術の進歩。 街の北西の海上で百年前に建てられた『ヴィータ2050』の試験運用を経て、実用化された。


発電衛星からのマイクロ波の照射はまるでレーザーのように照射され、数ミリの誤差もない『Perfect.Range. Shootパーフェクトレンジシュート』……通称『PRS』システムが採用されており、都市部の運用における事故の心配は一切ない。

この都市はまさにゲオルギウスの恩恵を受けその均衡を保たれている。 そして他県都市部でも一部試運転が行われている。 この美鈴田区が本運転の第一弾というわけだ。


……と、そんな事を考えながらゲオルタワーを眺め歩いていると、ゼロ先輩が不意に口を開いた。

「ねえねえ、なんで夕方になると空がオレンジ色になるのかなあ」

「いきなり何ですか」

「いやね、ちょっと気になって」


多分……光の波長とかオゾン層が何たらとかいう理由があるんだろうけど、詳しく説明出来るほどの知識が無いので「さあ」とだけひとこと答えた。


「逢魔時とも言うんだけどね」

「おうまがとき?」

「難しい方の漢字の逢うって字と、魔物の魔に時間の時で逢魔時っていうんだけどね、この夕方の時間帯は」

「逢魔時……」

「そう。 昔の人は電気なんか無かったから、暗くなってくると向こうから歩いてくる人影が本当に人なのか魔物の影なのかわからないでしょ? だから昔はこの時間帯を逢魔時とも呼んでたってわけ」

「なるほど」

「実際暗いから、不吉な事も起こる。 ほら、交通事故の発生が一番多い時間帯もこの夕方なんだって」

暗くなって見え辛くなるためか。

「そう。 でも完全に暗いわけじゃないから大丈夫だろうって気持ちが事故に繋がる」

後は帰宅ラッシュでもあるから単純に交通量が多くなるせいもあるな。

「本来オレンジ色って、人にポジティブな精神的効果を与えてくれるらしいんだけど、今のこの空は、何だか不安な色に見えちゃうネ」

同感だ。 もっとも昨日の事があったせいかもしれないが、今は少し陰鬱な印象を受ける。 無理もない。


僕は再びゲオルタワーに目をやる。 すると目線の先の河原の向こう岸にゲオルタワーと同じく夕日の逆光に照らされシルエットとなった人が立っているのが見えた。

何気なく目に入った人影だが妙に心がざわつく。 僕はそのシルエットを凝視する。

遠くだったので背格好もおぼろげで男か女かもわからない。 

でも、その人物は僕を見ている……ということは、何故かわかる。 知り合い? あんな所に居て一人で何をしてるんだろう? 何故こっちを見ているんだろう? 

疑問が一気に押し寄せ、僕はそのシルエットから目を離せなくなった。

――そもそもあれは人なのか?


逢魔時。


さっき聞いたゼロ先輩の言葉を思い出す。

今、目の先に居る存在は人間ではなく、得体の知れない魔物ではないか?

わかってる。 妄想だ。 そんな事があるわけない。 少し昨日の出来事が刺激的で変な妄想に取り憑かれてるだけなんだ。 

必死にそう思い込もうとするが、疑念はどんどん湧き起こってきて僕の心の中は不安と警鐘が鳴り止まずにいた。


あれはもしかして――。


「リュウジ君!」

ゼロ先輩の声で我に帰る。

「あ、どうしました?」

「どうしました? じゃないヨ。 さっきから呼んでる」

「あ、すいません」

「え、ナニナニ? 向こう岸にビキニの姉ちゃんでも居た? どれどれ?」

ゼロ先輩は手をおでこに当てて岸の向こう側を見渡す。

「いや、そんな事は……ただ――」

僕はもう一度岸の向こうを見る。


居ない。 あのシルエットが居ない。


「アレ? おかしいな……」

目をこすりもう一度見てみる。 ……やはり何も居ない。

「リュウジ君大丈夫? ふむ、ちょっと疲れてるね。 無理もないサ」

「ゼロ先輩?」

 ゼロ先輩は僕の肩に手を置くと。

「今日は帰ったらちょっと寝な? 顔もやけに疲れてるように見えるし」

 そう心配そうに声をかけてくれた。

「そうします」

幻だったのか? けっこうハッキリ見えた気がしたんだけどな。



その後、僕はゼロ先輩と別れて家路に着いた。

玄関を上がり、台所に居るお母さんに「ただいま」と言って二階の自室へと向かうため階段を登る。 

途中で「ご飯もう少しで出来るよ」とお母さんに後ろから言われたが、「後で食べる」とひとこと伝えて自室へと籠り、ベッドへ横になる。


「ふう……」

ため息を吐いて初めて自分が疲れているということを自覚する。 しばらく天井を眺めていると、ガチャっと誰かが扉を開けてきた。

「ノックぐらいしろよ」

僕は扉を開けてきた人物に対して注意する。 


扉の方を見ると、僕の姉が立っていた。

「あれ? リュウ帰ってたんだ? ゲオルタワーに取材とか言ってたけど行かなかったの?」

「それはもう一昨日行ったよ」

「あ、そうなの? なーんだ……せっかくゲオルに行くなら土産でも見てきてもらおうと思ってたのに」

「残念、遅かったね。 それにそんな金は無い」

「でも昨日確か、明後日行くとか言ってなかったっけ?」

「え?」

昨日の事を思い出してみる。 確かに言った記憶はあるが、それは昨日ではない。

「昨日なんか言ってないよ。 てか話もしてなくない?」

「あれ、そだっけ? 私もボケてきたかな?」

「アンタ何歳だよ」

「二十歳」

何の茶番だ。


「てかさ、ご飯だぞ?」

「お母さんにも言ったけど、後で食べる。 寝かせてくれー」

姉は「早く降りてきなよ」とひとこと言うと、扉を閉めて下へと降りていった。


《――Should auld acquaintance be forgot, and never brought to mind Should auld acquaintance be forgot, and days of auld lang syne〜》


再びゲオルタワーの時報が流れる。 時計を見ると……十八時だった。



【翌日同時刻】


僕とゼロ先輩はハスミ姐さんの居る神社で落ち合った。 一昨日の津田家の事件をハスミ姐さんにも聞いてもらうためだ。 怪異アドバイザーとしては心強い味方だ。

石段を登りながら、僕は横に居るゼロ先輩に話しかける。

「ハスミ姐さんの神社、初めて来ますね」

「初めて尽くしだねえリュウジ君! 私は何回か来てるヨ。 リュウジ君は初詣とかはどこでやってるノ?」

「僕ん家、初詣とかしないんですよ」

「あ、そうなの? 私はいつもここでやってるヨ。 普段はあんまり参拝客も居ないけど、やっぱり初詣となると違うよねエ。 ハス姐も普段は手伝ったりしないけど、その時だけはハス姐の巫女さん姿も見れちゃうヨ。 気になるでしョ?」

「え、いや……」

気には……なるかも。 普段のクールなハスミ姐さんがどう様変わりするのか、うん、気になるぞ。 非情に気になるぞ!


「あー!? そんな鼻の下伸ばして! まさかよからぬ事を考えているなお主!」

 僕は鼻を手で隠す。

「いやいや! そんなこと無いですよ! てか伸ばしてません!」

「うんうんわかるよ。 全青少年の気になる所だもんねエ? あのハス姐がどんな巫女さん姿を披露してくれるのか……ふーむ、ムッフッフ!」

「気になってませんし! いつから僕は全青少年を代表するようになったんですか!」

「いやホラ君、雑誌部の黒一点ですから。 あ、ちなみに黒一点は紅一点の反対の意味ね」

「理由になってませんし!」

「本当かなあ? 実際のところどう思ってんの? わあ! ハーレムだワッショイ! とか思ってんでしョ?」

「ワッショイじゃないですよ! そんなことは断じてありまっせん! 僕は健全にみんなにエンターテインメントな雑誌をお届けしようと日々――」

「怪しい! 怪しいゾ! その反論するところ! いい加減認めたまえ君ぃ! ……ん? 何そのぐぬぬって顔は?」

「もう何を言っても無駄だって顔です」

「しょうがないなア。 そんなにハス姐の巫女さんを見たいならこの私ゼロ先輩が初詣一緒に行ってあげるよオ」

「いや、ですからハスミ姐さんの巫女さん姿は別に興味が――」

「何だお前!? この私のせっかくの愛の手を跳ね除けるのかア!? それでも青少年か貴様ァ!」

「ゼロ先輩、勘弁してください……」

そうこうしていると石段の最上段を登り、僕たちは鳥居をくぐる。

境内に入ると蝉の声が一際大きく聞こえ、植えられた木々の葉の揺れによる音が涼しさを呼び。 夏の蒸し暑さを少しだけ忘れさせてくれた。


ゼロ先輩は目の前にホウキで境内を掃除している巫女服姿のおばさんを見つけると、「おばさーん」と呼びながら駆けていく。 僕も慌てて後を追った。


「あらゼロちゃん! こんばんは!」

「おばさんこんばんは! リュウジ君、こちらハス姐のお母さん」

僕は頭を下げる。

「どうも。 以前ハスミ姐さんが居た雑誌部の部員の赤井竜司と申します」

「うわ! 丁寧な挨拶!」

ゼロ先輩が横から茶々を入れる。 ホントにこの人は。

「いえいえご丁寧に。 ハスミの母です。 いつも娘がお世話になってます」

お母さんもペコリと頭を下げて挨拶をしてくれた。 ハスミ姐さんに似て綺麗な方だ。

僕はハスミ姐さんの巫女姿を想像する。 

バチーン! そして顔を自分で平手打ちする。

ええいナチュラルに何を考えている僕! そんな妄想には屈しないぞ!

「どうしたのリュウジ君? 自分の顔なんかぶっ叩いて?」

「いえ、蚊がちょっと……」

僕は自分の頬をさすりながら言った。

「今日はハスミに会いに来たの?」

「ええそうです。 ちょっと聞きたいことがあって……」

「そう……実はハスミね……」

お母さんは言いにくそうに言葉を濁す。

「ハス姐がどうしたんですか?」

「数日前から様子がおかしくて……」

「え」

数日前……少なくともゲオルタワーでのハスミ姐さんはいつも通りだった、といっても僕はあの日初めて会ったのだが、ゼロ先輩との接し方からそう判断できた。


「数日前というと……ゲオルタワーから帰ってきた辺りからですか?」

ゼロ先輩が訊く。

「そう、なのかしら。 うんたぶんその後ね。 帰ってからしばらくして、自室に籠るようになっちゃったのよ。 でね、私や夫にありがとうありがとう大好きだよって仕切りに言ってきてね。 それこそ何かに取り憑かれているかのように……」

「それは……」

「ゼロ先輩、もしやゲオルタワーの一件で何か悪いものでも持ち帰ってしまったのでは?」

「有り得るかも……」

僕はいつもの電子メモ帳を取り出すと、お母さんに訊いた。

「お母さんには、霊感はありますか?」

「いえ、霊媒体質なのはハスミだけで、私や夫にはそういうのは何にも無いのよ」

「そうなんですか?」

「当たり前でしょ」

ゼロ先輩にどつかれる。

「神職の人みんなが霊感があるわけじゃないノ。 まあ時には親の霊媒体質を子が引き継ぐ事もあるけど、神職だからってみんながそんなわけない。 偏見も良いとこヨ」

いや、そこまでは言ってないわけだが……。

「そ、そうですか……すみません」

 とりあえず謝っておく。

「ハスミ姐さんはどうしちゃったんでしょう?」

「わからないの。 でも、ゼロちゃん達に会えば、あの子も元気になってくれるかもしれない。 案内するわね」

お母さんに案内され、僕たちは神社離れの家屋へと足を運ぶ。 


玄関を上がりハスミ姐さんの部屋の前まで来る。 お母さんは引き戸を叩く。

「ハスミ? ゼロちゃん達が来たわよ? 会える?」

しばらくの沈黙があり、中から「どうぞ」という声が聞こえ、お母さんは引き戸を開けて中に入る。

「どうしたのこんなにして……!」

お母さんの動揺する声が聞こえてきた。 

僕たちが入ろうか入るまいか迷っていると、ハスミ姐さんの声で「入ってきて!」と言われたのでうろたえながらも部屋に入る。


部屋の中はカーテンが締め切られて薄暗く、衣類や物が散乱していた。 

とてもあのハスミ姐さんのイメージとそぐわない部屋だった。

「ゼロ……」

ハスミ姐はベッドの上に項垂れて座っていた。 長い髪の毛を前に下ろしているので目元は分からないが、その隙間から見える頬からとてもやつれた様子が窺い知れる。

先日とはまるで別人のようだ……。


「ハス姐……」

「ごめんなさいねこんな散らかった部屋で……」

お母さんは僕たちに謝るが、ゼロ先輩は気にせずハスミ姐さんの傍に行き、その頭を撫でた。

「ハス姐……どうしたの? 何があった?」

「ゼロ……あぁ……来ちゃったね……」

ハスミ姐は顔を上げるとゼロ先輩の顔を見る。 露わになった目は泣き腫らしたのか充血していた。

「来ちゃった? どうしたの? 私たち来たら……まずかったかナ?」

「……」

ハスミ姐さんは答えない。 ゼロ先輩は努めて明るい様子で笑顔を作ると、部屋の中を見渡して締め切られたカーテンを見る。 

カーテンがユラユラ揺れているので、恐らく窓を開けているのだろう。


「ほらハス姐! こんな締め切った部屋に居るとそれこそ病んじゃうヨ? カーテン開けよう?」

ゼロ先輩がカーテンに手を伸ばして開けようとした時――。


「やめろッ!」


叫んだのはハスミ姐さんだった。 

……危ない。 危うく腰を抜かしそうになった。

ゼロ先輩もその声でビクッと体を震わせ、驚いてハスミ姐さんを見る。 ハスミ姐さんの顔は怒りや恐怖、悲しみが入り乱れたような、それはそれは酷い顔をしていた。


「ハ、ハス姐? 大丈夫だから……大丈夫。 何も怖がらなくて良いんだよ? ほら! 私たちが居るから、怖がらなくて大丈夫!」

ゼロ先輩はハスミ姐さんを抱きしめる。 

ハスミ姐さんはガタガタと身を震わせ、ゼロ先輩の体に身を寄せる。


「あぁ……ごめんね……ゼロ……」

「何が? 何も謝ることなんて無いよ。 どうして謝るの」

ゼロ先輩が優しく囁くように訊く。

「私ね……これでも……受け入れようと思ったけど……やっぱりダメ……だからね……」

「うん?」


「アイツが許せない……!」


背筋にゾッと寒気が走る。

何故ならそのひとことにとてつもない憎悪が込められていたからだ。


「誰が許せないって?」

「ねえ……ゼロ……あなた本当はわかってるんでしょ?」

「私が、何をわかってるの? 話してもらわないとわからないよ」

「ねえゼロお願い……! アイツを止めて……! 私まだこの世界に居たい! あんなに辛い世界に行きたくないッ!」

悔しさと恐怖を噛み締めるような口調で、ハスミ姐さんはゼロ先輩にすがる。 

とても悲痛な様子で、何が何だかわからなかったが僕も胸が締め付けられるような感覚に陥る。

これは一体なんだ? ハスミ姐さんに何か悪いモノでも取り憑いてしまったのか?


「お母さん、お父さん……ごめんなさい……ごめんなさい……」

僕の隣に居たお母さんがたまらず駆け寄る。

「ハスミ? 何も謝ること無いのよ? ほら、お母さんここに居るから、大丈夫よ。 いつまでも、ずっとハスミのそばに居るからね?」

お母さんはハスミ姐さんの手を取ると、その手のひらを自分の頬に当てる。

「お母さん……お母さん……」

ハスミ姐さんはもはや嗚咽混じりになり、言葉も辛うじて聞き取れるぐらいだ。

「ゼロぉ……嫌だぁ……嫌だよぉ……」

「何が嫌なの? 安心して? 何も嫌なことは無いから、ね? ほら! リュウジ君!」

ゼロ先輩は僕を手招きして呼ぶ。 え? ここで僕!? し、仕方ない。

半ば僕はやけくそ気味に三人の間から顔を出してハスミ姐さんに呼びかける。

「ほらほらハスミ姐さん! 大丈夫ですから! 僕もちゃんとここに居ますよ! ですから……元気になってください!」

なんと言ったら良いかわからなかったので取り敢えず気休めでもそう言っておく。 

うん、何も言わないよりはマシだ。


バサ! 

突風が吹いたのか、カーテンが大きく揺れて外の夕陽の灯りが差し込み室内がオレンジ色で染まる。


「あ……」

ハスミ姐さんは目を大きく見開き、僕を見る。

「え?」

僕の顔に何か付いている?

「あ、ああ……!?」

その顔はまるで世界の終わりが来たかのように恐怖に歪み――。


「アァァアアァァァァアアアアアアアッッッ!?」


絶叫。 それは鼓膜を破らんばかりの大絶叫だった。

ハスミ姐さんは絶叫しながらジタバタと暴れ、枕の下に手を突っ込むとあるものを取り出す。


包丁だった。


「ハスミ!? やめなさい!」

「ハス姐!」

ハスミ姐さんは包丁の刃先を自分の首元に近づけ、寸前の所でゼロ先輩とお母さんが手を掴んで止める。 しかし力が凄いらしく中々首から包丁を離せないでいた。

「リュウジ君ッ!」

呆然と眺める僕に向かってゼロ先輩が叫ぶ。 僕は我に帰り二人に加わる。

三人掛かりで包丁を喉元から遠ざけようとする……が、うまく引き離せない。

物凄い力だ……! これが女性の力なのか!? とにかくこのままではまずい!

僕は咄嗟にもう片方の手で包丁の刃の部分を掴む。 痛みを感じている暇はない。 

僕は手に渾身の力を込めて包丁をハスミ姐さんの手からもぎ取って後ろへ放り投げた。

「嫌だ! 嫌だ! 嫌だぁあああああああ!」

ハスミ姐さんは絶叫を上げ尚も身を乱暴に振り乱す。 必死に止める僕たち。

 

パシャリ。 瞬間――部屋の中で閃光のように眩い光が放たれた。


「……」


急に……静かになった? さっきまでの絶叫が嘘のように部屋に静寂が訪れる。

「……?」

そしてハスミ姐さんの力がふっと消え、僕たちの入れていた力が拡散される感覚。


「ハ、ハス姐?」

最初に異変に気付いたのはゼロ先輩だった。

ハスミ姐さんは恐怖に歪んだ表情のまま静止する。 何だ? 一体どうしたのか。

「ハス姐? ハス姐!?」

ゼロ先輩が何度叫んでもハスミ姐さんはその表情、暴れていた途中の姿勢から動かない。

あれ? これって……どこかで見た事が……。

僕たちはハスミ姐さんから離れる。 やはり……動かない。


――その時、僕たちは気づく。 

いや、本当は気付いていた。 後ろの異変に。


さっき突風が吹いてカーテンが開いた。 でもカーテンの開くほどの突風だ。 

風の音や木々の葉が擦れてバサバサと音がするはず。 

でもそんな音はしなかった。 よくよく記憶を辿ってみる。


カーテンは風で開いたんじゃない。 誰かが開けたんだ。 そう、シャーッて音だった。

僕たちはハスミ姐さんの発狂でカーテンは風で開いたと思い込んだ。 でも違う。

誰かが開けたんだ。 だってだって、僕たちの背後のカーテンは全開になって夕陽のオレンジ色が室内を照らしている。 遮るものは何も無い……はず、なのに。

……影が、ハスミ姐さんに一直線に伸びてるんだ。 

それは人の影。 そしてハスミ姐さんが見ていた僕の顔。 

違う。 僕を見てるんじゃない。 後ろの窓を見ていたんだ。

実際この動かないハスミ姐さんの顔は一直線に影の方向を見つめている……つまり!


……後ろに、誰かが居る。

カーテンを開けた誰かが後ろに居るッ!

「……!?」

ゼロ先輩は後ろへ振り返る……そして僕も振り返った。


そいつは居た。


夕焼けの太陽を背にし、逆光で半分シルエットになったそいつはそこに居た。

カーテンを片手で開け放ち、こちらを見ている。

詳細まではわからない。 何故ならそいつは真夏なのにフード付きのコートを着て、そのフードをもう片方の手で押さえて深々と被っている。


「誰!?」

ゼロ先輩がその人物に向かって叫ぶ。 


時間の止まったような室内はそこでようやく時を刻みだす。 その人物はカーテンを再びシャッと閉め、室内は再び暗くなる。

眩しい夕陽を見た後だったので、目が眩みさっきよりも一層部屋の中が暗くなった感覚がする。


「待て!」

ゼロ先輩は閉められたカーテンを再び開け放つ。 

……しかしそこには誰も居なかった。

それを見るとゼロ先輩は窓を飛び越え、靴下のまま外へ出てその人物を追う。

「ゼロ先輩!」

僕も追おうとするが、隣のお母さんが叫び出す。 僕は驚いてお母さんを見る。

「ハスミ!? ハスミ!? どうしたのハスミ!?」

一切動かないハスミ姐さんをお母さんが揺さぶろうとするが、それは不可能だった。

ハスミ姐さんは少しも動かせない。 その、恐怖に歪んだ表情のまま……。


《――Should auld acquaintance be forgot, and never brought to mind Should auld acquaintance be forgot, and days of auld lang syne〜》


何度も聞いたこの街の時報が鳴る。 僕はハスミ姐さんの壁に掛かった時計を見た。

時刻は十八時を指していた。



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