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11話 許嫁同士の再会

 雪は音もなく降り続いていました。

 国王執務室はどれくらいの間、沈黙に支配されていたのでしょう。


「あっ……」


 ふいに、暖炉でパチパチと火が爆ぜる音がして我に返ります。

 と同時に、私の世界に全ての音が戻ってきました。

 扉の向こうからはカンカンと剣同士がぶつかり合う音が聞こえてきます。

 ヒヨコと兄がまだ打ち合っているのでしょう。

 ガタッと大きく音を立てて、エミールが椅子から立ち上がりました。

 それを合図に門番の大腿骨を投げ捨てると、私は弾かれたように駆け出します。


「エミール!」

「アヴィス? 本当に、アヴィスなの!?」


 執務机に近づいて、ようやく彼の表情が見えました。

 その頬はすでに涙で濡れています。

 私の頬も濡れていました。

 執務机を回ってきたエミールの腕が、私を引き寄せます。

 そのまま胸に掻き抱かれ、力強い鼓動と命の温もりに包まれて、私はようやく安堵のため息を吐き出したのでした。

 きっときっと、さっき感じた不安なんて、気のせいだったのでしょう。


「エミール、エミール! あなたを置いて死んでしまってごめんなさい!」

「ううん! アヴィスのせいじゃない! アヴィスが謝ることなんて、何もないんだ!!」


 ところで、この寒さの厳しい北の大地にあるグリュン王国は、古くから貞節が重んじられてきました。

 婚前交渉などもってのほかで、生まれた時から許嫁同士であった私達でさえ、お互いにずっと清く慎ましく接してきたのです。

 だから今、骨が軋むほど激しいエミールの抱擁に、私は密かに戸惑っていました。

 顔中にキスの雨を降らされて、さらに戸惑います。

 けれど、最も私を戸惑わせたのは彼が続けた言葉でした。


「だって、アヴィスは戻ってきてくれたのでしょう!? もう、僕を置いてどこにもいかないよね!?」

「……っ」


 私はこの時、愕然としました。

 懇願するようなエミールの言葉に、どうしても頷くことができなかったのです。

 私がはるばる魔界からこの地界のグリュン城に戻ってきたのは、エミールが冤罪で幽閉されていると思ったから。

 幸いそれは杞憂に終わり、こうして無事再会できたというのに──私は生前のように、彼と一緒に生きていく未来を思い描けなくなっていました。

 それはきっと、私に死んでしまった自覚があるから。

 そして、この身体が魔王と魔物の血肉でできた紛い物であると知っているからでしょう。

 私はもう、エミールの妻にはなれません。当然、王太子妃にも、王妃にも。

 物心ついた頃からずっと思い描いていた未来が白紙に戻るのはあまりにも寂しいですが、しかし私にはどうしようもありません。


「アヴィス以外のことなんて、もうどうでもいい……アヴィスが側にいてくれるなら、僕はもう他に何もいらない……」


 エミールはなおも私を抱き締めたまま、涙に濡れた声でそう繰り返します。

 こんなに自分を必要としてくれる人の手を離すのは、あまりにも心苦しい。

 華奢だと思っていたエミールですが、こうして密着していると、彼も年頃の男性なのだと否が応でも思い知らされます。

 ヒヨコや兄に比べれば、やはり線は細いとは思いますが。

 それに……


(ギュスターヴは、もう起きたのでしょうか……?)


 ふいに脳裏に浮かんできたのは、魂だけになった私にこの新しい身体を与えた魔王の姿でした。

 今の私と同じ、銀色の髪と赤い瞳をした、やたらと尊大で馴れ馴れしく、そしてとても美しいひと。

 その鋭利な眼差しが、私に向けられたとたんに柔らかく綻んだのを思い出して、不覚にも恋しさのようなものを覚えました。

 許嫁の腕の中で別の男性を思い出すなんて、なんとも不誠実なことです。

 それを見抜かれたというわけではないでしょうが、私が気もそぞろなのを勘付かれたのかもしれません。


「……アヴィス?」


 エミールに訝しげに名を呼ばれます。

 私は慌てて、取り繕うような笑みを貼り付けた顔を上げ──


「……っ」


 とたん、凍りつきました。

 晴れた日の空みたいな色の瞳が、見たこともないくらいに冷たく自分を見据えていたからです。

 とっさに後退ろうとしたものの、背中に回っていた腕に阻まれてしまいました。

 そんな私をなおも温度のない目でじっと見下ろしていたエミールでしたが、やがてこちらの髪を右手で一撫でしたかと思ったら……


「……っ!? いたっ……!」


 突然、それを鷲掴みにしたのです。

 痛覚などないというのに、反射的に悲鳴がこぼれました。

 地肌が引き攣れ髪が軋み、私は思わず顔を顰めます。

 にもかかわらず、エミールは冷ややかな目をしたまま、抑揚のない声で矢継ぎ早に尋ねました。


「この髪は何? ねえ、アヴィス。これ、どうして違う色なの? アヴィスの髪は黒でしょう? ずっとずっと、そうだったよね? ねえ、どういうこと?」

「そ、それは……」


 エミールの鬼気迫る形相と、責めるような口振りに、たじたじとなった私は口籠ってしまいます。

 それに、ひどく悲しい気持ちにもなりました。

 兄は、どんな形でもどんな姿でも、私が生きているならそれでいいと言ってくれたのに、エミールはそうではないのでしょうか。

 居た堪れない気持ちになって、私は彼の視線から逃れようと顔を俯かせます。

 思いもかけないことが起きたのは、この直後のこと。

 突然、水をかけられたみたいに頭の天辺が冷たくなったのです。


「……え」


 何が起こったの分からず固まっていると、何かがこめかみや額を伝って垂れてきました。

 やがて顎の先まで到達したそれが、ポタリ、ポタリ、と音を立てて胸元に滴ります。

 繭色のワンピースが青黒く染まったことで、私はようやく、インクを頭からかけられたのだと理解しました。


 誰に?


 ──エミールに。



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