あたしは中国語を覚えたい!
結局ガフンちゃんは日本語の『あ』を覚えてくれただけだった。
っていうか覚えてくれたのかどうなのかもわからない。
とりあえず日本語の『い』は覚えてくれようともしなかった。
それだけが確かだった。
家に帰ると、ロビーでカクさんが新聞を読んでいて、自動ドアから入って来たあたしを見てにっこり、言った。
「お帰りなさい、アリサさん」
カクさんの顔を見たら悲しい気持ちがあふれ出した。
「カクさぁ~ん!」
カクさんの座ってるソファーに抱きついた。
「今日ね、ガフンちゃんと、喧嘩しちゃった……」
「おやおや。それはまた何故デスカ?」
「あたしがしつこく日本語教えようとしたら、うるさそうに『ア!?』って、言われた……」
「ああ。それは気にすることありませんヨ」
カクさんはにっこり笑った。
「台湾人は相手の言うことがわからなかった時にそう言うんです。『ア!?』ってネ。言い方がきつく聞こえるから日本の人からすると怒ってるように聞こえるかもしれませんガ、それ全然怒ってないデス。普通のことですヨ」
「そうなの? 本当?」
「本当デス。たぶん、単にアリサさんが何を言ってるのかわからなかったから、言っただけでショウ」
「カクさん、おいしいコーヒー、飲む?」
「イタダキマス」
待ってましたみたいにカクさんは言った。
今日は従業員のさおりさんがカウンターにいて、あたしがお願いすると喫茶コーナーへ行ってコーヒーを淹れてくれた。お母ちゃんはあたしが土曜日に診察を受けた病院に検査結果を詳しく聞きに行ってるらしい。なんともないってのに。
「ここのコーヒーは本当においしいですネ」
カクさんは心から嬉しそうにブラックコーヒーに口をつけた。
「アリサさん、私に聞きたいこと、今日は何かありますカ?」
うーんと考えて、
「ガフンちゃん、日本語全然わからないから、勉強ついて来れてないんです。なんで言葉のわからない日本の中学校に彼女の親は娘を入れたんだろう? って、思ってるんだけど……」
そんなことカクさんにもわかんないよなぁ、と思いながらも、あたしは聞いた。
「日本の中華学校は数が少ないですからネ」
カクさんはすんなりと答えた。
「主要な都市にだけ、しかも数えるほどしかありません。この町には少なくとも、ありません」
「じゃあ、なんで大阪とか東京とかに来なかったんだろう?」
「それは……わからないですネ」
そりゃそうだ。あたしは自分の頭を叩いた。
「あとね、ガフンちゃんに日本語を覚えさせたいの。どうしたらいいかな?」
「言ってあげたらどうですカ?」
カクさんはにっこり、言った。
「彼女に、『日本語覚える気ある? 覚えないと勉強ついて来れないよ? 覚える気があるなら私、教えてあげるよ』って」
「言っても通じないよ〜」
「だから、中国語でそれを言うんですヨ。教えてあげますから」
「本当?」
あたしは嬉しさにぴょんと跳ねた。
「覚える! 教えて?」
するとカクさんの口から奇妙な言葉が飛び出した。
あたしには最初のほうの「にぼし、シュークリーム、ジーパン」ぐらいしか聞き取れなかったし、たぶんそれは空耳だ。
「長いし、難しすぎるよ! 覚えらんない!」
あたしが言うと、カクさんはうなずきながら、
「難しいでショウ?」
コーヒーを啜って、言った。
「彼女も同じぐらい、日本語が難しいんですヨ」
なるほど、と思った。
「ゆっくり、時間をかけるしかないでショウ。毎日の生活の中で、少しずつ覚えて行くしかないんだと思いますヨ。もちろん、その上で、アリサさんが教えてあげれば、さらに上達は早くなると思いマス」
「カクさんはどうやって日本語喋れるようになったの?」
「私は日本語学習歴20年ですからネ。逆に言えば20年やっててもこんなにカタコトです」
「最初はどうやって覚えたの?」
「27歳の時、初めて日本に来ました。この町にネ。日本の技術を学ぶために。その頃は日本語はまったくわかりませんでしたガ、何しろ必要でしたからネ。日本人に囲まれていて、日本語がわからないんじゃ、何も出来マセン。だから日本語学習の本をがむしゃらに読んで、積極的に日本人にわからないことを聞いて、そうしたらいつの間にか話せるようになってました」
「ふうん」
あたしはソファーの肘掛けにもたれて、心から言った。
「凄いなあ……」
「あっ。あとね、ちょうど中国語を勉強している日本の人がいたんですヨ。その人と交換学習みたいなのをやっていました。お互い、簡単な言葉なら相手の言うことがわかるんで、あれははかどりマシタ」
「それって、女の人?」
あたしはニヤニヤしながら聞いた。
「今の奥さんとか?」
「男性ですヨ。もう長いこと連絡も取っていませんネ、そういえば」
そう言ってカクさんは天井を見上げてから、あたしを見て笑った。
「女の子はすぐに恋愛に結びつけたがりますネ、残念でした!」
「あたしもガフンちゃんとやろっかな……交換学習」
思いつきで言った。
「おっ。いいかもしれない。お友達が自分の国の言葉を覚えてくれようとするのはお互い、嬉しいものですからネ」
「あっ、そうだ。カクさん」
あたしは思い出したことを聞いてみた。
「『ざまぁねぇ!』ってどういう意味?」
「ざまぁねぇ……?」
カクさんが固まった。
「ざまぁみろ、みたいな意味では?」
「日本語じゃないの。ガフンちゃんが言ったんだよ」
「どういう時に言いましたカ?」
「こうやって、あたしが自分の名前を書いて……」
テーブルにあったアンケート用紙に鉛筆で『須々木有紗』と書く。
「この文字を指さして、『ざまぁねぇ!』って」
カクさんはしばらく考えて、ぽんと手を叩いた。
そして、言った。
「ざまぁねぇ」
「それだーっ!」
あたしはつい、カクさんを指さしてしまった。
「なんて言ってんの? どういう意味?」
カクさんは鉛筆で漢字を書きながら、ゆっくりとした発音で教えてくれた。
「怎麼念と読みます」
「意味は?」
「『どう読みますか?』デス」
「合ってたー!」
あたしは思わず立ち上がり、ガッツポーズをした。
「あたし、凄い! あの時、全然わかんないのに意味、当てちゃった!」
「ふふ。連れてらっしゃいヨ」
「え?」
「お家に遊びに来ない? って、誘って、彼女を連れて来て下さい。私が通訳になってあげますヨ」
そうか!
カクさんがいれば、ガフンちゃんと会話が出来るんだ!
気づいたあたしは嬉しさに飛び上がった。
「うん! 連れて来る! 『カム・トゥー・マイ・ハウス……プリーズ』って言ったらいいかな?」
「どうせなら中国語で言ったらどう?」
カクさんはにこにこ笑った。
「簡単だから。教えますヨ?」
「どんなの?」
「來我家玩吧」
「鍵をうじゃー、ワンパン?」
「なぜ『鍵を』になります……?」
「わかんない。なんかなっちゃったの」
「あ、やっぱり『今日』をつけましょう。『今日、私のお家に遊びに来ない?』だと『今天來我家玩吧』デス。はい、言ってみて?」
「ちんとん、鍵をうおーって、ワンパン」
「……先は厳しそうですネ」
あたしはカクさんに発音を聞いてもらって、何度も繰り返し練習した。
最初は「まったくダメです」ばっかり言われてたけど、なんとか「もしかしたら通じるかも」と言ってもらえるぐらいには上達した。
よーし、明日、これをガフンちゃんに言うぞー!




