9 過剰な感情
「うっううっ!おいしいです…!ぐす、ブイヨンが、濃厚で…!お肉も柔らかい…こんな素敵なスープ、初めてです…!」
嬉しすぎて、感激し過ぎて、私は泣きながら夕食を食べていた。泣き止みたくても止まらないのだから仕方ない。供される料理をひたすらに「おいしいおいしい」と言っては泣く。私は今、自分がどういう状態か、客観的に見ることができなかった。
「料理番にご様子を伝えてきました」
「どうだった」
「泣いてました」
スピカ様とディールさんが笑いながら話している。笑顔の溢れる家なのだなと思うと、また感動して涙腺が緩む。
例のお姉さんメイドが時折、私に優しくおかわりを勧めてくれる。彼女はメイド長で、ロゼットと言うらしい。
「たくさんありますから。いくらでも召し上がってください。作っている者も張り切っています」
(優しい~~~~~)
「このジャガイモ、すごくホクホクで、甘くって、何ておいしいのでしょう…!」
「玉ねぎとキャベツでこんなにコクが出るなんて!」
「お野菜のグラタン、熱々なのに、食感が残ってシャキシャキと…!」
とにかく感謝を伝えたい。私は頬張りながら必死に語った。そんな私をスピカ様も、ディールさんも、ロゼットもどんな顔をして見ていたのか、私は自分のことに精一杯で分からなかった。
盛大な夕食が終わると、ディールとロゼットはスピカに呼ばれて主の部屋を訪れた。
「ベガ様をお部屋にご案内してきました」
「ご苦労様」
「それで、お話しとは」
スピカは「うん」と頷き、二人に向き合う。その表情は、先ほど夕食のときに見せていた朗らかなものとは異なり、凛とした静けさを湛えていた。ディールとロゼットは背筋を伸ばす。
「彼女の事、どう思う」
主からの難しい質問に、二人の従者は顔を見合わせた。
「我が領で育った作物をあんなに褒めていただけて、光栄でございました」
ディールが答えると、スピカは「そうだな」と返し、ロゼットの言葉を待った。ロゼットは「そういうことを聞かれているのではない」と察し、率直な意見を表した。
「予想しない方でした。普通のご令嬢でしたら、きっとあんなことでは泣きませんし、あんなに喜びません」
冷静なロゼットらしい感想だった。スピカは座っていた椅子をギシリと鳴らし、立ち上がる。月明かりを集めて、金色の目が光った。
「お人柄かと思いましたが、些か過剰です」
モノの言い方が無礼ではないかと、ディールはロゼットを小突いたが、スピカは咎めることなく窓の外を見ながらため息を吐いた。
「…結婚を、先伸ばそうと思う」
唐突な重大宣言に、ディールとロゼットは目を見開く。
「若様、予定では来月の…」
「うん。だが、まだ時期じゃないと思うんだ」
「しかし、そうすると…若様は王都に戻られてしまいますが」
冷や汗をかいているディールに向かって、スピカは何の気後れも無く「そうだな」と答える。
「彼女にはもう伝えてある」
「え」
「ここに残ることに了承してくれた」
「は」
「ここで色々学ぶといい。私が王都に発ったら後は頼んだ」
主の珍しく強引な命令に、執事とメイド長は顔を青くする。しかし、こうなったら逆らう術も理由もない。冷たささえ感じるスピカの落ち着いた声に、二人は頭を下げるしかなかった。
空が白み始めた頃。私は定刻に目が覚めた。相変わらず私の体内時計は正確で、体は朝の仕事をしようとして目が覚めてしまう。宿に泊まった時はやることが無くてひたすらぼーっとしていた。暇すぎて気が狂うかと思った。
私は身を起こして、ぼんやりと朝日に照らされる部屋の中を見渡した。昨夜、ロゼットに私の部屋だと案内されたとき、私は言葉を失った。
寝室と続きになっている部屋はとても広く、落ち着いた色合いのカーテンと壁紙、アンティーク調の家具に心を奪われた。
(夢じゃなかった…)
部屋は昨日と変わっていない。ただ静かに、そこにあるものたちが佇んでいる。
私は静かにベッドから降りると、部屋にあった服の中で一番動きやすそうなものに着替えた。
昨夜、私は分かった。思い知った。私の人生は変わったのだと。今までの私でいてはいけないのだと。
「しっかりしなくては。ここで生きていくために」
優しい人たちに、報いるように。そして、私を助け出してくれたスピカ様に呆れられないように。
私は「よおし」と意気込むと、眠っている人々を起こさないようにそーっと部屋を出た。この時の私は、まだ大貴族の奥方がどのようなものか、さっぱり分かっていなかった。つまり、後で奥方がいなくなったと大騒ぎになることなど、予想もしていなかったのである。
私は未だ構造を掴めていない屋敷の中を勘で進み、勝手場に辿り着いた。予想通り、既に朝の支度が始まっていて、中では人がせっせと動いている。どうやら今は一人しかいないようで、手伝わなくてはという私の士気が高まった。
忙しそうにしている料理番に「おはようございます!」と挨拶すると、彼はこちらを振り向くことなく作業をしながら「おうおはよう」と言った。
調理台の上にジャガイモがある。朝食に使うのだろうか。
「お芋剥けばいいですか?」
「そうだ。頼む」
彼はやはりこちらに目もくれず返事をした。そのまま大きな箱を抱えて勝手場の裏口から出て行ってしまう。
残された私は腕まくりをしてナイフを手に取ると、手早く皮を剥き始めた。
「…終わっちゃった」
芋の数も大したことなく、普段からやり慣れた特段難しくもない作業はものの数分で終わった。料理番はまだ帰ってきていない。
手持無沙汰になり、勝手場を拝見することにした。どこに何があり、どのくらいの食材の在庫を抱えているのか把握しておきたい。
調理器具入れを調べた後、順番に戸棚を物色していく。ここの主は几帳面らしく、どれも清潔にきちんと整理されている。それに、かなりの腕前だ。私が調味料の品ぞろえの多さに感心し、手を伸ばそうとしたとき。
「おいいいい!そこは触るなって言っただ…ろ……」
戻ったのであろう料理番の大きな声が突然聞こえたと思ったら、徐々に尻すぼみになっていく。私は突然の声に驚いて、そのまま固まっていた。
彼の方も、私を見て固まっていた。
そして。
「お、奥様ああああ!!???」
更に大きい料理番の声が勝手場に響いた。
「申し訳ありません、勝手に触りまして…」
「いやいやいやいやそんな滅相も…俺の方こそ、てっきりジニーの奴が来たものと、あ、もう一人の料理番です」
私たちはコソコソと謝り合った。まだ早朝だ。スピカ様が起きてしまうかもしれないという今更な配慮である。
彼はアンソニーと名乗った。ここの料理番で、昨日の料理も彼の作だと言う。私は改めて昨夜の料理の素晴らしさを讃えた。アンソニーは口もとを抑えて顔を赤くした。
「まさか奥様がこちらにみえるとは思いもしませんで」
「あ、もしかして立ち入り禁止…」
「そういう訳じゃありませんが、奥様に手伝っていただいたなんて知れたら怒られます」
「え」
ポカンとする私をよそに、アンソニーは申し訳なさそうに頭を掻いた。
「奥様に芋を剥かせるなんて、俺はなんてことを」
私の心の中に侘しい風が吹く。
(申し訳なくないのに。手伝うのに)
そう思うのだが、私は自分が世間とずれていることを自覚している。きっとこの道十数年のアンソニーの方が正しいのだろう。
暗に手出し無用を宣言され、気持ちしょぼくれているとアンソニーはやんわりと私を勝手場から遠ざける様に一つの提案をした。
「どうです、散歩でもしてきては」
それはあまりにもザっとした言い訳だったが、私は素直に彼の言葉に頷いた。敬遠されるよりも、私のせいで彼が怒られる方が嫌だと思った。
勝手場の裏口から外に出ると、裏には畑が広がっていた。朝露に濡れた葉がキラキラと光っている。
(のどかだわ…)
昨日出された料理に使われたのも、ここの野菜だろうか。よく手入れされた畑をほうほうと感心して見ていると、私はあるものを見つけた。
「箒」
炊事は駄目でも、掃除はどうだろう。私はとにかく何か役に立たねばという一心で、箒立てにかかる箒を一本拝借した。
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