8 奥様扱い
ヴィルゴ家の普通の浴室に移ってからもひと悶着あった。一人で風呂に入るものと思っていた私は、いつまで経っても傍を離れないメイドに「お背中お流しいたします」と言われて仰天した。
「いいです!私一人で入れますから!」
「ええ!?そうは言いましても、奥様をお綺麗にするのは私の仕事でして…!」
対するメイドも私のお断りに本気で焦っていた。彼女の名はエリザ。聞けばヘアケア、エステ、マッサージ何でもござれという強者だった。
彼女自身を見ればその実力は明らかなのだが、如何せん私はだからこそ、自分の肌を晒すことができない。
(だって!今まで碌にお手入れもしてこなかったのに!恥ずかしくてこんな綺麗な人に披露なんてできない!)
「ほほほほ本当に人様にお見せできる体では無くて…!」
「まあ奥様、そんな奥ゆかしいことを!是非その原石を私に磨かせてくださいませ!」
恥じらっているのをいい感じに捉えられ、鼻息荒く詰め寄るエリザに私は必死で遠慮する。最終的に半泣きで抵抗している理由を告げると、エリザはキョトンとした。
「あら、そんなの。私全然気にしません。むしろやりがいがあって嬉しゅうございます」
エリザは事も無げに笑い、「失礼いたします」と私の髪の先を触った。
「ご無理にとは申しませんが、いかがです?髪だけでも、今日は私にお任せしてくださいませんか?」
「ふう…」
すったもんだを経て、私はようやくお湯に浸かった。柔らかなお湯が気持ちよく、全身から疲れが溶け出ていくような感覚がした。
結局、髪だけならと了承して体にタオルを巻き、彼女に頭を触ってもらったはいいが、私は酷く後悔した。
ものすごく、気持ちが良かったのである。
「痒いところはありませんかー?」と聞く彼女の指は私の髪や頭皮を絶妙な力加減で刺激した。触られているのは頭だけなのに、全身が緩まるような、とんでもない技術だった。
エリザは私の髪を吟味すると、色々な瓶の中から適当なものを選んで私の髪に揉み込んだ。洗い流した後、私は自分の髪が今までと劇的に違い、滑らかになっていることに驚愕した。
「すごい…」
思わず私が目を輝かせて呟くと、エリザは茶目っ気たっぷりにウインクをし、「他もお任せくださいね」と言って浴室から出て行った。
我ながらチョロいと思うが、既にその時にはエリザに信頼を置き、是非お任せしたい気持ちに傾いていた。
頭も体もゆるゆるになった状態で、私は浴槽の淵に頭を預けた。
(広いお風呂…)
湯気の立ち込める浴室を惚れ惚れと見回す。乳白色で統一された、落ち着く色合い。野花や麦など、素朴な植物の彫刻が天井に施されている。
「ヴィルゴは豊穣の象徴。この領土に広がる農地は我らの誇りです」
馬車の中でスピカ様は私に言った。その時、私は密かに「私には広すぎる」と思った。世間知らずの私にはこの家がどれほど大きなものを背負っているのか分からない。
使用人たちは私のことを「奥様」と呼ぶ。私がその本当の重さを知るのはいつになるのか。
「奥様、か」
厳密に言うと、まだ結婚していないので奥様ではない。呼ばれる度にこそばゆいような、恐れ多いような、不思議な気持ちになる。
「そう呼んでもらうには、私はまだ足りないわね…」
自分よりもはるかに綺麗で、よく出来そうな使用人たち。そういう『契約』だから、私を連れ出してくれたスピカ様。
このまま据え膳の如く与えられた地位に甘んじてよいのだろうか。
私は詰まる気持ちを吐き出すように、肺にたまった空気を一気に吐き出した。
私がサッパリほかほかになって浴室から出ると、着替え場には誰も居なかった。壁には何やら高そうなドレスが掛かっている。
「奥様、上がられましたか?」
着替え場の外から聞こえたエリザの声に、私は慌てて返事をした。
あれよあれよという間に、私は複数人のメイドの手にかかって、まるでどこかの貴婦人のような、夜の食事の場に相応しい恰好へと変身した。
鏡を見て、一瞬「誰だこれは」という顔をした私に、エリザは優しく笑いかけた。
「よく温まりましたか」
やってきた私を見て、スピカ様は『お父さん』のようなことを言った。何となく気恥ずかしく、私はぺこりと頭を下げる。動くといい匂いがして、私は自分で自分にびっくりした。
「うちの香油の匂いがしますね」
「あの、これ、とっても素敵な香りがします」
「気に入っていただけてよかった」
「それにしても」とスピカ様は言葉を継ぐ。
「中々いじられましたね」
スピカ様は眉を下げて楽しそうに私を眺めた。
(わー。そんなに見ないでください)
私は視線に耐え切れず、俯いて答えた。
「本当に、別人みたいにしていただいて…!鏡を見てびっくりしました」
「ははは。そこまでではありませんよ。ただ、髪形が変わったなあと」
髪以外も色々いじられている。顔にも何やらいい匂いのする液体を塗られてしっとりもちもちだし、唇にもクリームを塗ってもらった。
この変化が分からない彼ではあるまい、と私はスピカ様を訝しんでジッと見つめる。
「すみません、朴念仁なもので。そのくらいしか分かりませんでした」
(ああそうか…敢えて褒めないのね…)
絶対にどう見ても私は綺麗にしてもらったのに、スピカ様は言及しない。エリザの手の入った私を褒めては、それ以前の私を貶めることになると分かっているのだ。少なくとも、私がそう思ってしまうことをこの人は分かっている。
(何ですか、その心遣いは…)
私は泣きたくなった。鼻がツンとして、言葉に詰まる。これ以上この件は掘り下げないようにしよう、と私は別の話題を探した。
見ればスピカ様も着替えており、多少気楽な格好になっていた。上着を脱いでいる分、体の形が分かりやすくなっていて、私は存外体格の良い人だったのだなと驚く。
じろじろ見てはいけないと思い、私はスピカ様が手に持っていたグラスに目をやった。お酒だろうか。義父がよく飲んでいたウイスキーを思い出し、私はぎくりとした。泥酔すると、酷く当たり散らす人だった。
「お酒、飲まれるんですね」
私がぽつりと聞くと、スピカ様は「ああ」と言ってグラスを置いた。
「失礼。そうですね、嗜むくらいには」
「そうですか…」
どことなく暗い声が出てしまい、慌てて平静を取り繕う。
「カガシめ…酒でもやらかしたか…」
「え?」
スピカ様は何かを呟いたが、私は良く聞こえずに聞き返す。しかし、彼は繰り返してはくれなかった。
「この位でやめておきます。酒臭くて貴女に嫌われてはたまらない」
そう言うと、スピカ様は執事のディールさんにグラスを下げさせた。明らかに気を遣われた。まだ中が残っていたのに、と私が回収されていくグラスを眺めていると、スピカ様は何ともない様子で笑う。
「貴女を待つ間の暇つぶしでしたから」
(大人だわ…)
私はその言葉と、彼の流し目に否応なく顔が赤くなった。
「お食事の用意ができました」
もはや何を言ったらいいのかと途方に暮れていると、丁度メイドから声が掛かった。スピカ様は私に近づき、腕を差し出す。
(い、家で!?エスコートしてくださるの!?)
私はまたまた驚き赤面したが、彼が「どうぞ」と微笑むものだから、そろそろとその腕に手を添えた。
ディールさんが恭しく食堂のドアを開けると、私たちに向かって花びらが舞った。そして、ヴィルゴ家に仕える人々が口を揃えて「おめでとうございます!」と叫んだ。
(え?え?何が???)
いきなりのことに、私の体がビシリと固まる。私が目を白黒させてスピカ様を見上げると、大人で余裕いっぱいの彼は優しく目を細めた。
「お誕生日、おめでとうございます」
「えっ!!」
「遅れてしまいましたが」と言いながら、彼は手ずから私に椅子を引く。私は呆然として立ち尽くした。
誕生日を祝われたことなど、母が亡くなってから無かったのだ。
「……」
「おやおや」
私はスピカ様に目元を拭われて初めて、自分が泣いていることに気が付いた。
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