7 最初が肝心
ヴィルゴの広い屋敷に入ると、私はまず「奥様はこちらへ」とメイド達に抱えられるように屋敷の奥へ案内された。突然のことに心細さを覚え、スピカ様の方に助けを求めて首を向けるも、返って来たのは「いってらっしゃい」という朗らかな笑顔だった。
怒涛の勢いで連れて来られ、「こちらです!」と見せられたのは、もくもくと湯気の立つバスタブ。私は唖然とした。何故なら、ここは豪華ではあるが、一見普通の居間なのである。
本棚もあれば、椅子もある。なのに、真っ赤な絨毯の上でバスタブが当たり前のような顔をして鎮座していた。
(??????)
我が故郷ライラ領では湯につかる習慣があり、屋敷にもタイル張りの浴室が備えられていた。よって、バスタブとは浴室にあって然るべきものであり、決して机や椅子ましてや本と同居していい存在ではない。
(あ、飾り?飾りかも)
現実を受け止め切れなかった私の脳は希望的観測を唱え始めた。辛うじて生きていた冷静な自分が「絶対に違う」と囁く。
私は目の前に広がる光景にひしひしと嫌な予感を覚える。
メイドたちはせっせとタオルやら、いい匂いのする石鹸やらを用意してにこにこしている。明らかに入浴の支度だ。一体今からここで誰がバスタブに浸かろうと言うのか。
(ま、まさか)
私の全身からドッと嫌な汗が噴き出した。
「長旅お疲れ様でございました」
「あ、はい、いや、いいえどうも」
しっかりしたお姉さん風のメイドが私を労ってくれたが、混乱した私の口からは肯定と否定が共存した返事が出て来た。私は自分でも何を言っているのだかよく分からなかった。
「若様、こちらを」
「ああ、ありがとう」
スピカは執事のディールが持って来た紅茶のカップを口元に寄せる。執事は恭しく一礼し、スピカの椅子の傍に控えた。
「ご無事でようございました。皆張り切ってお待ちしていました」
「そのようだな。私のお嫁さんが屋敷に入って二歩で雪崩れるように連れて行かれてしまった」
先の不安そうなベガの顔が浮かび、笑ってはいけないと思いつつ、スピカは笑みを零した。まるで親から引き離される子供のような顔だった。連行先は風呂とのことだったので、可愛そうだが着いて行ってはやれない。きっと戸惑うだろうがよく温まって疲れを取ってきて欲しい。
「なにせ、王都風のバスタブまで用意したくらいです」
執事がさらりと落とした情報に、スピカはゴフ、と咽た。
「…待て、『王都風』と言ったか?」
「ええ。若いご婦人には喜ばれるだろうと。先日搬入したばかりです」
スピカはカップを脇のテーブルに置き、無言で立ち上がった。
「それにしても、バスタブを浴室に置かないとは。王都の文化はやはり分からないことが多く…おや、若様?」
ディールはどこかに行こうとするスピカを呼び止める。
「…どこだ」
「はい?」
「彼女が連れて行かれたのはどこの部屋だ」
ディールはギョッとして「いけませんよ!ご入浴中です!」と主を諫め、スピカは「ああもう」と片手で額を抑えた。
私はニコニコ顔の、どことなく鬼気迫る雰囲気で近づいてくるメイド達からじりじりと距離を取った。
「さあさあ、奥様!王都で流行している石鹸も取り寄せましたし、香油は当家自慢のものがございます」
「あああああの、いえ、お気持ちだけで…」
今は石鹸や香油など、はっきり言ってどうでもいい。問題なのはこの衆人環視の中、浴室でもないところで私一人風呂に入れという訳の分からないお誘いである。
(ヴィルゴ家ではこうなの!?それとも世間ではこうなの!?)
一般的な判断基準が分からないので、自分の今までの感覚に縋るしかないのだが、例え私の常識が「それは一般的じゃないですね」と言われても、断固御免だと思った。
「だ、だれかあああ!」
私が情けない声を上げたとき。
「大丈夫ですか!?」
部屋のドアが勢いよく開き、スピカ様が駆け込んできた。メイド達から「キャー!!」と悲鳴が上がる。ちなみにまだ服は着ている。
私は現れた救世主に助けを求めて駆け寄った。スピカ様は浴びせられる悲鳴の中、私を確保するとメイド達に呆れた顔を向けた。
その表情から、メイドたちは何か間違ったらしいと悟り、部屋の中は一瞬で静かになった。
(怖かった…怖かった…!)
怯える私を背に隠し、スピカ様は入浴セットを手にしたメイド達に言った。
「皆、張り切ってくれたところ悪いが、彼女は王都風は苦手だ。普通にうちの浴室を案内して差し上げなさい」
私はその言葉に「え」と声を上げた。普通に浴室が存在するらしい。私は心の中でホッとして崩れ落ちた。良かった、これがこの家の普通でなくて本当によかった。安堵する一方、「ということは」とスピカ様の言葉の意味を考える。
彼女たちは私が来るからと、わざわざこの『王都風』らしいバスタブと部屋を用意してくれたということで…。
(厚意を無下にしてよいのかしら…)
メイドたちのどことなくしょんぼりとした空気に、些かバツが悪くなった。そんな風に人に何かをしてもらったことなど無いのだ。せっかくの気遣いを無駄にしてしまうことに激しい申し訳なさを覚えた。
「彼女も地方の人なのだから、突然こんな風呂に入れとは難度が高過ぎる…」
「申し訳ございません…お若い方でしたら喜ばれるものかと…」
「王都の流行りに憧れている人だったらそうかもしれないが…」
スピカ様は部屋の真ん中に設置されたバスタブを見ながら苦い声を漏らした。主の駄目出しに、私を労ったあのお姉さんメイドはどんどん頭を下げていく。私の心に益々罪悪感が募った。
動揺して見落としていたが、バスタブは真っ白でピカピカ、さりげなく金色の装飾が輝いており、白濁色の湯には花びらが浮かんでいた。
メイドの手にある石鹸は花の文様が刻まれており、それだけ見れば確かに心が躍る。
彼女達からしてみれば、私がどういう人間かも分からないまま一生懸命準備したのだろう。
「あ、あの…」
恐る恐るスピカ様の背から顔を出して口を挟むと、その場に居る人の視線が一斉にこちらに向いた。ひえ、と身を縮こませる私に、「どうなさいました?」とスピカ様は柔らかく応えてくれる。
「また、いつか入り」
「ベガ様」
スピカ様は少々険しい顔になった。私はそのわずかな圧にすら息を飲み、言い切ることなく口を閉じる。どうやらまた何か間違ったらしい。
「こういうのは、最初が肝心です」
表情こそ険しいと思ったが、スピカ様の声は穏やかだった。「そうだろう、皆」とスピカ様がメイド達に振り向く。スピカ様の向こうに並んでいた彼女たちは気を取り直した様子で力強く頷いた。
「そうです、奥様!どうか、忌憚なくおっしゃってください。その、ついお迎えできるのが嬉しくてはしゃいでしまいましたが…」
「う、嬉しくて…?」
人の好意に飢えていた私は、はしゃいでくれたというメイドの言葉に、このままバスタブに浸かってもいいかも、いや浸かるべきかもしれないという考えに傾きかけた。
しかし。そんな私の頭の中を覗いたのか、スピカ様はゆっくりはっきり「ベガ様」と私を呼んだ。
「最初が肝心と申したでしょう。心の底では気が乗らないのに、変に気を遣って合わせる必要はありませんよ。ここは貴女の家なのですから、特に」
「は、はい…」
「また、いつかなどという約束まがいのことをするのも、他でもない貴女の心の負担になるのでは?」
ぐうの音も出なかった。スピカ様はついこの間初めて会ったにしては、私のことを私以上によく分かっている。
諭された私はやっと落ち着きを取り戻し、改めてチラリと件のバスタブを見る。
(…やっぱり)
「普通のお風呂がいいです…」
小さな声で正直に言うと、メイド達は「はい!」と統率の取れた動きで準備をし始めた。せっかく用意してくれたのにと思いながらスピカ様に視線を向けると、彼は満足そうに頷いた。
お読みいただきありがとうございます!